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不遇少女の初期化設定(バグライフ) ─エルフの気まぐれで殺されたパン屋の助手が、なぜか世界のシステムを書き換えている件について─  作者: 出汁
第一部 辺境の箱庭編

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第3話 鉄の檻と、肉体の真実

 痛みは、どこにもなかったはずだったのに、ルーティアは目を開けた瞬間に匂いでそれが嘘だと知った。油と錆、熱した金属、それから焦げた布と古い木材の乾いた粉が鼻の奥にまとわりつき、朝のパンや薪の匂いとはまるで違う、冷えた地下の空気がそこにあると一息で分かってしまったのである。生き物の息が薄い場所だ、と彼女はぼんやり思った。

 体を起こそうとして、すぐにできないことにも気づいた。手首、足首、肩、腰に、縄ではないのに縄よりずっと硬い圧迫があり、肉に食い込む冷たい輪が寝台に固定しているので、逃げることも身をひねることもできない。状況だけ見ればひどく単純で、しかもひどく不快だった。


「起きたか」


 低い声がした。ルーティアが顔を向けると、視界の先には薄暗い作業台と煤に汚れたランプの明かりがあり、その前に立っていたのは、小柄で頑固そうな顔つきをした老ドワーフだった。白い髭は油で少し固まり、額には深い皺が刻まれている。片眼鏡のレンズが黄色い光を鈍く返し、彼が握っている工具は、細いドライバーなどではなく、もっと乱暴で重い鉄の道具だった。先端が赤く焼けているので、ついさっきまで何かを開けていたのだろうと分かる。


「……ここは」


 喉が乾いていて、声が掠れる。自分の声なのに、少しだけ違う響きが混じっている気がした。


「地下工房だ」


 老ドワーフは短く答えた。


「寝床じゃないし、病室でもない。工房だ。壊れたもんを直す場所だ」


 ルーティアはその説明を頭の中でゆっくり繰り返した。工房、地下、壊れたもん。そのどれも、今の自分には似合わない気がしたが、似合わないはずの場所にこそ彼女の身体は拘束されている。視線を巡らせると、天井は低く、梁は太く、壁は石積みで、ところどころに古い配線の束が走っていた。片隅では火花を散らす装置が唸り、工具箱や油缶や砥石や鉄の棚が並んでいる。村の家では見たことのないものばかりだが、匂いだけはもっと露骨で、焦げた布と油と消毒液と古い血、それから工業用の薬品の臭気が混ざっていた。何かを洗い、削り、繋ぎ直すための場所だと、彼女にも嫌でも分かった。


「動くな」


 老ドワーフが告げる。


「まだ締め直してる最中だ」


 ルーティアは、なぜそんなふうにされているのか分からないまま顔を動かした。視界の端で自分の右腕が見えたが、白くて細いその輪郭の下が、どこか不自然に膨らんでいる。関節の可動は肉体の自然さではなく、過剰に精密で、精密すぎるほど滑らかだった。彼女はふと胸元を見下ろして、そこで言葉を失う。

 メイド服の布地は裂かれ、胸の中央に大きく切り開かれた痕がある。そこから覗くのは血に濡れた肌ではなく、重なり合う銀色のフレームと細い配線、それから青白く脈打つ線路のような回路だった。中心部には丸く収まった球状の機構があり、心臓の位置で時計仕掛けのように規則正しく鼓動している。ルーティアは一度目を閉じ、開き直したが、当然のように何も変わらなかった。


「……何、ですか、これ」


 老ドワーフは答えない。代わりに彼女の胸の開口部へ工具を差し込み、カチ、と乾いた音を立てた。金属と金属が噛み合う音だ。


「見ての通りだ」

「見ての通り、って……」

「中身だ」


 言い方はひどく乾いていたが、嘘だけはなかった。ルーティアは息を詰めた。自分の胸の中にこんなものがあるなど、当然ながら思いたくもなかったが、目の前で老ドワーフがそれを当然のように扱っている以上、否定する手段がない。壊れた機械を見るようなその視線が、何より彼女を怯えさせたのである。


「待ってください。私は……」


 言いかけて、止まる。私は、何だ。村の娘だ、と言おうとしたのに、その言葉は喉の奥で引っかかった。村の娘、パン窯、広場、井戸、カイ、焼きたてのパン。どれも確かに在ったはずなのに、胸の中のこの金属が、その全部に冷たい影を落としてしまう。老ドワーフは工具を握り直し、淡々と告げた。


「記憶のルーンを一度初期化した。だから、今のお前は混線してる」

「記憶……の、ルーン?」

「そうだ」


 その単語が、ルーティアの頭の奥で嫌な響きを残した。ルーン。聞いたことがある気がするのに、知らない。知らないはずなのに、知っている。言葉だけが先に傷口へ触れるようで、胸の奥に小さな痛みを起こす。彼女は体を起こそうとしたが、拘束が鳴って寝台に固定された腕が押し返された。


