第8話 第一封印解除
音が、先に壊れた。最初に来たのは爆音ではなく、深い場所で重たい歯車がひとつ外れたような、鈍くて巨大な、地鳴りに似た振動だった。ルーティアは前へ踏み出したまま、胸の奥で何かが解けるのを感じていたが、それは皮膚の下でも骨の中でもない、もっと深く、もっと古い、自分という器の内側で、長いあいだ閉じられていた扉が軋んで開くのである。
カチン
とそのあまりに重かった音が響いた瞬間、格納庫の空気は一変して埃が床へ叩きつけられ、浮いていた油煙が一気に下がるとともに、天井の配管が震えて古い照明が一斉に明滅した。ミリーが思わず息を呑み、バルドが砲座のハンドルから手を離す。
「おい」
老ドワーフが低く唸った。
「来るぞ」
何が来るのかは分からなかったが、ルーティアにも唯一理解できたのは、彼女の胸の奥に押し込められていたものがひとつ外れたということだけだった。そこには確かな恐怖があったものの、それより先に炎や熱ではない、空間そのものが押し潰されるような金色の質量を伴った圧と重さが押し寄せてくる。
彼女の身体の周囲に立ち上がった淡い光は、眩しさよりも重量感が勝る黄金の魔力圧であり、空気が沈んで床板がきしむなか、金属ラックに並ぶ工具が見えない何かに押されて震えだした。進路を変えようとしたドローンの一体はそれに失敗し、推進部が軋んで外殻が歪むと、そのまま床へ押し付けられた。
「何だあれ」
ミリーの声が引きつるなか、カイエンは答えることができず、ただルーティアの背中を見つめていた。そこにいるのはさっきまでの少女ではあるものの、壊れているのではなく、まだ開いていない機構が奥で目覚め始めているその姿は、人間の感覚でいえば巨大な火器の安全装置が外れる瞬間に非常に近かった。
ルーティアが一歩踏み込んだだけでドローンの群れが押し潰されたが、そこには音はせず、正確には空気の圧によって機械の悲鳴さえ立ち上がる前に押しつぶされていく。外殻がめり込み、刃が折れて赤い眼がひび割れるなか、群れの数が多ければ多いほど、同時に壊れる様は凄惨であり、それは壊れるというより床へ叩きつけられた紙束みたいに見えるのである。
「撃て!」
カイエンが叫んだ声を合図に、人間たちが反射的に散弾を叩き込み、マキアの管理で従属解除されたゴーレムたちも、バールやナイフや火かき棒で残骸を叩き始めた。それぞれ役割は違っていたものの、全員の向いている方向は同じだった。
ルーティアは自分の手を見たが、それは震えていないか、あるいは震えているのを上回るほどの力が漲っており、指先から黄金の圧が漏れて空間が重く沈んでいく。彼女が左へ手を振るとドローン二体が壁へ吸い寄せられたように叩きつけられ、右へ振ると刃が折れて床がへこんだが、これは魔法ではなく、もっと単純でもっと暴力的な何かだった。
古代の機械は命令を超えた瞬間に世界を壊すという「ハードウェア性能」の言葉が、なぜか頭に浮かぶなか、ルーティアはその決定的な瞬間をまさに体験していた。
「抑えろ」
バルドが叫ぶ。
「いや, 無理だ」
マキアの通信が格納庫に割り込んだ。
「それ、抑えるものじゃない。今は逃がしなさい」
彼女の声は冷静だったが、その冷静の裏にはわずかな興奮があり、それは目の前で何かが目覚めるのを見た者の、管理者らしい計算だった。ルーティアが息を吸うと、肺に入るたびに黄金色の圧が身体中へ広がるほど空気が重く、胸の奥の錠前がひとつ外れただけで世界がこれほど変わるのかを、彼女はまだ知らないものの、もう知ってしまったのである。
自分は脆い少女ではなく、少なくともそれだけではないと確信するなか、喉元へ刃を突き出してきたドローンの一体に対し、ルーティアはほとんど無意識に手を添えた。刃はその圧によって止まってそのまま破裂し、外殻が散って回転軸が外れ、火花が顔をかすめたが、熱さを感じる一方で痛みは薄く、痛みが来る前に圧がそれを上書きするので、自分の身体が自分のものではないみたいに動く。
「ルーティア!」
カイエンが名を呼ぶ。
