第一幕 繋いだ手
第一幕 繋いだ手
あの日、僕はアイドルを見つけた——
入学して、まだ一週間も経ってない教室は、どこかよそよそしい空気のままだった。
ホームルームまで、あと十分。クラスメイトたちの声が、まだ馴染めていない名前と一緒に飛び交っている。
僕は窓際の席で、ノートを開いて絵を描いていた。
ノートの上で、ステージに立つ女の子が躍動していた。マイクを握り、笑っている。上手くはない。でも、描いていると張っていた肩の力が抜ける。
喧騒が遠くなる。ペンを動かしてる時間だけは、呼吸が楽になる。
「……それ、桐谷くんが描いたの?」
突然、後ろから声がした。
振り返ると女子が一人、僕の背中からノートを覗き込んでいた。
「……!」
僕は、すごい勢いでノートを閉じた。
「あー、待って待って」
全身で待ってを表現している女の子。
確か——
「結城、さん……だったよね?」
「うん! 結城沙友里だよ」
結城さんは、穏やかに微笑んだ。
「ねぇ、さっきの絵。見せて」
「え……で、でも……」
「いいから」
反論を許さないその圧に負け、僕はノートを開いた。
結城さんは、目を輝かせて見ている。僕の背中から冷たい汗が吹き出す。
「……すごい。本物のアイドルみたい」
動きが止まった。
上手い、ではなかった。アイドルだと言われた。
それが、何より嬉しかった。
「結城さんって、アイドル好きなの?」
「うん! 歌もダンスも好き」
「へぇ」
クラスの女子と、こんなに長く話すのは初めてだ。
「桐谷くんは? 絵、ずっと描いてるよね」
「……輝いてるから……好き、だよ」
「そうなんだ……」
結城さんは、もう一度ノートに目を落とした。
「この子、すっごく楽しそうに笑ってる」
技術ではなく、表情を見てくれた。それは僕にとって、最上級の褒め言葉。
胸の奥が温かくなった——
それからは毎日のように、結城さんと言葉を交わした。
僕は漫画研究部、結城さんはダンス部に入り、帰り道もよく一緒になった。好きな音楽の話、漫画の話、学校の話。話題は尽きない。
結城さんは笑う時、少しだけ目を細める。嬉しい時も、照れた時も。
その笑顔が好きだ。
鼓動が高鳴る。
なのに、結城さんの隣は不思議と落ち着いた。
五月の終わり頃、帰り道に大型ビジョンがアイドルを映し出していた。結城さんが立ち止まる。
「いいなぁ……」
ため息混じりに呟く。
「実は私、アイドルに憧れているんだよね」
何故か、結城さんの視線が泳いでる。
「向いてると思う」
僕は即答していた。
「え?」
「人を惹きつけるの、上手いから」
結城さんは大きな瞳を、さらに大きく見開いた。そして、いつものように目を細めて笑った。頬が少しだけ朱色に染まっている。
(可愛いな……)
教室でも目立つ結城さんは、すでにクラスのアイドルだ。彼女と話していると、男子からの視線が刺さる。
「桐谷くんは? 漫画家、なりたいんでしょ?」
「そう、だね」
「絶対なれるよ」
迷いのない声だった。
結城さんはいつも、僕を認めてくれる。真っ直ぐに言葉を渡してくれる。
だからこそ——
「いつか……ステージにいる結城さんを、描いてみたいな」
「……えっ」
僕は画面の向こうで踊るアイドルを見上げながら、心臓の音を聞いていた。
(そうか、そうだったんだ……)
僕は初めて自覚する。
——彼女のことが好きだ。
六月、梅雨の晴れ間の夕方。
いつもの並木道を、いつものように二人で歩いている。
沈黙すら愛おしい。
そんな当たり前で、特別な時間。
「……ねぇ、桐谷くん」
「ん?」
「今日、麻衣に聞かれたんだけど……」
「何を?」
結城さんは立ち止まった。一拍遅れて、僕も立ち止まる。振り返ると、彼女は顔を少し伏せていた。
その様子に、僕は胸が騒いだ。
「ど、どうしたの?」
「……私たちって——」
彼女は顔を上げた。
「私たちって——付き合ってるの?」
僕の心臓が大きく跳ねた。
「ほとんど毎日、一緒に帰ってるし……こんなに話す男子、桐谷くんだけだよ」
頭が働かない。ダメだと分かっていても、言葉が出てこない。
彼女は、真っ直ぐな瞳を伏せてしまった。
「私は……そのつもりだったけど……」
その言葉が、僕の胸に刺さった。
(僕は……バカだ!)
顔が熱くなる。
鼓動がうるさい。
彼女の笑顔が消えている。
伝えないと。
「僕は——」
彼女の視線が動いた。
「結城さんのことが——好きだ」
その言葉が、二人の間を繋いだ。
彼女の瞳が見開き、その輝きを増す。僕は目を離せない。
彼女が少しだけ目を細めて笑う。
初めてみた時から、ずっと好きだった笑顔。
頬を流れる雫だけが、いつもと違う彼女を魅せていた。
「やっと……言ってくれた」
その日の帰り道、僕たちの距離は少しだけ近くなった。
実感は、まだ湧かない。声が上擦り、会話が続かない。沈黙が、胸を高鳴らせる。
信号が赤になった。
彼女の手が、僕を探していた。だけど、途中で指が止まる。
僕は——その手を繋いだ。
小さくて、柔らかい。
そして、少し震える指先。
全て、初めて知った。
彼女が微笑む。
「……なんか、照れるね」
「……うん」
僕も多分、笑顔を作れている。
夕日が、二人を同じ色に染めていた。
やがて、信号が変わり、僕たちは手を繋いだまま歩き出す。
僕は、その手を少しだけ強く握った。
——ずっと、離れることがないように。




