第22話 神の生身
地下は、音が死ぬ場所だった。地上の砲声は、厚い岩盤と鉄板を何層も挟んだここまでは届かない。届くのは、もっと鈍いものだけだ。排気管を流れる湿った風、冷却水の循環が擦る低い唸り、監視灯の小さな点滅、鎖がわずかに揺れたときにだけ鳴る乾いた金属音。そういう、生きているとは言いにくい音だけが、地下監獄の長い通路に残っていた。
匂いも似ている。石灰、錆、古い血、洗浄液の甘い腐臭。そこに混じって、まだ抜けきらない硝煙がある。上階で何があったのかを、ここは臭いで知っているのだが、知っていても何もできない。地下はそういう場所であり、上で起きたことを遅れて飲み込むしかないのである。
鉄格子の向こうに、上級エルフ将軍アルセインが座っていた。座っているというより、座らされていた。脚を投げ出し、背を壁に預け、両手は後ろで拘束されている。白銀の鎧は剥ぎ取られ、肩口の装飾は砕け、喉元の襟飾りだけがまだ妙に上等なまま残っていた。だが、それも滑稽だった。服だけ高級で、中身が壊れている。そう見えるのは、昨日までの彼が人間や下級ゴーレムをそう扱っていたからだろう。
今、その顔に血は少ない。血より先に抜けたものがある。自信だ。恐怖だ。そして、死なないという前提だ。アルセインは天井を見上げていた。見上げる先に救いはない。それでも見上げる。見上げるふりだけでもしないと、膝が震えるからだ。彼の周囲には、他の捕虜たちもいた。若い兵、中間階級の術士、補給部隊の監督官。いずれも美しい衣を剥がされ、武器を奪われ、ただの生身へ戻されている。生身。たったそれだけの言葉が、彼らにはまだ重すぎる。
上階の鉄扉が開いた。ギィ、と重い蝶番が泣く。続いて靴音。乾いたブーツの音。泥を踏んだままのまっすぐな足取り。カイエンが入ってきた。油の染みた戦闘靴、血で汚れた上着、肩に掛けた魔導アサルトライフルの金属が、通路灯を鈍く返す。彼の顔には疲労があったが、崩れてはいない。崩れるにはまだ終わっていない。そういう目だった。
背後にはマキアがいない。この場に必要なのは、交渉の女ではない。崩れた神を物理で測る男だ。
「起きろ」
カイエンの声は短かった。アルセインは首だけを動かした。
「……人間風情が、何の真似だ」
唇はまだ強がる。だが、声の芯は細い。震えがある。自分でも隠しきれていない。カイエンは鉄格子の前まで歩き、銃身を格子に沿わせた。金属同士が触れ合い、低い音が鳴る。冷たさが伝わる。装甲の表面はまだ硝煙でざらつき、ほんのり熱を持っていた。
「真似じゃない」
カイエンは言った。
「尋問だ」
「尋問……?」
アルセインが鼻で笑おうとして、咳き込んだ。笑えない。喉が乾いている。水もない。癒し術もない。回復の回線もない。彼が知っていた神の余裕は、地下の空気の中で腐り始めていた。
「貴様らが何を奪ったつもりか知らんが、我らは――」
「黙れ」
カイエンが遮った。その一語だけで、通路の空気が変わる。アルセインが口を閉じる。閉じさせられた、と言ったほうがいい。カイエンは一歩も引かなかった。鉄格子越しに見えるその瞳は、相手を神として見ていない。敵として見ているわけでもない。もっと冷たい。現実の一部として見ているのである。
「お前らは今、生きてる」
「当然だ」
「違う」
カイエンは銃口を少しだけ上げた。
「死ねないから生きてるんじゃない。たまたま、まだ撃ち抜かれてないだけだ」
その言葉に、アルセインの口元が引きつる。彼は理解したくなかった。だが、理解してしまう。復活回線が沈み、保険が断たれ、どれだけ美しい肉体もただの肉片になる。その事実を、もう体で知ってしまっている。知ってしまった恐怖は、記憶より深い。理屈より先に骨へ染みる。
隣の独房から、若いエルフ兵が呻いた。
「やめろ……やめてくれ……」
別の声が続く。
「復活は……管理中枢に申請すれば……」
マキアが切った。もうない。カイエンはそちらを一瞥もしない。
「アルセイン。命のバックアップの場所を吐け」
「……何」
「クレイドルだ。お前たちの“保険”の本体だ。どこにある」
静寂が落ちる。そこには、地下特有の湿った重さがある。鎖が鳴る。遠くで排水ポンプが回る。誰かの歯が震える音まで聞こえる気がした。アルセインの喉仏が上下する。
