第2話 眩しい悪夢
痛みの向こうに朝があったように見えたので、ルーティアは一瞬だけ、本当に朝へ戻ってきたのだと思った。だが、跳ね起きて肺の底から息を吸い込んだ瞬間に、その空気がやけに冷たく、しかも焦げた肉の匂いも焼け落ちた家の煙も喉に張り付いた炭の味も一切ないと気づいたので、あれは朝ではなく、朝の形をした別の何かだったのだろうと理解した。そこにあるのはパン窯の煙と小麦と酵母と薪の匂いだけであり、あまりにもいつも通りすぎて、逆に胸の奥がざらついたのだった。彼女は胸を押さえたが、焼かれたはずの場所は何事もなかったように滑らかで、衣服も整っていて、血も焦げ跡も焦げた匂いすらなかった。昨日のあの鋭い痛みが嘘みたいに消えているので、ルーティアは息を止めたまま、自分の胸が本当に貫かれていたのか、それとも夢だったのかを必死に考えた。いや、夢にしては痛すぎるし、怖すぎるし、あまりにも現実的すぎる。だからこそ、頭の中がうまく整理できず、脳が処理を拒んだらしく少し固まったのであった。
外から、窯の蓋が開く音がした。ガン、と乾いた音がして、続いて焼き上がったばかりのパンの匂いが流れ込んできたので、彼女はゆっくりとベッドから降りた。床板の冷たさが足裏に伝わり、昨夜のことを思い出そうとすると、村が燃えたことも、人が叫んだことも、幼馴染がいたことも、胸を貫かれたことも、すべて鮮明すぎるくらい鮮明だった。だが、その鮮明さが逆に現実味を削るので、強すぎる記憶は時々、嘘みたいに見えるのだと、彼女は頭のどこかで思った。窓を開けると朝の光が差し込んできた。白くて眩しくて、昨日と同じ色だったので、ルーティアはさらに混乱した。彼女が覚えているのは死の痛みだけであり、それがあまりにも痛く、あまりにも確かで、夢で片づけるには重すぎたからだ。だからこそ、これは何かがおかしいぞ、という感覚だけが先に立ち、朝の匂いを吸い込んでも気持ちが晴れなかった。
「ルーティアー、起きてる?」
外から声がした。カイだ。ルーティアは一瞬、動けなかった。煤のついた頬、少ししゃがれた声、いつも半歩先を歩いて何かと気を回すのに肝心なところで真っ直ぐになる少年、そのすべてが、昨夜助けようとしてくれた顔とぴたりと重なったからだ。彼は村でも目立つほど動きが速く、気も利く、いわば雑用から力仕事まで任せられる便利な子であり、そのぶん自分のことは少し後回しにしがちなタイプでもあったので、ルーティアはその無事だけで胸がきゅっと詰まった。
「カイ……?」
窓辺に走って覗き込むと、下にいた少年は振り向いて少し驚いた顔をし、それからいつものように笑った。
「なんだよ、寝ぼけてんのか。朝飯、冷めるぞ」
その言い方まで同じだったので、ルーティアは同じだ、とだけ思った。何が同じなのかはうまく言えないが、パン窯の前の光の角度も、井戸の桶の吊り下がり方も、母親たちの笑い声の高さも、昨日見たものとぴたりと重なっている気がして、朝そのものが薄い膜になって重ねられているように感じられた。だが、同じ朝が本当に存在しているのであれば、彼女だけが何かを見落としていることになる。これ、マジでどういうことなのかと、ルーティアは心の中で一度だけ本気で思った。
急いで服を整え、外へ出ると、焼きたてのパンの匂いが朝の空気に混ざっていた。パン屋の娘は昨夜と同じ籠を抱えていて、丸パンの焼き目も割れ目も湯気の立ち方も変わらず、昨日聞いたはずの台詞をそのまま口にした。
「今日は少しだけ粉を変えたの」
「……そう、ですか」
「変かな?」
「いえ。とても、いい香りです」
焼きたての小麦の匂いはたしかに幸せな朝の匂いだったが、あまりに同じ朝が繰り返されているようで、ルーティアはそれを素直に信じ切れなかった。広場へ向かう途中で自分の手を見下ろすと、白い肌には傷ひとつなく、爪も整っていて、昨日あの手が誰かを抱え、誰かを押し退け、誰かを庇っていた感触だけが残っているのに、手のひらは何も覚えていないふりをしていた。記憶があるのはこっちなのに、身体のほうは知らん顔をしているというわけだ。
それでも、知らないふりをしているだけなのかもしれないと考えた時、広場の片隅で子どもが転び、膝を擦りむいて泣き出した。いつもの朝なら気にも留めないような些細な事故だったが、ルーティアはしゃがみ込んで傷口を確かめ、布で拭って薬草の軟膏を塗る。泣いていた子どもは少しすると鼻をすすり、彼女の袖を掴んだ。こういう時の彼女は、村で一番年下の子どもにも頼られる、面倒見のいい姉役みたいな存在であり、それがまた自然にできてしまうあたり、ルーティアはかなり人当たりのいい子だった。
「ルーティア、夢見たの?」
「……え?」
「顔が変だ」
子どもはたまに、残酷なほど真っ直ぐだ。ルーティアは言葉を失ったが、その一言で、これを夢だと考えたほうが楽なのだと気づいてしまう。村が焼け、誰かが死に、自分も死んだ夢だったのだと片づけてしまえば、たしかに今は楽になるし、正しい気すらしてくる。だが、ルーティアは忘れたくなかった。胸を焼いた痛みも、炎の匂いも、カイの叫びも、全部、本物だったからだ。
「少し、嫌な夢を」
そう答えると、子どもは納得したように頷いた。
「ぼくもたまに見る。起きたら忘れるけど」
