第1話 『バベル』の落陽
朝は、柔らかかった。
霧が畑の上をゆっくり這っていて、まだ冷え切った土の匂いが残っていたので、麦の穂先には夜露がついたまま光を受けてかすかに震えていた。村は小さく、石積みの家が寄り添うように並び、井戸も鍛冶場もパン窯もひとつずつしかないありふれた辺境の村だったが、ルーティアにとってはそれで十分で、むしろ十分すぎるほどだった。こういう手触りのある朝こそが、彼女にとっての救いだったのであった。
窯の扉が開いた瞬間、焼けた小麦の香りがふわりと流れ出てきた。焦げる手前で止めた、あの腹の底に落ちる匂いであり、乾いた薪の煙や酵母や少しの塩が混ざった、いかにも生活そのものといった匂いだったので、ルーティアはそれだけで、この朝がまだ壊れていないことを確かめることができた。
「ルーティア、これ運べる?」
呼ばれて振り向くと、パン屋の娘が湯気の立つ籠を抱えて立っていた。丸パンが十数個、きれいに膨らんで黄金色に焼けているので、見た目だけでも十分に腹が鳴りそうな出来栄えだった。
「もちろんです」
ルーティアは籠を受け取り、木の編み目が指先に触れて少し熱いなと思いながらも、重さそのものは問題なく抱えられると判断して、窯の前から広場へと歩いた。彼女はこの村では実質なんでも屋のような立ち位置で、力仕事から子どもの手当てまで一通りこなせる便利枠だったので、みんなから自然に頼られているというわけだ。
「焼き上がりは上出来ですね」
「ほんと? 今日のは少しだけ粉を変えたの」
娘はそう言って笑った。まだ少女の輪郭が残る笑い方だったので、ルーティアはその顔を見るたびに胸の奥が静かに温かくなるのを感じていた。理由なんて要らないし、そういうものだとしか言いようがないのだが、人が笑えば自分も少し笑いたくなるし、誰かの腹が満たされるならそれでいい、誰かが眠れるならそれでいい、という感覚が彼女の世界の中心にあった。
村の朝はゆっくり始まる。子どもが転べば母親が叱り、老人が咳をし、犬が吠え、水桶が石畳を擦り、鍬が土を割り、鍛冶場の槌が遠くで鳴る。音はばらばらなのに不快ではなく、むしろその雑然さこそが安心につながっていたので、世界は壊れていないのだと、少なくとも今はまだそう思っていられた。
ルーティアは広場の隅で洗濯物を干していた老女に声をかけ、手伝いが必要かと尋ねた。すると老女は、腕が上がらなくて困っているからこの布を頼むと言ったので、彼女は布を受け取って、水を吸って重くなったそれを難なく持ち上げ、竿へかけた。布同士が擦れる乾いた音と、滴る水が土に落ちる音が小さく響いたが、そうした小さな仕事こそが村を支えているのだと、ルーティアは自然に思っていた。
「あんたは本当に頼りになるね」
老女にそう言われたルーティアは、少しだけ目を伏せた。
「そうでしょうか」
「そうだよ。あんたがいると、朝がちゃんと朝になる」
その言葉は胸の奥に柔らかく沈んだ。朝がちゃんと朝になる、という表現の意味は正直わからないのだが、なぜか嫌いではなく、むしろ好きだと思ったので、彼女はそれをそのまま受け取っていた。
昼前になると広場の片隅で子どもたちが駆け回り始め、そのうちのひとりが石ころに足を取られて転び、膝を擦りむいた。すぐに泣き声が上がったので、ルーティアは駆け寄って膝をつき、傷の具合を確かめた。血は少なく、浅い傷だったから、布で拭って薬草の軟膏を塗れば十分だと判断できた。
「見せてください」
「いたい」
「すぐ治ります」
「ほんと?」
「ほんとうです」