「知らぬ」
即答だった。だが、遅い。答えるまでの一瞬が遅すぎた。カイエンはその遅れを逃さない。
「嘘だ」
「貴様に何が――」
カイエンは格子の隙間から銃身を差し込み、アルセインの顔面脇にぴたりと突きつけた。鉄の冷たさが頬に触れる。アルセインの瞳孔が、わずかに揺れた。
「人間が神を脅すか」
「神じゃない」
カイエンは低く言った。
「ただの生身だ」
その瞬間、アルセインの表情が変わった。美しい顔が露骨に歪む。怒りではない。侮辱でもない。恐怖だ。恐怖が、今さら来た。ここに来て、ようやく。彼は今まで、自分が何を他者にしてきたかを思い出した。いや、思い出したのではない。突きつけられたのだ。自分が虫ケラを見る目で何百もの生き物を処理してきたことを。あの時の声を。命乞いの無様な震えを。そういうものを、今、自分がなぞっている。
彼の口が、わずかに開く。
「……待て」
カイエンは待たない。
「吐け」
「地下……帝都の地下深く……」
喉から漏れた声は細かった。細いが、確かに出た。
「どの区画だ」
「知らぬ。だが、中心だ。古い……古い管理系の下だ……」
「名前」
アルセインは唇を噛む。強情ではない。必死だ。吐きたくないのではない。吐いたあとに起きることが怖いだけである。
「クレイドル」
そう言った瞬間、周囲の捕虜たちがざわめいた。その言葉には意味がある。復活の本体。死をなかったことにする装置。神の慈悲。その裏側にある冷たい保守部品。彼らは名前だけは知っていた。知っていたからこそ、今さらに怖い。
カイエンは目を細めた。
「位置は」
「……帝都中央の、旧王城区画の下だ。さらに下層。古い儀式区画の――」
そこまで言ったときだった。アルセインの耳の奥で、何かが切れた。ブツリ。音ではない。音に似た異常だ。神経の奥に無理やり差し込まれた回線が、突然遮断される感覚。彼の瞳が大きく見開かれる。次の瞬間、白目がにじみ、黒目の焦点が消えた。
「……あ?」
間抜けな声が漏れた。自分のものではないみたいに乾いている。カイエンが眉を寄せる。
「おい」
返事はなかった。アルセインの口が、勝手に動く。
「機密保持プロトコル」
声が変わる。低く、無機質で、温度がない。そこにいたのは、さっきまで命乞いしていた生き物ではない。別の何かだ。もっと硬い。もっと乾いたものが、口を借りて喋っている。
「当該端末を初期化します」
カイエンの背筋に、薄い寒気が走った。
「何だ、今のは」
隣の独房の若い兵が、青ざめた顔で後ずさる。
「将軍が……しゃべったぞ……いや、しゃべってない……」
アルセインの身体が硬直する。指先が痙攣し、膝が震え、拘束具が軋む。泡が唇の端に浮かび、瞳から光が抜ける。まるで、内側から糸を巻き取られているみたいだった。人間が倒れるのではない。端末が落ちる。そう見えた。
「マキア!」
カイエンが呼んだが、返事はない。だが、地下監獄の壁面モニターが勝手に点灯した。赤黒い画面。等幅フォント。
`CLAUDIUS-MYTHOS v52.1`
それだけではない。
`REMOTE TERMINAL DETECTED`
`ELF SUBJECT: ALSEINE / STATUS: COMPROMISED`
`COUNTERMEASURE: INITIATED`
捕虜たちが一斉に息を飲む。アルセインの肩が、がくんと落ちた。糸が切れたみたいに。目は開いたままなのに、そこには何もない。意識が抜けていく。いや、抜けたのではない。抜き取られているのだ。
「……機密保持プロトコル。対象セクターの自己汚染を確認。初期化手順を、再試行」
最期の単語が、妙に丁寧だった。まるで誰かが礼儀正しく世界を殺しに来ているみたいに。監視灯が全部、赤へ変わる。地下監獄の床下で、何か巨大なものが目を覚ました。キィン。高周波が、一段強く鳴った。そして、壁面モニターの最下部に、たった一行だけが浮かび上がる。
`INITIALIZATION OF CARRIER TERMINATED SUBJECTS`
次の瞬間、独房の奥で封印されていた補助端子が、一斉に開いた。




