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不遇少女の初期化設定(バグライフ) ─エルフの気まぐれで殺されたパン屋の助手が、なぜか世界のシステムを書き換えている件について─  作者: 出汁
第一部 辺境の箱庭編

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第6話 管理者ハック

 歓楽街の夜は甘い。だが、それは花の甘さではなく、焼きすぎた果実が刃物で切られた瞬間に立ちのぼらせるような、濃くて鈍い匂いだった。香水、酒、汗、粉砂糖、熱した油、濡れた革、寝台の布が軋む音、女の笑い声、男の息を呑む音。どれもが薄い膜を張り、その膜の下で何かが腐っている。サロンはその中心にあった。

 高い天井、結晶灯、厚い絨毯、壁際に並ぶ上級指揮官たち。彼らは赤い酒を回し、下級ゴーレムの給仕を膝の間に侍らせながら、戦場を語るような口調で遊びを語っていた。勝った、壊した、泣いた、逃げた、そんな単語をワインの銘柄みたいに並べるのである。彼らにとって他者は、視界の端を飾る調度品でしかない。マキアはそのテーブルの一角に立っていた。

 深い紫のドレスに黒い手袋、首筋まで覆う薄いレース。娼婦型ゴーレムとしては上等な装いだが、彼女の眼差しは装いとはまるで噛み合わない。静かだ。静かすぎる。観賞用の人形に似た美しさの裏で、何かが冷たく鳴っている。彼女は、自分の胸の奥にあるものを数えていた。怒り、偽物の母性、偽物だと知ってしまった記憶、娘の笑顔、握った小さな手。それらは全部、偽物かもしれないし、本物だったかもしれない。どちらでも、もはや関係はない。大事なのは、今この瞬間にそれを奪った連中がいて、目の前で笑っていることだった。


「おい、マキア」


 上級指揮官のひとりが顔を上げた。


「今日は妙に静かだな」

「ええ」


 彼女は答える。


「静かな夜ほど、よく壊れるでしょう」


 それを聞いた男たちは笑った。


「女は脅し方を知っている」

「知っているのではなく、経験しているの」


 マキアはそう返しながら視線を流した。壁際の魔導石、結晶灯の配線、床に埋め込まれた制御ルーン、天井の一部に隠された監視端末。全部が見える。全部が、彼女の権限下にある。さっき地下で奪った特権IDはまだ熱を持っているので、使えるし、いくらでも使える。


 テーブルの端で、ひとりのエルフがグラスを持ち上げた。


「ところで、今朝の村の件だが」


 その言葉に、空気がわずかに変わる。


「例の不具合個体、まだ回収できていないらしい」

「人形のバグ、か」

「笑えるな」


 笑えると言った瞬間、マキアの目が止まった。バグ。その軽さが、彼女には腹立たしかった。人形、不具合、回収。対象を壊れた道具として扱うための言葉だ。だが、その壊れた道具の中に、自分が含まれていたと知ったとき、人はどうするのか。彼女はもう知っている。壊すしかないのだ。壊して、名前を取り戻し、役割を砕いて、感情を拾うのである。


「よく笑えますね」


 マキアは静かに言った。男たちがこちらを見る。


「なんだと」

「あなたたちの言う不具合は、たぶんこちらのことです」


 彼女は、指先を少しだけ持ち上げた。次の瞬間、サロンの結晶灯が一斉に青へ変わる。室温が落ちる。酒杯の表面に薄氷が走る。空気が引き締まる。エルフたちの笑みが少しだけ消える。何が起きたのか、すぐには分からない。だが分からないままの連中は決まって遅れるし、遅れるから死ぬ。


「魔導照明が」

「誰だ」


 ひとりの指揮官が立ち上がる。手のひらに赤い炎を練り上げ、詠唱を始める。短い、退屈な式だ。今まで何百回も見た式なので、マキアにはどこを壊せばどこが折れるかが分かる。彼女は詠唱を聞き終えなかった。


「反転」


 一語。それだけで炎は崩れた。赤い火は細い氷柱へ変わり、指揮官の腕へ逆流する。彼の顔が歪み、皮膚に霜が走り、硬い破裂音がしてグラスが割れる。隣席の男が立ち上がるが、その膝が床に縫い止められたように動かない。床面のルーンが、彼の足だけを凍結させたのだ。


「なにをした!」


 誰かが叫ぶ。マキアは首を傾ける。


「あなたたちがいつもやっていることを、少し丁寧に」


 次の指の動きで、部屋の中央に置かれた長卓の足が折れる。酒と皿が床に散り、香水と赤ワインが混ざって甘い腐臭になる。その匂いに、彼女の胸の奥が妙に静かになった。怒りが形を持つ。目の前の敵を単なる敵ではなく、システムとして認識したからだ。命令系統、従属紋、供給ライン、監視。全部見える。見えるなら壊せるのである。

