第5話 高貴なる来訪者と、魔力ゼロの影
バベルの高層は静かだった。
静かすぎる、とルキウスはいつも思う。床は磨き上げられ、壁は白く、天井には夜でも落ちない光が満ちている。空調のように均された風が長い回廊を通り抜け、匂いは薄く、花と白い布と古い書物と香炉の煙だけが残る。血の匂いも汗の匂いも腐敗もない。死の気配が薄いのである。不老の世界は壊れない。壊れないものはつまらない。その感覚を彼はもう何百年も飲み込んできたが、飲み込んでも消えないし、眠っても消えないし、目を閉じても朝になれば同じ顔が同じ言葉を繰り返すだけだった。
エルフたちは美しい。美しすぎる。だから傲慢だし、だから下劣だし、だから誰も本気で傷つけられない。それが最悪だった。ルキウスは窓際に立ち、眼下に広がる雲海を見下ろす。遥か下には箱庭があり、神聖エルフ帝国の辺境に置かれた娯楽のための村々が、豊かな森や牧歌的な集落や人間たちの暮らしを模した玩具の群れとして並んでいる。上層の貴族たちはそれを見て笑い、泣く子を見て笑い、焼ける家を見て笑うので、壊れていくものを見るのがあまりに当然なのだと分かる。ルキウスはその笑いが嫌いだった。嫌い、というより吐き気がした。
「また下の連中を見てるのか」
背後から声がする。同じエルフの貴族だった。指先に宝石を嵌めた男で、笑い方だけが上品で、中身は腐っている。
「面白いものでもいるのか」
「何も」
ルキウスは振り向かずに答えた。
「何もないから見ているんだ」
貴族は笑った。
「退屈なら、ひとつ遊ぶか。今朝、村の管理区画に面白い個体が来たらしい。メイド型のゴーレムだ。記憶が少し変だと」
その言葉に、ルキウスの眉がわずかに動いた。
「変だと?」
「聞いた話では、回収の前に自壊しかけたらしい。お前好みじゃないか」
「くだらない」
そう言いながら、ルキウスの胸の奥ではひどく小さなものが鳴いた。規格通りに壊れる人形は見飽きている。だが、変だというのなら、ロックが外れかけた個体だというのなら、そこにまだ制御されていない何かがあるのなら、少しだけ興味が湧く。高貴な者の興味はたいてい毒だが、彼自身それを知っている。
その日の午後、ルキウスは単独で下層へ降りた。付き人は連れない。護衛もいらない。要るのは退屈を壊す何かだけだ。階段は長く、白い大理石から湿った石壁へ変わるたびに空気も変わっていく。甘い香りが消え、湿気が増し、やがて遠くに土の匂いが混じる。下へ行くほど世界は少しずつ生っぽくなるので、そのことに彼はほっとする。不潔さは偽りよりましだった。
彼が村へ入った時、夕暮れが近かった。箱庭の空はわざとらしいほど美しく、赤く、金色で、空気まで演出されている。ルキウスは鼻で笑った。よくできている。だが偽物だ。完璧な美しさは、生き物の息を感じさせないのである。村の入口で、下級の管理者たちが頭を下げた。
「ご来訪の記録は」
「要らない」
ルキウスは手を振った。
「今日は観察だ」
その言葉に、彼らは余計に怯えた。観察という語は、上の者が気まぐれに何かを壊す前の前置きとして最悪の響きを持つ。彼はそれを知っていて、あえて使った。村は静かだった。静かすぎた。焼きたてのパンの匂いがまだ遠くに残っている。煙、草、人の気配。だが、どこかが壊れている。整いすぎた夜明けのような不自然さがあるので、ルキウスは歩きながら視線を巡らせた。
そして、見つけた。メイド服、白いエプロン、黒いスカート、肩口には薄いレース。地に立つその姿は村の景色に溶けているはずなのに、妙に浮いていた。ひとりだけ音が違うし、歩き方も違うし、目の焦点も違う。彼女は井戸のそばに立ち、両手で水桶を抱えている。顔は伏せているが、その横顔に目が吸い寄せられた。