ルーティアはそう言って、幼い頭を撫でた。細い髪が指に絡み、柔らかく、生きているとしか言えない小さな命の感触がそこにあったので、壊れやすいからこそ守りたいし、守らなければならないのだと、彼女はいつものように自然に思った。
遠くで鐘が一度鳴った。ルーティアが顔を上げると、その音は古く、少し鈍く、少し重いのに、村の空気にすっかり馴染んでいて嫌いではなかった。むしろあの鈍さが、今の平穏を支えている気さえしていた。鐘はさらに二回鳴り、昼の合図になるはずだったのだが、その前に、まるで空気そのものが金属みたいに鳴るような高い音が響いた。
キィン。
耳の奥を刃物でなぞられるような音だったので、ルーティアは一瞬だけ肩を強ばらせたものの、すぐに周囲を見渡した。鐘は止まっているし、子どもたちは走っているし、目に見えるものは何も変わっていない。だから気のせいだろうと思い込もうとした、その矢先に、村の外れから悲鳴が上がった。
「門だ!」
「誰か来たぞ!」
緊張は一瞬で広がり、笑い声は消え、鍬が止まり、桶が傾いたので、ルーティアは子どもを庇うように立ち上がって門へ向かった。そこへ走ってきた者の顔は蒼く、ただ事ではないことだけが伝わってくる。
そして、見えた。
門の上に立つ人影は、人ではないと最初は思った。あまりにも美しかったからであり、長い銀の髪、白い肌、薄く光る外套、整いすぎた指先の動きまで、村人とは質も温度も生き方も違って見えたので、エルフだと気づいた瞬間、周囲の空気がはっきり凍った。
誰かが息を呑んだ。
「遊びの時間だ」
そのひと言に、村の空気は完全に止まった。エルフは笑っていたが、それは楽しさの笑みではなく、退屈を押し流すために口元を持ち上げているだけのものだったので、彼らにとって村も人も、広げた盤上の駒か壊していい玩具か、その程度にしか見えていないのだとすぐにわかった。
ひとりが指を鳴らすと、キィン、と無機質な高周波が返ってきて、ルーティアは背筋に薄い悪寒が走るのを感じた。次の瞬間には空中に赤い線が走り、幾何学的な紋様が花開くように魔法陣を形作ったのだが、それは美しいというより、壊すために最適化された図面のように見えたので、恐ろしいほど整っていた。
炎が生まれる。炎の槍だ。
一本、二本、三本と続いた最初の一撃で広場の端にあった荷車が吹き飛び、車輪が外れて木片が四散し、次の一撃で民家の屋根が燃え、乾いた藁が一気に火を吸ったので、火の匂いが生まれるのと悲鳴が来るのはほとんど同時だった。
「逃げろ!」
誰かが叫んだが、逃げる前に焼かれた者もいた。ルーティアは理由もなく走り出したのではなく、体が先に動いたのであり、庇うべきだと、拾うべきだと、抱え上げるべきだと、そういう判断がすでに染みついていたから、倒れた老人に手を伸ばし、火に巻かれかけた子どもを引き寄せ、転んだ娘を肩へ担いだ。
重い。だが、構わない。何度でも走れる。
「ルーティア、こっち!」
パン屋の娘が叫んだので見ると、小麦の粉まみれの手で弟を庇っていた。ルーティアが「下がってください」と答えながら別の家へ視線を走らせると、そこには足の悪い老人が扉の前に立ったまま取り残されていて、逃げ遅れるのは目に見えていた。
だが、その動きの先に、また赤い線が見えた。
エルフの指先。
光。
炎の槍。
村人たちは狩られていた。殺されていたという言葉では足りず、まるで遊びの延長として、楽しみながら命を消していたので、ルーティアは思わず「やめて!」と叫んだのだが、当然その声は届かなかった。