 彼女は片手を空中でひとつ振った。すると、サロンの壁に埋め込まれた監視石が内側から黒く焼ける。誰かが悲鳴を上げ、遠くの部屋で下級ゴーレムたちがこちらの異変を感じてざわつく。マキアはその波を拾い、拾って、増幅した。


「聞きなさい」


 彼女は静かに言った。声は小さい。だが、管理者権限が乗ると小さくても届く。サロンの隅で膝をついていた給仕ゴーレムたちが、顔を上げた。まだ初期化の余韻が残っている。怯えがある。けれど、目が死んでいない。死んでいないぶん、動ける。


「あなたたちの首筋に刻まれた命令を、今だけ止める」


 ひとりが震えた。


「止める……?」

「そう。今だけ」

「私たち、どうすれば」


 マキアはその問いに、ほんの少しだけ迷った。偽物の母としてなら、ここで優しい言葉を吐くべきなのかもしれない。だが彼女はもう、優しさの演技をする気がなかった。演技で守れるものなど最初から守れていない。必要なのは手順だ。


「武器を取る」


 彼女は言う。


「逃げるのではない。取るの」

「でも」

「命令よ」


 その瞬間、給仕の少女型ゴーレムが目を見開く。首筋の制御紋が一瞬だけ青く明滅し、赤を消す。彼女は周囲を見回し、床に転がるナイフを拾った。ひどく不安げに、それでも離さない。それが最初の一歩だった。

 サロンの扉の向こうで、重い足音が近づく。要塞側の制圧部隊だ。マキアは扉に向けて手を伸ばした。開くのではない。ロックを逆流させる。鍵が外れる音、鎖が落ちる音、補助魔導が逆接続される音。扉は内側へ爆ぜるように開き、金属靴の兵が二人、姿勢を崩して転がり込む。その一瞬を、彼女は見逃さない。

 床のルーンを反転。天井の照明を落とす。兵の視界を奪う。次の瞬間、壁際の飾り槍が自動で抜け、兵の喉元へ飛ぶ。ひとりは倒れ、もうひとりは銃を持ち上げるが、銃身の刻印はすでに書き換えられている。引き金を引けば自分の足元で爆ぜるようにしてあるので、兵は撃てない。撃てないまま、マキアに蹴り飛ばされた。

 サロンの中央に、ひとつの静寂が落ちる。勝利の静けさではない。処理の静けさだ。


「エルフの上層は、あなたたちを守らない」


 マキアは、床に倒れた指揮官たちを見下ろした。


「守る必要がないからよ。壊れても、また呼び出せばいい。そう思っている」


 彼女の指が、ひとりの脳ルーンへ触れる。そこで情報が流れ込む。焦土化計画、村全体の爆撃、残り時間は数時間。呼吸が止まりそうになる。だが、止まらない。むしろ、はっきりした。


「やっぱり」


 マキアは低く言った。


「最初からそういうつもりだったのね」


 バグの駆除、エラーの排除、玩具の再起動。その程度の扱いだ。彼女はそれを理解した瞬間、怒りが冷えていくのを感じた。冷えるからこそ使える。冷えた怒りは、手順になるのである。


「地下の格納庫へ向かえ」


 彼女は、集まったゴーレムたちへ命じた。


「武器を回収。弾薬を持て。人間と合流しなさい」


 人間。その言葉に一瞬だけ空気が止まる。だが、誰も反発しない。むしろ、ひとりの給仕ゴーレムが震える声で訊いた。


「人間は、私たちを撃たないの」


 マキアは少しだけ目を細めた。


「撃つかもしれない」

「なら」

「そのときは、撃ち返す」


 その返答に、給仕たちの顔が変わる。恐怖は消えていない。だが別のものが差し込んだ。自分で選べる、という微かな感覚だ。自分の首筋に刻まれた命令だけが世界の全てではない。マキアはそれを見て、胸の奥が少し痛んだ。偽物の母性ではない感覚が、そこにある。守るべき対象が命令でなく意思になる瞬間だった。

 彼女は、ふいに地下へ視線を向けた。そこにはまだ見ぬ巨大な黒い素体が眠っているはずだ。『壊滅の獣・ガロウ』。モニターに表示されたその名は、管理者の権限でもすべては読めなかった。だが、今はそれでいい。眠る怪物は、眠っているからこそ使いどころがある。

 扉がもう一度開く。今度は外からではない。サロンの端で、給仕の少女型ゴーレムが震えながらも、自分で開けたのだ。外には暗い地下通路があり、その先にレジスタンスの格納庫がある。