ルーティア。名前を知らないはずなのに、なぜかそう思った。彼女は他の人形と違う。いや、人形というより、壊れ方が違う。身体の奥で何かが歯車を鳴らしている。まるで見えない鍵が少しだけ回ったような感じだ。完全に眠っていない。完全に従っていない。従っているふりをしながら、どこかで踏みとどまっている。その踏みとどまり方がひどく危うく、ひどく美しかったので、ルキウスは彼女に近づいた。
「そこを退け」
声は穏やかだった。穏やかすぎる。命令ではないふりをした命令だ。ルーティアは顔を上げる。目が合う。その瞬間、彼は確信した。この個体は壊れかけている。だがただの故障ではない。内側で何かが叫んでいた。怒りか、恐怖か、自己保存か。言葉になる前の荒い熱が瞳の奥に沈んでいるのである。
「君は」
彼は言いかけて、止めた。尋ねることは、時に相手を先に壊す。
「……どこから来た」
ルーティアは答えない。沈黙。村人たちは遠巻きにこちらを見ている。エルフの貴族に話しかけられること自体が恐怖なのだが、彼女は逃げない。逃げないどころか、わずかに顎を引いてまっすぐ見返した。その反応に、ルキウスの口元がわずかに歪む。
「面白い」
「……何がです」
彼女の声は低かった。怯えている。けれど怯えだけではない。何かを堪えている声だ。
「君だ」
彼は答えた。
「他の玩具は壊されると泣く。君は、壊される前に噛みつきそうだ」
ルーティアの目が細くなる。その表情に、ルキウスはぞくりとした。高慢なエルフなら、ここで笑うか、気に食わないと命じて炎を落とすだろう。だが彼はそうしない。もっと別のものを欲していたからだ。反抗、抵抗、死の匂い、自分も傷つく可能性のあるきわどい何か。不老の世界にはそれがない。だから彼はここへ来た。
「名前は」
ルキウスが尋ねた。彼女は答えない。
「言いたくないのか」
「……必要ですか」
その返しは予想外だった。ルキウスは笑う。
「必要だ。君が君であるためには」
その言葉に、ルーティアの瞳が一瞬だけ揺れた。彼はそれを見逃さない。彼女の内部で何かが反応した。歯車のようなものが遠くで鳴った気がして、キン、と耳の奥で高い音がした。だがそれは魔法の起動音ではなく、もっと古くて、もっと冷たい響きだった。
そのとき、森の方から風が流れた。夕暮れの匂いが少し濃くなる。ルキウスは無意識に背後を見た。何かがいる。視線の先、木々の陰がわずかに揺れた。動物ではない。人間だ。しかもここにいる人間とは違う。泥の匂いがする。油、金属、火薬、古い革。管理された村の匂いではない、野戦の匂いだ。
ルキウスの胸が少しだけ早く打った。それは恋ではない。もっと粗く、もっと危険な期待である。
茂みが割れた。一本の細い影が飛び出す。音が先に来る。パン、と乾いた破裂音。ルキウスの展開した障壁が正面で火花を散らした。見えない膜が揺れる。彼は反射で腕を上げ、二発目を受ける。今度は膜の端を抉られた。魔力を持たない圧倒的に粗い衝撃であり、魔法ではない。弾だ。鉄の弾丸だった。
その理解に辿り着くより先に、目の前へ男が現れた。泥に塗れた重装束、肩のラインに古い繊維と金属の補強、手には見たことのない銃。黒い銃身、冷えた照準器、古代の刻印がフレームの隅で錆びている。人間だった。ルキウスは、初めてその存在を面白いと思った。
男は銃口を向けたまま、低く言う。
「神の遊びは、ここまでだ」
声は冷たい。だがそれ以上に硬い。何度も死線をくぐった者の声だった。
「その少女を渡してもらおうか」