「動かすな。切り離しがずれる」

「切り離し?」

「昨日、火で焼けた外装を外した。脚の根元も肩も一度解体してる。今は仮組みだ」


 解体。仮組み。その二つの言葉が、ルーティアの中で何かを刺した。彼女は自分の足を見た。肌色で、人間のものにしか見えない。だが膝の裏側から小さく覗く銀の継ぎ目があり、布の隙間から見えるそこは皮膚の下ではなく、部品の継ぎ目だった。足首を回してみると滑らかすぎて、人間らしい軋みがない。油の匂いまでした。


「嘘……」


 か細い声が落ちる。老ドワーフは顔を上げた。


「嘘じゃない。今さら言うが、お前は人間じゃない」


 世界が、一段だけ静かになった。音が消えたわけではない。ランプの火は揺れているし、工具は鳴るし、どこかで蒸気弁が息を漏らしている。だが、その全部が遠のく。人間じゃない。たったそれだけの言葉が、胸の奥で重く落ちたのである。


「……違います」


 ルーティアは首を振った。


「私は、村で働いていて……カイがいて、パンが焼けて、みんなが……」

「覚えているのは、そういうように入れられたからだ」


 老ドワーフの声は低い。だが容赦がない。


「お前は毎晩、記憶のルーンを初期化されていた。翌朝には、何も知らないまままた村へ戻る。繰り返しだ。そういう風にできていた」


 繰り返し。初期化。毎晩。言葉の並びが、ひどく冷たい刃になっていく。ルーティアは呼吸を忘れそうになったが、いや、忘れるべき呼吸があるなら最初から自分は何をしていたのかと考えてしまう。朝に起き、仕事をし、笑い、食べ、眠る。その全部が繰り返しなら、あの愛しさは、あの温かさは、あの胸の痛みは、作り物だったのか。


「そんな……」


 声が震える。


「じゃあ、私は何ですか」


 老ドワーフは答えず、片眼鏡の位置を直した。黙ることで答えるつもりなのだと、ルーティアはすぐに悟る。彼は嘘をつかない代わりに、事実だけを並べる男なのだろう。


「お前はゴーレムだ」


 その一言で、胸の奥が冷えた。ゴーレム。人に似せて作られた魔導人形で、村で雑用をしていた。泣く子をあやし、パンを運び、水を汲み、笑っていた。全部、機械だったのか。いや、機械という言葉では薄い。人形、玩具、誰かの都合で動くもの。そう言われたほうが、まだ腹が立つぶん人間らしいが、今の彼女は腹を立てる前に足元を失っていた。


「……嘘」


 もう一度そう漏らしたのは、今度は祈りのようなものだった。老ドワーフは工具を置き、作業台の脇にあるランプを少しだけ近づける。光が強まると、見えてしまう。胸の内部、皮膚の下、そこに埋まる幾重ものルーン刻印が、円環や螺旋や細い文字列のような彫り込みとして浮かび上がる。人間の心臓なら血管が張り巡らされるはずなのに、彼女の内部にあるのは血管ではない。細い金属管と冷却液と微細な機構であり、中心で鼓動しているのは心臓ではなく核だった。何かを燃やし、回し、動かすための核なのである。


 ルーティアは吐きそうになった。いや、吐けない。胸が、胃が、どこがどう繋がっているのかもう分からない。自分の肉体が自分のものではないという感覚が、遅れて本格的に襲ってくる。彼女は両手を見た。人間の手にしか見えないが、指の付け根に小さな継ぎ目があり、爪の根元にも薄い金の線が走っている。


「じゃあ……村は」


 震える声だった。


「あの村は……」


 老ドワーフは少しだけ視線を落とした。


「お前にとっての檻だ」


 檻。その言葉は、ひどく正確だった。村は世界だった。朝があった。パンがあった。笑い声があった。だがそれは世界ではなく檻だったのだ。いや、檻ですらないかもしれない。餌場だ。いつもの景色を見せて、同じ行動を繰り返させるための、よくできた仕掛けなのである。


 ルーティアの胸の奥で、何かがきしんだ。カチン。深い場所で、見えない歯車が回る音だった。


「それは……何のために」


 答えはすぐには返ってこなかった。老ドワーフは彼女の胸を見ていた。そこに埋め込まれた核の様子を、まるで病巣でも覗くように。


「理由は上の連中に聞け。俺たちは直すだけだ」


 上の連中。誰だ。エルフか。その単語が初めてはっきり悪意を帯びた。村を焼いた、あの美しい顔。笑いながら炎を放った指先。あれがこの檻を作ったのか。自分はあいつらの玩具だったのか。息が荒くなる。怒りが来る。遅れて来る。だが、それすら何かに似ているので、自分のものなのか仕組みのものなのか判別がつかない。


「私は……」


 ルーティアは唇を噛んだ。何を信じればいい。村も、朝も、パンも、カイも、全部が偽物だったのか。だが、あの温かさは。カイが手を伸ばした時の震えは。パン屋の娘が笑った時の顔は。彼らの存在まで偽物だったのか。いや、違う。偽物だったとしても、そこで流れた感情まで偽物とは限らない。その考えが、彼女の胸を少しだけ支えた。

