第25話 帝国の猟犬
境界の村は、もう村ではなかった。屋根は落ち、井戸は割れ、家屋の梁は黒く焼けているし、壁に残った白い漆喰だけが昼でもない灰色の空の下で妙に明るく見えていた。風が吹くたび、崩れた煙突の灰がふわりと舞い上がり、そこで生きていたものの気配は薄れながらも、まだ完全には消えずに残っている。焦げた藁、濡れた土、馬車の鉄輪が砕けた跡、古い血、そういうものが村の輪郭をかろうじて保っていた。
その跡地に、連合軍の第一防衛線が敷かれている。防衛線と呼ぶには粗いが、道路を横倒しにした装甲車や、瓦礫の間に引き込まれた銃座、ミリーが半日かけて設置したC4の束、バルドが改修した簡易対戦車砲が並んでいて、人間の手で無理やり組んだ防壁としては十分な気合いがあった。美しさはないが、確実さはある。壊れやすいものが、壊れる前提で積み上げた防御だった。
カイエンは崩れた納屋の屋根に半身を預け、双眼鏡越しに前方を見ていた。
「まだ来ないか」
言葉は低いが、焦りはある。その隣で、ミリーが火薬箱の蓋を閉めながら鼻を鳴らした。
「来てほしくないけど、来るならさっさと来てほしい」
「お前はどっちだ」
「両方」
彼女は肩をすくめ、汗で額に張り付いた前髪を雑に払う。指先は黒い。火薬と油で汚れている。怖い時ほど、彼女は手を動かす。止まっていると震えが見えてしまうからだ。
バルドは車両の下に潜り込んでいた。
「締めろ! そこ、あと半回転足りねえ!」
「回してるっての」
テッドの返事が返る。
「そりゃお前の力が弱いんだよ」
「年寄りが言うな」
「年寄りじゃない、老練だ」
「同じだろ」
レンが苦笑しながらレンチを差し込み、油まみれの手でボルトを締める。金属の咬合音は乾いているが、作業の音自体は不思議と落ち着く。人は手順があると壊れにくいし、手順があるうちはまだ戦える。
だが、その手順は、どうやらここまでだった。
遠くで地面が鳴る。低く、重く、ただの振動ではない。何か大きいものが規則正しく大地を踏んでいる。足音だが獣ではなく、機械的すぎるほど整っていて、巨大で重い何かが前進しているのが分かった。
カイエンが双眼鏡を下ろす。
「来た」
ミリーの顎がわずかに上がる。
「何列?」
「見える範囲だけで三」
「三列?」
「三列だ」
カイエンの声には、わずかな硬さが入っていた。これはまずい、と身体が先に理解している硬さだった。やがて村の向こうの霧が裂け、白銀の装甲が姿を見せる。磨き上げられた金属の板、統一された紋章、人の背丈をはるかに超える肩当て。歩兵ではない。騎士だ。だが、馬に乗る時代の騎士ではなく、魔導機構に守られた白銀の軍勢、帝都の正規軍、聖十字騎士団だった。
村の焼け跡に、完全に場違いなほど整った部隊が進入してくる。整いすぎているから怖いし、足並みも盾の角度も杖の持ち方まで同じだから、なおさら不気味だ。
「……冗談みたいだな」
テッドが呟く。
「あれ、全部人か」
「人じゃない」
カイエンは低く返した。
「人の皮を着た軍だ」
ミリーがカバー越しに覗き込み、唇を噛む。
「うわ。最悪」
その最悪は、すぐに行動へ変わった。前列の騎士が、槍の代わりに細長い法杖を掲げる。杖先が一瞬だけ光り、次の瞬間には空気が変質した。周囲の術式が鈍る、ひどく嫌な感覚だ。
「来るぞ、魔力無効化だ!」
バルドが吠える。ミリーが即座に起爆スイッチへ手を伸ばした。
「なら、C4で吹っ飛ばす!」
「待て、まだ近い」
「待ってたらこっちが死ぬ!」
彼女は叫び、スイッチを押した。
ドン、とそれなりの爆音が鳴る。だが、続かない。爆ぜるはずの路肩が白い光に包まれ、無効化された。爆薬の火が途中で切られ、熱だけが残って煙だけが上がる。C4はただの破片になり、破片が石粉を巻き上げて村の前線に薄い灰のカーテンをかけた。