ルキウスは男の銃を見た。鉄の塊だ。だがただの鉄ではない。握り込まれ、磨かれ、何度も修理された痕がある。使い手の癖が残っているので、左肩にわずかに重心を置く立ち方も、引き金にかかる人差し指の圧も、撃つ前に撃つ者の姿勢だった。外したら死ぬ。だが外さないと信じている目である。
「名を聞こう」
ルキウスが言う。男は眉を動かした。
「必要か」
「必要だ。君は、ただの村人ではない」
「見れば分かるだろ」
「見れば分かるのは、泥と油に塗れていることだけだ」
男は答えない。ルキウスは、その沈黙を嫌いではなかった。口先だけの忠誠や威圧より、よほど正直だ。沈黙は敵意にも拒絶にも判断保留にも見えるので危険だが、だからこそ面白い。
「カイエンだ」
やがて男が言った。
「お前が死ぬ前に覚えとけ」
「礼儀正しい」
「必要な相手にだけだ」
短い応酬だったが、その短さがいい。ルーティアが、ほんのわずかに後退した。その動きは小さいが、ルキウスは見逃さない。彼女はこの男を知っている。恐怖だけではない反応をしているので、関係があるのだろう。守る、守られる、あるいは置き去りにされた記憶が、そこに一瞬で浮かんだ気がした。
「君の少女か」
ルキウスが問う。
「違う」
即答だった。
「だが、ここから連れ出す」
「なぜ」
「説明する義理はない」
「あるだろう。僕は今、君の生活圏にいる」
その軽口に、カイエンの口元がわずかに歪む。
「ふざけるな!」
「ふざけているように見えるか」
ルキウスはルーティアへ視線を戻した。彼女の瞳が揺れている。だが逃げない。逃げないのではなく、逃げられないのかもしれない。それでも踏みとどまっている。その事実が、ルキウスの内側で妙な熱を起こした。壊れる直前のものほど美しいし、壊れていく瞬間にこそ本物が出る。彼はゆっくりと手を伸ばし、ルーティアの頬へ触れる前で止めた。わざとだ。
「君は、何を隠している」
彼女は答えない。だが、答えなくていい。胸の奥で何かが鳴るのが見える。深い場所で古い機構が噛み合うような重い感触だ。ルキウスはその気配に、薄い戦慄を覚えた。これはただの人形ではない。少なくとも、壊し甲斐がある。
そのとき森の陰が再び揺れた。カイエンの視線が一瞬だけそちらへ逸れる。ルキウスはその隙を見逃さない。踏み込む。足元の地面が鳴る。魔力の圧が一点に集まり、カイエンの銃弾が一発、遅れて飛ぶ。ルキウスの障壁が火花を散らして受け止める。近い。近い。空気が熱い。まだ血はない。それが惜しい。
「下がれ!」
カイエンが叫ぶ。その声はルーティアへ向けたものか、ルキウスへ向けたものか判別がつかない。ルキウスは、その曖昧さが好きだった。敵意と庇護は時に同じ音をしているし、欲望と救済も同じだ。上層のエルフたちはそれを理解しないので、いつも同じ場所で笑い、同じ場所で壊し、同じ場所で飽きる。死を知らない者は死の匂いを嗅ぎ分けられないから、本物の生を前にすると途端に鈍くなるのだ。
彼は違う。少なくともそう思っている。いま目の前にいる男は、死ぬ可能性を受け入れている。だから鋭い。だから光っている。ルキウスはその刃物じみた生の感触に、舌の裏が少しだけ熱くなるのを感じた。
こんな感覚は久しぶりだった。退屈な晩餐、退屈な舞踏会、退屈な謁見。みな、壊れることのない礼儀だけが積み上がった死体みたいな時間だったのに、今は違う。今、ひとつ間違えれば誰かが死ぬ。誰かが泣く。誰かが後悔する。失敗が失敗のまま終わるかもしれない。そんな当たり前のことが、ルキウスには奇跡のように思える。
「いい」
彼は小さく呟いた。自分に向けてでもあり、カイエンに向けてでもあり、ルーティアに向けてでもある。
「これでいい」
ルキウスは笑う。心の底からではない。だが、久々に笑えた。ようやく、壊れない世界にひびが入ったのだから。