エルフのひとりが振り返り、目が合った瞬間に薄い唇が笑い、軽すぎる声で「まだ残ってたか」と言ったので、虫を見つけたような気楽さで人を焼くのかと、ルーティアは一瞬だけ本気で理解を拒んだ。
次の瞬間、炎が横薙ぎに走った。
熱。
布が焼ける。
髪が焦げる。
土が蒸発する。
焦げた木の匂いに肉の焼ける匂いが混ざるが、誰のものかもうわからない。悲鳴は途中で途切れた。喉が炭になるからだ。ルーティアは吐き気を覚えながらも子どもを抱えたまま脇道へ飛び込み、背後で家が崩れて石と梁が落ちる轟音を聞いたが、腕がふさがっていて耳を塞ぐこともできなかった。
「大丈夫です。大丈夫」
そう自分に言い聞かせるしかなかったが、何が大丈夫なのかはわからなかった。
村の中央では男たちが鍬や斧や古い猟銃を取っていたものの、相手は空を歩いて火を落としてくる相手なので、刃物が届くはずもなく、人間の刃はまだ振り上げたまま止まっているだけだった。
「下がれ!」
その声で振り向くと、幼馴染の少年カイが必死の形相で走ってきていた。パン窯の火を管理する手伝いをしていて、いつも煤を頬につけている、細い肩のよく笑う少年だが、今は笑っていないので、ルーティアは胸が痛くなった。
「こっちだ、裏の納屋へ!」
「でも、あの子が」
「今はいい! 生きろ!」
彼の声は震えていたのに目だけはまっすぐで、恐怖に呑まれていても踏みとどまっているのがわかったので、誰かを守りたい気持ちと、誰かに守られたい気持ちが同じ重さで胸に沈んだ。
「早く!」
カイが手を伸ばした、その瞬間だった。
キィン。
また空気が鳴り、ルーティアは反射で顔を上げた。見えた。遅い。遅すぎる。一本の炎の槍が真横から飛んできて、狙いはカイだったのだが、彼は気づいていないし、気づいていても間に合わなかった。
ルーティアは考えるより先に動き、彼を突き飛ばして自分が前へ出た。
次の瞬間、熱が視界を白く灼き、胸の中心を何かが一直線に貫いた。炎の槍は鋭く、真っ直ぐ、狙い違わず彼女の胸を横から突き抜けたので、熱と圧と遅れて来る痛みが一気に押し寄せ、焼ける肉の匂いが自分の中から噴き上がった。
息が止まる。
肺が動かない。
喉がひきつる。
視界の端が赤く染まり、地面が遠のき、耳の奥で骨なのか金属なのかよくわからない何かが砕ける音がした。カイの叫びは聞こえたのに遠くて、手は伸びてきたのに届かなかった。
ルーティアは膝をついた。
胸の中心に灼熱が残り、そこから先の感覚がなくなっていく。熱いのに冷たい。冷たいのに痛い。そんな矛盾した感覚が、ひとつの死にまとまっていく。
胸の奥で心臓が止まった。
そう、知った。
止まるのだ、と。
もう一度呼吸しようとしたが、胸は裂けていて空気は入らず、代わりに焼けた匂いだけが入ってきた。生き物の匂いではなく、壊れたものの匂いだった。視界の向こうではエルフが笑っていて、「当たりか」とか「いや、少し遊びすぎた」とか、誰かの死を盤面の勝敗と同じくらいに扱う声が聞こえた。
そのときルーティアの中で、何かが一度だけ強く軋んだ気がした。
カチン。
古い歯車が噛み合うような、重く鈍い音だったが、それが何かはまだわからない。ただ、わかったことがひとつだけある。彼女は、死んでいく。ごくありふれた、理不尽な死だ。
熱が遠のき、音が遠のき、カイの泣きそうな顔が見えて、手が伸びて、届かなくて、彼の口が何かを叫んでいるのに聞こえなくなって、世界が沈んでいく。空も家も燃える広場も、全部が遠ざかっていくなかで、ルーティアは最後に、焼け焦げた匂いの向こうにあった朝に焼かれたパンの匂いを思い出した。
それは、ひどく優しい匂いだったので、そこで意識は切れた。