「……消えた!?」
ミリーの声が裏返る。
バルドが舌打ちをする。
「広域解除だ。術式の前に、爆薬の起爆条件そのものを殺しやがった」
「そんなことできるのかよ」
「できるやつが来てるんだろうが!」
カイエンはすぐに判断した。
「前線のゴーレム部隊を盾にしろ! 遅延させる! 左翼は引くな、引いたら包まれる!」
命令が飛ぶ。だが、命令が終わるより早く、白銀の騎士団は動いた。先頭の三人が同時に杖を振り、地面に白い紋章を走らせる。次の瞬間、瓦礫の間に仕込まれていた簡易ゴーレムが、片膝を折るように崩れた。制御核が焼かれ、目の光が落ち、膝から力が抜けた巨体が装甲車の横へ倒れ込む。
「うそだろ……」
テッドが目を見開く。
「あいつら、術式の逆流を直接――」
「見てる暇はねえ!」
バルドが納屋の下から飛び出し、ショットガンを構えた。
「撃て! 撃て! 相手に考える時間を与えるな!」
散弾が白銀の装甲に弾かれ、カン、と軽い音がするだけだ。一発では抜けない。二発でも足りない。三発目でようやく肩当ての縁が欠けたが、それだけだった。相手は痛がりもしないし、隊列も乱れない。無駄のない、洗練されすぎた進み方だった。
「装甲車、左へ出すな!」
レンが叫ぶ。
「轢かれる!」
だが遅い。白銀の騎士団が一斉に前進した瞬間、村の中央道に仕掛けられていた車両が、装甲の槍先で横腹を突かれた。燃料タンクが貫かれ、油が漏れ、次いで爆炎が走る。だが白い魔導障壁が火を逸らし、装甲車はひっくり返って泥と灰の中で鉄の獣みたいに痙攣した。
「くそ、動け!」
運転手が叫ぶが、もう遅い。白銀の歩兵が無表情のまま車両へ近づき、ひとりが手をかざす。短い閃光が走り、装甲板が内側から弾け飛んだ。運転席の男が投げ出され、泥に叩きつけられて呻く間もなく、別の騎士が弾倉を空へ向ける。
「退けええ!」
ミリーが叫びながら、予備の火薬袋を抱えて走る。
「そこ、まだ生きてる!」
「来るな!」
テッドが彼女の腕を引っ張った瞬間、騎士の放った白光が地面を削り、二人の足元をえぐった。土が跳ね、石片が顔を叩く。ミリーは転び、火薬袋を抱えたまま転がった。口の中に砂が入って咳き込みながらも、袋だけは離さない。
「離すかよ……!」
その姿を見て、カイエンの目が険しくなる。
「前線崩壊する前に、全員下げろ!」
「下がったら終わる!」
「今いる場所でも終わる!」
声がぶつかる。それでも、カイエンは叫び続けた。
「ゴーレムで受けろ! 人間は突っ込むな! 装甲で時間を買え!」
その指示に、バルドが歯を見せて笑った。
「やっと現場らしいことを言いやがった」
彼はショットガンを撃ち尽くし、空の薬室を閉じながら、足元の工具箱を蹴り上げる。
「テッド! お前、左の旋盤から予備の軸持って来い! レン、配線束を切るな、束ねろ! 切ったら回路が死ぬ!」
「今それ言う!?」
「言うに決まってんだろ!」
二人は泥を跳ね上げながら走っていた。ひどく不格好な逃げ方だったが、そういう不格好な足取りのほうが、かえって死ににくいとカイエンは知っていた。白銀の騎士たちは村の廃墟へ進むほどに精度を上げていき、ひとりひとりの動きが無駄なく噛み合い、怒鳴りも叫びもせず、ただ殺すという結果だけを目的にした軍としてこちらへ迫ってくるのである。
「あれ、本当に人間か?」
倒れたままのミリーが、泥に顔をつけたまま呟いた。