忘れる。その一語が妙に重く響いたので、ルーティアは胸の奥が少しだけざわついた。忘れるべきなのか、忘れたほうがいいのか、だが彼女は忘れたくなかった。たとえ現実がそれを否定しても、本物だったものは本物だと信じなければ、何を支えに立てばいいのか分からない。だから、今は夢だと認めたくない。認めたら終わる気がした、というのが正直なところだった。
昼が近づくと鐘が鳴った。一回、二回、三回。音は昨日と同じだったので、ルーティアは余計に落ち着かなかった。鐘の響きに耳を澄ませた瞬間、彼女はまた、あの高い音を聞いた。
キィン。
空気のどこかで、薄い膜が応答するような音だった。村人たちは何も気づいていない。気づいていないふりをしているだけなのか、本当に聞こえていないのか、それすら分からないが、ルーティアだけが耳の奥に冷たい棘を感じていた。胸の奥で、何かがひとつ、小さく軋んだ気がした。
カチン。
その音が聞こえた瞬間、視界の端に、昨日見たものが一瞬だけ重なった。炎。倒れる家。焼ける匂い。黒く縮んだ手。だが次の瞬間には消え、消えるというより押し戻されるように、水底へ沈められていった。誰かが彼女の肩を叩いた。
「ルーティア、パンを配ってくれ」
老女の声だった。現実へ引き戻す声だ。ルーティアは頷き、籠を受け取った。焼き立てのパンはあたたかく、その熱が指先に移るので、さっきまで胸にあった嫌な冷たさが少しだけ薄れた。
広場では村人たちが昼の準備をしていて、今日も穏やかで、穏やかすぎるくらいに穏やかだった。笑い声、食器の触れ合う音、布を干す音、犬の吠える声、子どもが走る足音。そうしたものが混ざり合って、世界は壊れる気配を一切見せなかった。それが、いちばん怖い。
ルーティアは井戸の水面を覗き込み、自分の顔がそこに映るのを見た。白い肌、静かな目、いつもと変わらない顔だが、その瞳の奥に、昨夜の赤が一瞬だけちらついた気がして、彼女は目を瞬かせた。だが水面は静かで、風が一度だけ吹いて輪が広がるだけで、何もなかった。
その時、一匹のハエが彼女の頬のそばをかすめた。黒く小さい羽音。人の嫌悪を呼ぶありふれた生き物なので、ルーティアは反射的に顔をしかめた。気持ち悪い、と感じたので手を振って払えばいいし、叩き潰せばいいし、それが当然だった。実際、指先は反応しかけたのだが、その瞬間、胸の奥に別のものが触れた。柔らかい感触だった。誰かが小さな虫を、力任せではなく、そっと逃がす手つき。誰の記憶だろう。知らないのに知っている気がするので、ルーティアは手を止めた。
止まった理由を考える前に右手が勝手に動き、叩くのではなく空気をずらすようにやさしく払った。ハエは驚いて飛び去った。ルーティアは、自分の手を見下ろした。何をした。今のは、何だ。自分の意思で動いたのではないが、拒むこともできなかったので、身体のどこかが彼女の知らない理屈で先に動いたのだろうとしか思えない。ひどく不自然なのに、ひどく自然だった。
次の瞬間、首筋に熱が走った。
ルーティアは息を呑む。皮膚の内側から焼けるような熱が広がり、赤く鋭い痛みが針で抉るように脳へつながっていく。手で触れる前に、それが何かを思い出した。見たことはないのに、知っている。知らないのに知っている。真紅の紋様。首筋の奥で、何かが浮かび上がろうとしていた。
熱い。痛い。焼ける。焼ける。焼ける。
ルーティアは膝をついた。息が詰まり、視界が白くなる。頭の中に、知らない声が差し込まれた気がした。
――敵意判定。
――拒絶。
――異常動作。
それが声なのか感覚なのか言葉なのかも分からないが、命令の形をしていたことだけは確かだった。首筋の熱が一気に膨れ、皮膚の内側で焼けた鉄を押し当てられているような痛みに変わる。視界の端で赤い線が一瞬だけ浮かび、魔法陣のようでいてもっと冷たい、もっと無機質な模様が見えた気がした。
膝から力が抜ける。土の匂いが近い。誰かの悲鳴がする。遠くで鐘が鳴っている。いや、鳴っていない。鳴っていないはずなのに、耳の奥では高い音がまだ残響していた。
キィン。
その音が頭蓋の内側をこすったので、ルーティアは首を押さえたまま地面に倒れ込んだ。呼吸が乱れ、肺が痛み、いや肺ではなくもっと深いところが痛いので、身体の奥で何かが剥がれそうになっているのがわかった。
村人たちが集まってくる。
「どうした!」
「顔色が真っ青だぞ」
「医者を呼べ!」
その声は遠いのに優しかった。ルーティアは歯を食いしばり、忘れるな、と胸の奥で誰かが叫ぶのを聞いた。忘れるな。忘れるな。忘れたら、全部また最初に戻る。そんな気がしたので、何が最初かはわからないのに、ただひどく嫌だった。
「……いや」
掠れた声が漏れた。彼女は自分の首筋を見ようとしたが、指先が震えてうまく動かない。熱だけがある。痛みだけがある。そこに何があるのかを確かめる前に、意識がひとつ深く沈んでいく。
沈み際、ルーティアは確かに感じた。胸の奥で重い歯車がまた噛み合う。カチン。ひとつ。続いて、もうひとつ。見えない機構が、ゆっくりと目を覚まし始める音だった。誰かが彼女を抱き起こそうとする感触もあったが、それさえ遠く、口からは押し殺した絶叫がもう一度漏れた。
「やめて……」
何を、なのかは自分でもわからない。ただ、朝が眩しすぎた。




