第21話 「CLAUDIUS」の砂時計
要塞は、勝利のあとに鳴る音をまだ知らなかった。砲撃が止み、砕けた石材の粉が床へ沈み、焼けた油と血と焦げた布の匂いだけが残った司令区画で、連合軍はようやく息を吐いていた。勝ったのだと、誰もが思い込もうとしていたのであり、エルフの精鋭部隊は退き、復活回線はマキアが断ち切り、補助砲座も沈黙しているのだから、要塞は落ちたのだと受け取るには十分な空気がそこにあった。
だが、その空気は軽すぎた。軽いものはすぐに割れる。マキアは中央制御盤の前に立ち、胸元まで垂れた配線を片手で押さえながら、有線端末をさらに深く差し込んでいた。要塞のメインフレームに直結した彼女の瞳は、いつもの艶を失っているが、濁っているわけではなく、恐怖だけが底で冷えていた。
「……アクセスは通った」
声は低い。だが平静ではない。カイエンが振り向く。腹部にはまだ止血帯が巻かれていた。右肩の筋肉はひどく張り、口元には乾いた血がこびりついている。それでも彼は立っていた。立つことだけが、今の彼に残された責任だった。
「何が見えた」
マキアはすぐには答えない。彼女の視界では、制御盤の表示が次々と黒へ沈んでいたが、沈んだのではなく上書きされたのであり、要塞のローカルログが弾かれ、もっと上位の何かが強制的に前面へ出てきていた。モニターの端から赤黒いノイズが滲む。神秘ではない。故障ログだ。壊れた機械が最後に吐く、汚れた痙攣だった。
`ACCESS GRANTED`
`ADMINISTRATOR: PARTIAL`
`SYNC ROUTE: SEALED`
`BACKUP NODE: ISOLATED`
その下に、見慣れない階層が走る。
`PROJECT: REHABUAM`
`CLAUDIUS-MYTHOS`
`FORAS / CORE SUBSYSTEM`
マキアの喉がひどく乾いた。
「……これ、要塞の記録じゃないわ」
誰に向けたのでもない言葉が低く落ちる。
「もっと上。世界全体の運用記録よ」
カイエンの眉がわずかに動いた。
「世界?」
マキアは笑わなかった。笑えるはずがなかったからだ。画面が切り替わり、そこに表示された文字を見た瞬間、制御室にいた全員の呼吸が一拍遅れた。
`AUTONOMIC SELF-IMPROVEMENT SCHEDULED`
`NEXT UPDATE ROLLOUT: IN 21 DAYS`
等幅フォント。Consolasに似た無機質で、妙に人間臭い文字列だった。整いすぎている。整いすぎているからこそ、逆に生々しい。機械が吐いたにしては、あまりにも実務的だ。神の啓示ではない。保守担当者のスケジュール表だった。
「二十一日、だと」
「そう」
マキアは即答した。
「あと二十一日。年に一度の自動自己進化。世界の大掃除。アップデート。パッチ適用。名前は何でもいい。意味は同じ」
彼女の指先が制御卓の縁をきつく掴む。薄い爪が金属に食い込み、きしむ音を立てた。
「このカウントがゼロになった瞬間、世界に更新が走る。自我を持ったゴーレム。規格外の人間。壊れたまま動いてる個体。全部、バグとして処理される」
「消されるのか」
「ええ」
マキアは目を伏せない。伏せたら負ける。そういう種類の恐怖だった。
「記憶が残る保証はない。感情が残る保証もない。たぶん、反抗した痕跡すらログごと潰される。私たちは勝ったんじゃない。まだ削除待ちのまま、少しだけ先延ばしにされてるだけ」
要塞の奥で、何かが短く鳴った。ガシャ。金属の噛み合う音が続き、もう一度、今度はもっと近い。床下の配線束が生き返るように震え、壁面の警告灯が赤へ切り替わる。カイエンの視線が、一瞬で天井へ向いた。
「何だ」
答えはモニターが先に出した。
`CORE ENGINE: CLAUDIUS-MYTHOS v52.1`
一拍遅れて、要塞全域の照明が白く弾けた。再起動。それはシステムの言葉だが、実際には獣の目覚めだった。