カイエンは答えなかったし、今は答える必要もなかった。敵が何者かより、こちらを殺しに来ている事実のほうが重要だったからだが、その胸の奥には妙な違和感が沈んでいた。あまりにも統一されすぎた動き、あまりにも整いすぎた術式、それは規律というよりシステムに近く、個人の兵士というより運用端末の群れに見えたのである。そして、その違和感は次の瞬間には恐怖へと変わった。
白銀の騎士団の後方、遥か向こうにいたはずの支援砲列が、砲身の角度をわずかに上げる。遠いが、見えてしまう。しかも、その砲身は最初からこちらを撃つために設計されていた形をしていた。
「来るぞ! 伏せろ!」
カイエンの叫びと同時に空気が裂け、音が先に来て、遅れて風と衝撃が追いついた。だが、それは通常の砲撃ではなく、何かが空間を擦らずに飛んできたような、白い尾も炎も魔力の光も持たない、あまりに速すぎて目で追えない死だった。カイエンの脳が理解するより早く、村の石壁の一部が文字通り消え失せ、砕けたのではなく、吹き飛んだのでもなく、そこに存在していたコンクリートも石も木材も一撃で失われて、白い粉塵だけが後から噴き上がった。
「……え」
テッドの声が凍りつく。
「今の、何だ」
レンが顔を上げたが、誰も答えを持っていなかった。カイエンだけが、極端に乾いた喉の奥で理解していたのである。あれは魔法ではなく、魔力もない。だからこそ対処しようがなく、だからこそ恐ろしいのだと。彼は思わずその名前を口にしかけたが、口にした瞬間に何かが終わる気がして、途中で飲み込んだ。だが、口にしなくても終わりは来る。二発目が来たからだ。
視界の端で、ミリーが火薬袋を抱えたまま固まっている。バルドが振り向き、テッドが叫び、誰かがまだ何かを抱えて走ろうとしている。そんなすべてを、超高速の徹甲弾は無意味にしてしまう。カイエンは咄嗟に装甲板を引き寄せたが、間に合うはずなどなかった。それでも体が先に動いたのは、反射だけがまだ人間を支えていたからであり、次の瞬間、第二の徹甲弾が村の中央防壁を一撃で貫いて、コンクリートは粉になり、鉄筋はねじれ、空気は圧縮され、瓦礫は雨のように降り落ちた。
連合軍の前線が、音より先に壊されたのである。ミリーは悲鳴を飲み込み、バルドは舌打ちし、テッドは泥の中で姿勢を低くしたまま怒鳴った。
「下がれ! 下がれええ!」
だが、下がる先はもう焼けた村しかない。白銀の軍勢は前から来ており、見えない物理の死は後ろからも迫っていた。カイエンは歯を食いしばりながら双眼鏡の残骸を握り潰し、帝国の猟犬という言葉を、怒りとともに胸の内へ沈める。
「……これが帝国の猟犬か」
低い声だったが、震えていたのは怒りのせいだった。
村の先で白銀の騎士団が一歩進む。その一歩は、こちらの三歩より重く、そしてそのさらに後方にいる砲列が静かに次の弾を装填する。戦術モニターには無機質な文字が浮かび上がり、砲列の状態を冷たく告げていた。
`LOADING COMPLETE`
`FIELD CLEANUP MODE: ACTIVE`
その表示を見た瞬間、ミリーの背筋が冷える。
「……掃除ってこと?」
誰も答えなかった。答えられなかったのである。帝都の軍はここを戦場だとは思っておらず、ただの処理対象として扱っているのだと、理解が降りた瞬間から空気が変わった。カイエンの視界の端で、村の地面に仕掛けていた最後の予備火薬が白い光に包まれ、遅れて熱が来て、遅れて爆音が来て、遅れて泥と瓦礫の雨が降り注ぐ。
そして戦線の向こう側、白銀の軍勢の後方で、誰かが静かに手を上げた。次の砲撃はもっと正確になる。そうとしか思えない空気が村全体を冷やし、カイエンの脳裏にはただひとつの命令だけが残った。
生き延びろ。
だが、それすらこの軍勢の前でどこまで通じるのかは、まだ分からなかった。