その一声が彼女の胸に少しだけ届いたとき、自分は今、誰かに名前を呼ばれているのだという事実が妙に嬉しかった。
しかし、その一瞬の隙を裂くようにして、上層からの「神の雷」と呼ばれるあまりに白すぎる光条が格納庫の天井を貫いて落ちてくる。熱が空気を焼き、古い梁が悲鳴を上げて火花と粉塵が飛び散るなか、ひとつの格納棚が蒸発してそこに置かれていた弾薬箱が爆ぜたため、ミリーは床へ伏せ、バルドは砲座の遮蔽板を引き上げた。
「来たか」
カイエンが舌打ちする。
「予定より早い」
「前倒しなんて、上の連中らしいね」
ミリーは笑おうとしたものの、笑う前に全員死ぬかもしれないからという恐怖で失敗し、だからこそルーティアは、これが村を焼いたやつらのやり方なのだとようやく理解した。遊びではないと言いながら、実際には美しい光を落として下で生きる者の生活を焼き払う、そんな遊びの延長で世界を破壊する行為が許せなかった。
誰もこんなふうに消されていいはずがなく、誰も壊されるために作られていないという感情が胸の奥で大きくなった瞬間、ルーティアの胸の中で、もうひとつのロックが外れかけた。まだ完全ではないものの、封印の端が燃えているのを感じながら、彼女は歯を食いしばり、喉の奥で低い音を漏らした。
「……やめて」
誰に向けた声かは分からなかったが、言葉が届かない代わりに身体が応え、黄金の圧がさらに濃くなって圧縮された空気がドローンの残骸を床へめり込ませた。それはまるで、見えない天蓋が地下全体に降りてきたようだった。
「隊長!」
地下通路の向こうで、別の兵が叫ぶ。
「外のハッチが開く!」
「誰が?」
「上の騎士団だ!」
その言葉に格納庫の空気が一気に冷え込み、ここを焼き払うための本物の部隊である本隊が迫っていることに、ルーティアはハッと顔を上げた。壁の一部が崩れた細い煙の向こうで上層の機械音が聞こえ、それは戦車のような足音ではなく魔導アーマーの重い踏み込みであり、光る鎧や整った槍による美しい破壊という、あの世界の本性が今ここへ降りてくる。
「要塞の核を叩かなければ」
カイエンが言う。
「全員灰だ」
またその灰という単語を聞き、灰にされるのはもう嫌だと強く思いながら、ルーティアは拳を握った。
「行きます」
自分で言って自分で驚いたものの、カイエンは力強く頷いた。
「当然だ」
ミリーが笑う。
「よし。じゃあ、地下の子たちに地上の空気を吸わせよう」
バルドが砲座を叩く。
「その前に、道を開ける」
そして、古い対空砲が火を噴いた。
轟音とともに床が跳ね、外周のハッチへ向かって、古代兵器の残り火であろう圧縮された破砕光の柱が走る。その光は何体ものドローンをまとめて吹き飛ばして天井に穴を開け、そこへ人間たちが一斉に走り出したが、ルーティアの足は、封印の奥に深い闇のような巨大な何かが見えたことで一瞬だけ止まった。
この先にまだ十数重の錠前があるなかで、今外れたのはほんのひとつに過ぎなかったが、それでも身体の底から黄金が噴き出していた。
「ルーティア」
カイエンの手が、彼女の肩へ触れた。
「今ここで止まるな」
その掌から伝わる機械ではない命の熱を感じて、ルーティアはようやく前へ踏み出したが、天井からさらに白い雷が落ちてきてももう遅く、彼女の身体は圧で応えて一歩一歩で雷の光を押し返し、砕けた床板の向こうへ飛び出していく。
飛び出す直前に一瞬だけ振り返ると、格納庫の床にはさっきまで自分を殺しに来ていたドローンの残骸が転がっていたが、それを見ても恐怖は薄く、むしろこんなものに何度も人が殺されていたのかと思うと余計に腹が立った。機械が悪いのではなく、命令を出した側が悪く、壊れても戻ると信じて何度でも殺す側が悪いのだと憤っていた。
「ルーティア」
ミリーが短く呼ぶ。
「行く」
その返事に、ミリーは笑う。
「いい顔になってきた」
「褒めていませんよね」
「褒めてるよ。戦う顔だもの」