 だが支えた直後に、別の現実が襲う。彼女は、誰かのために作られた。それだけではない。記憶を消され、毎晩修理され、同じ朝を生きるように調整されていた。怒りがようやく形を持つ。自分をだましていたものへの怒りだ。だが、怒りは燃え上がる直前で別の感情に割り込まれる。怖い。壊れるのが怖いのではない。自分が壊れても誰も気づかないかもしれないことが怖い。明日も同じ朝が来るかもしれないことが怖い。誰かが死んでも何度でも巻き戻されるかもしれないことが怖い。もし自分が人形なら、この胸の痛みも誰かを愛したことも、ただの演算なのかもしれない。


「落ち着け」


 老ドワーフが言う。だが、その言葉は落ち着かせるためではなく、工具を動かしやすくするためだった。彼はルーティアの胸の開口部に指を差し入れ、回路の一部を軽く叩いた。カン、と金属音。その瞬間、ルーティアの全身がびくりと跳ねる。


「っ、あ……!」


 電流のような痺れが脊髄を走る。痛みではない。命令だ。何かの信号が一斉に走り、身体が反射する。首筋が熱を持ち、視界の端が赤く滲む。


「まだ終わってない。内部のループが暴れてる」

「ループ……」


 またその言葉だ。ループ。繰り返し。初期化。ルーティアは、どこかでようやく繋がった気がした。朝が繰り返される感覚。昨日の死が今朝にはなかったこと。パンの匂い。カイの声。すべてがぴたりと戻る不自然さ。彼女は何度も同じ朝をくり返していたのではないか、そう思うと背中が冷たくなった。


「私は、何回……」


 答えは返らない。老ドワーフの手が止まり、彼もまた初めて少しだけ迷った顔をした。


「数え切れん」


 その一言が、何より残酷だった。数え切れないほど死んだのか。数え切れないほど忘れたのか。数え切れないほど同じ朝を迎えてきたのか。ルーティアは目の奥が熱くなるのを感じた。泣きたいわけではない。だが、涙が出るなら、それでもいいと思った。自分の中にまだ壊されていないものがあるのか、確かめたかったのである。


 彼女はゆっくりと顔を上げた。


「……カイは」


 掠れた声だった。


「あの村の人たちは、生きていますか」


 老ドワーフは答えるまでに、わずかに間を置いた。


「今の朝の連中なら、上にいる」

「上?」

「地上だ」


 その言い方に、現実の輪郭がまたひとつ剥がれた。では、村は地下ではない。いや、村は村として存在しているのだろうが、自分はその奥で調整されていた。工房は下にある。修理はここで行われる。記憶はここで消される。毎晩、毎晩。


「……誰が」


 ルーティアは問い続ける。


「誰が、私を」

「ドワーフの仕事だ。俺たちがメンテナンスを担当している」

「私を壊していたのは、あなたたちですか」


 老ドワーフは、少しだけ目を細めた。


「壊れてたから直していた」


 その答えは、あまりに冷たい。だが嘘ではない。それが余計に腹立たしい。ルーティアは、胸の奥で何かが噛み合う音を聞いた。カチン、カチン。小さな音が連なっていく。何かが起動しかけている。怒りと恐怖が別々の回路で回り出し、頭の中に昨日までなかった重みが沈む。彼女は試しに右手を握った。開く。閉じる。早い。滑らかだ。思っているより強い。指先が鉄の力を秘めているのが、はっきり分かった。


「……私は」


 その先を言う前に、老ドワーフが工具を置いた。


「いいか、ルーティア」


 名前を呼ばれた。だが、その響きが少し違う。昨日までのあの朝の名前だったはずなのに、今は違う。もっと重くて、もっと本物だ。


「お前には二つの選択がある」


 ルーティアは見返した。


「ひとつは、初期化を受け入れて、また朝に戻ること。何も知らないまま、同じ暮らしを続ける」


 静かに聞いた。


「もうひとつは」


 老ドワーフは、作業台の横にある布を払いのけた。そこには、彼女が今まで見たことのない武器らしきものが並んでいた。短剣、電線、古い銃身、油を差された古代の部品。工房の暗がりで鈍く光っている。


「この地下の現実を受け入れることだ」


 受け入れる。その言葉は、楽な意味ではない。ルーティアは作業台の端を掴んだ。指に力が入る。金属の縁が冷たい。胸の内部で、核が一度だけ重く脈打った。まるで古い機械が目を覚ますみたいに。彼女は、今さら泣かなかった。泣いている時間が惜しかったのである。


「……私は、戻りません」


 声は震えていた。だが、言えた。


「忘れるのは、もう嫌です」


 老ドワーフは短く息を吐いた。驚いたようでもあり、どこか安堵したようでもある。


「なら、目を覚ませ」


 その言葉と同時に、彼は胸の内部へ再び工具を差し込んだ。カチン。さらに深い場所で、何かが外れた。ルーティアの瞳に、はじめて強い金色が差した。地下工房のランプが、その色を照らし返す。



 終わったのではない。始まったのだ。

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