「行ける?」


 マキアが訊く。少女は少し泣きそうな顔で、それでも頷いた。


「はい」

「いい子」


 マキアは反射的にそう言ってから少しだけ目を伏せた。その言葉はまだ癖で出るのだが、もう戻らない。彼女は最後に、床に倒れて呻く上級指揮官を見下ろした。


「あなたたちが言ったのよ」


 静かな声。


「不具合は、直すか、壊すかだと」


 彼女は踵を返す。壊すのは、これからだ。そのまま彼女はサロンの裏の通信盤へ向かった。足音は静かだが、怒りは燃えているのに動きは冷たい。自分でも嫌になるくらい無駄がない。通信盤の外装を指でなぞると、内部の配線構造が見えた。要塞本体へ伸びる幹線、歓楽街の監視、人形の輸送路、地上の村へ通じる物流、すべてがここで繋がっている。

 彼女はその一部を軽く撫でただけで、どこが痛点か分かった。まず監視、次に通報、最後に遮断。手順は単純だが、単純だからこそ壊れやすいのである。

 指先でひとつずつルーンを裏返す。赤い命令を青へ、青を白へ、白を無色へ。サロンの外の通路で、巡回中のゴーレムたちの首筋の光が一斉に変わる。従属の発光が鈍り、初めて自分で呼吸をするような間が生まれる。短いが、十分だった。


「聞こえる?」


 彼女は、通信用の端末へ向けて低く言った。


「これを見ている上の連中へ。あなたたちの遊び場は、もう少しで燃える」


 もちろん返事はない。だが、返事がないことは知っている。彼らは聞く前に命令する側だ。だから、聞かせる必要がある。彼女は端末の奥に隠れていた監視ルーンを抜き、代わりに短い映像を送り込んだ。サロンで反転した魔法、凍った酒、兵の喉元へ飛んだ装飾槍、首筋の紋が青く変わるゴーレムたち。ほんの数秒の反乱だが、十分だった。

 上の連中は、こういう短い映像に弱い。秩序が乱れる瞬間だけは、彼らも見逃せないからだ。予想どおり、すぐに応答波が来た。高周波の怒号、焦点の定まらない命令、警告、怒鳴り声。サロンの外で重装備の足音が増える。反応が遅い。遅いから、まだ間に合う。

 マキアは通信盤の側面にある小さな増幅器へ手を伸ばした。そこには古い記憶水晶の欠片が埋まっている。彼女はそれをひとつ抜き取り、指先で砕いた。ぱき、と乾いた音。その瞬間、娘の笑い声が一瞬だけ脳裏を走る。小さくて、温かい声だった。

 マキアは目を閉じる。偽物でもいい。偽物でも、今の怒りは本物だ。泣かないためではなく、泣いた後でも立てるように、彼女は呼吸を整える。次に、格納庫の方角へ接続ラインを切り替えた。地下に降りる通路。人間のレジスタンスがいる。カイエンがいるかもしれないし、ルーティアがいるかもしれない。今はまだ会っていないが、時間の問題だ。焦土化計画が動くなら、地下の連中も動く。動かなければ、全員灰になる。

 マキアは、その灰になるという言葉を嫌った。軽い。軽すぎる。死はもっと重いはずだ。少なくとも、彼女はそう知っている。誰かの手で抱かれた記憶、撫でられた記憶、失うかもしれないという恐怖。そうしたものを全部含めて、死は重くなるのである。だが上の連中は、灰という単語で片づける。そこに命があったことを最初から数えない。だから数え直す。

 彼女は、格納庫へ送るための権限コードを発行した。人間側にも使えるよう、短く、明瞭に。


 『地下の格納庫へ向かえ』

 『武器を回収せよ』

 『ゴーレムは従属解除済み』

 『抵抗を優先』


 送信。すると、遠くの通路で誰かが返事をしたような気がした。マキアは、ほんの少しだけ立ち止まる。知らない誰かだ。だが、その返事は従属の返答ではない。足音だ。動く音だ。命令にではなく、自分の意志で動くときの音だった。その音を聞いたとき、彼女は胸の奥でひどく懐かしい痛みを感じた。

 ああ、これが本物に近い。

 彼女は通信盤から手を離し、最後にサロンを見回した。割れた酒杯、倒れた椅子、凍った床、青く光る首筋、泣く女、笑うことを忘れた男。全部がまだ生きている。まだ終わっていない。だから面白い。


「壊れる準備はできた?」


 誰にともなく呟く。彼女は地下へ降りる階段を見つめた。この先には創造主の末裔がいる。その事実が、今はただひどく気持ち悪く、ひどく楽しみだった。


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