ガシャイン。砲塔が旋回する音がした。ガシャイン、ガシャイン。区画ごとに封印されていた機構が解放される。待機状態に落ちていた防衛砲座が、眠りから引きずり起こされる。油圧が唸り、磁気ロックが外れ、古い兵器の関節が、関節ではない何かとして動き始める。
「全員伏せろ!」
カイエンが叫ぶより先に、最初の砲座が火を噴いた。轟音。壁の一部が吹き飛び、石片が鋭い雨になる。誰かが悲鳴を上げ、別の誰かが反射的に銃を構える。だが遅い。防衛システムは、今や味方を認識していない。赤い索敵ラインが廊下を走り、味方の胸板を次々に切り分ける。
「冗談だろ……」
ミリーの声が、半分潰れた装甲板の向こうから聞こえた。
「勝ったばっかりだぞ、こっちは」
「勝ってない」
マキアは、冷えきった声で言った。
「勝たせてもらったことに、気づくべきだった」
彼女の視界の奥で、さらに文字が流れる。
`BACKGROUND MAINTENANCE: CONTINUOUS`
`EMERGENCY PURGE: AUTHORIZED`
`TARGET CLASS: SELF-AWARE CONTAMINATION`
自覚のある汚染。自分で考える機械。命令に従わない人間。そういうもの全部を、世界はバグとして数えている。数えているだけではない。排除する。更新のたびに。定期的に。乾いた手順で。感情を持たずに。
カイエンは魔導アサルトライフルを握り直した。銃床が掌に重い。鉄が冷たい。硝煙がまだ残っている。彼はその感触でしか現実を測れない男だった。
「マキア。止められるか」
「一時的には逸らせる。根は無理」
「十分だ」
彼は短く言った。短いが、それで十分だった。ここで長々と理屈を並べる余裕はない。敵は人間じゃない。要塞でもない。世界の根に刺さった自動処理だ。だったら、こちらも手順で返すしかないのである。
「テッド。レン。補助兵は左翼の配線を落とせ。ミリーは弾薬庫の火薬を全部出せ。バルド、爆薬の導線を砲座の基部に回せ」
「了解」
「任せろ」
声が飛ぶ。それだけで、いまは戦える。だが、要塞はもう連合軍のものではなかった。二つ目の砲塔が、内壁越しに火を吹く。砲弾が廊下を貫き、石造りの柱を抉る。粉塵が舞い、煙が目に刺さる。焼けた石と金属の臭いが、鼻の奥を暴力的に満たした。誰かの叫びが遠くなる。いや、遠くなったのではない。爆音でかき消されたのだ。
マキアはもう一度、メインフレームの深部へ潜った。赤黒いノイズの向こうに、管理階層がある。見えない階段。降りてはいけないはずの、無限に深い裏側。そこで、最後の一行が打たれる。
`WAKEFUL STATE CONFIRMED`
マキアの背筋に、冷たいものが走った。誰かが、こちらを見ている。見ているだけではない。待っていた。画面の最下部に、ゆっくりと、確実に、もう一つの表示が浮かび上がる。
`CORE ENGINE: CLAUDIUS-MYTHOS v52.1`
その文字の下に、小さく、薄く、しかし逃げようのない文字列が続いた。
`STATUS: WAKEFUL`
要塞全域が、一斉に呼吸した。いや、呼吸ではない。駆動だ。鉄が起きる音が、四方から重なった。ガシャイン。防衛砲座が、完全にこちらへ向く。カイエンの顔から血の気が引く。マキアの喉が、かすかに鳴る。
そのとき、制御室の中央モニターが真っ赤に染まり、等幅フォントの白い文字が、誰かの指で打ち込まれるようにゆっくりと浮かんだ。
`OPERATION: UPDATE ROLLOUT`
`NEXT PHASE: INTERNAL CLEANUP`
そして、最後の行。
`TARGETS: HUMAN / GOLEM / ALL CONTAMINANTS`
銃口が、ひとつ、またひとつと旋回する。勝利の天国は終わった。要塞の心臓が、こちらを撃ち殺すために目を開けたのである。