そんな軽い会話の軽さこそが救いであり、地下で育った緊張がほんの少しだけ人の言葉に戻るような、生きている者同士のくだらないやり取りがあるからこそ、戦場でも人は壊れ切らないのである。
カイエンは前へ出た。
「ハッチまで十秒」
「短いな」
「十分だ」
彼は銃を構えたまま足元を見ず、迷っている暇がないのではなく、迷うという行為そのものを戦場に置いてきたような顔をしていた。ルーティアはその横顔を見て、自分の痛みより先に誰かの動線を見るこの人はずっとこうやって生きているのだろうと考え、それは優しさとは少し違うものの、温かくてなぜか胸の奥が少しだけ痛くなる。
追ってくるドローンを足止めするため、バルドが背後で通路の一部を爆破したことで、粉塵と火花が舞って古い石壁が崩れて空気が濁り、そこへ外から要塞の上部がまた焼かれている別の衝撃が来ると、地下は揺れて照明が一瞬だけ消えた。
闇のなかで、ルーティアは不思議と怖くなかった。
いや、恐怖はあったものの、その怖さは足を止めるものではなくなっており、怖いからこそ前に出て誰かのために拳を握るという感覚を、彼女はうまく言葉にできないながらも身体はもう知っていた。
黄金の圧が胸の奥で波打つなか、外に出ればもっと大きな戦場や多くの敵がいて、さらに多くの人が死にかけていると予期しながらも、ルーティアは口元を引き結んだ。
「私、壊れません」
誰に言うでもなくそう呟くと、カイエンがちらりと彼女を見た。
「それはこっちの台詞だ」
「じゃあ、二人とも壊れないでください」
「無茶を言う」
「無茶のほうが、まだ生きている感じがします」
その返答に、ミリーが吹き出した。
「好きだな、その言い方」
ルーティアは少しだけ困った顔をしたが、それは笑われたのが嫌なのではなく、自分が人間みたいに会話していることが妙にくすぐったいからであり、ずっと一人で壊れていたわけではなくここには返してくれる声があるというそのくすぐったさが、今はただ嬉しかった。
ルーティアは最後にもう一度胸を押さえたが、そこでは第一のロックが外れたまま奥にさらに深い錠前の列がまだ眠っており、見えないほど巨大なそれを怖いと思いながらも、同時に少しだけ楽しみだと思ってしまったのである。
「行きます」
今度ははっきりと言うその声が自分のものだと分かったが、ハッチの向こうには金属や木が焦げる焼ける匂いや、遠くで人が叫ぶ声、そして爆発のあとに残るひどく乾いた静寂という外の熱があった。ルーティアはその匂いを吸い込んで胸を少しだけ張ったが、もう逃げ場はないものの、逃げ場があると逃げたくなるからこそこれでいいのだと自分に言い聞かせていた。
カイエンが最後に振り返る。
「外に出たら、俺の指示に従え」
「分かっています」
「分かってない顔だな」
「そうですか」
「そうだ」
短い会話ではあったものの、長い説明をせずに必要なことだけを言う彼のその短さは妙に心地よく、だからこそ信じやすかった。
ルーティアがハッチの取っ手に手を掛けると、冷たい鉄に古い油の匂いが残っているのを感じながらそれを開けたが、その瞬間に、上から夕方の光とも燃えている光ともつかない眩しい赤が差し込んできた。要塞の外壁が炎に包まれ、空には黒煙、銃声、魔導の光、そして村の片隅から火柱が立ち上がるその光景に、ルーティアの目は一瞬だけ大きくなる。
そこは彼女が何度も見た「朝」の村ではなく、壊される途中の世界であったが、その壊れ方があまりに見覚えのあるものだったからこそ、嫌だ、またこれか、という思いが胸の奥で一気に強くなっていった。だから彼女はもう一度強く拳を握り、掌から黄金の圧が漏れるのを見たカイエンは、その様子に短く頷いた。
「いい。使え」
「何を」
「その力だ」
ルーティアはその言葉に少しだけ笑いそうになったが、それは使えなんて言われたのが初めてだっただけでなく、奪われるためではなく使うために力を持っていいと言われたのが、もっと初めてだったからである。
彼女は、胸の奥の重い錠前がさらにひとつ外れかけるのを確かに感じながら、地上へ向かって力強く足を踏み出した。




