第18話 第二封印解除
カイエンが倒れたあと、戦場は一瞬だけ静かになったが、それは静寂ではなく、息を吸う暇もなく誰もが次の死を待つために止まっただけだった。雨は降り続け、泥は濁り、崩れた壁の隙間からは要塞内部の白い光が漏れ、その中を煙と火薬の匂いが漂っている。白い。汚れた白だ。壊れた美しさの色だと、ルーティアは嫌でも思わされていた。
彼女は倒れたカイエンのすぐ前に立っていた。腹と脇腹は真っ赤で、黒い雷に裂かれた傷から血が泥へ落ちていく。彼はまだ息をしていたが、それだけで奇跡だった。唇は青く、顔は白く、それでも目だけは開いてルーティアを見ている。その視線が彼女の胸を刺した。
「……立て」
声は掠れていた。自分が言ったのか別の誰かが言ったのか、ルーティアには分からない。だが、カイエンはその言葉に反応し、唇の端をわずかに動かした。
「……無茶を言う」
「言われなくても、やってください」
彼女は震える声で返す。その言葉が終わる前に、胸の奥で何かがひとつ深く噛み合った。カチン。次の瞬間ではない、そのさらに奥だ。カチン、カチン、カチリ……! 今までとは違う。もっと重い。もっと深い。まるで要塞の床下に眠っていた巨大な歯車が、今ようやく本来の位置へ戻るみたいな音だった。ルーティアは思わず胸に手を当てる。熱い、いや、熱ではない。圧だ。黄金の質量が内側から吹き上がり、空気を押し広げる。
地面が軋み、瓦礫が浮き、雨粒が一瞬だけ宙で止まったように見えた。ルーティアの背後に巨大な古代のルーンが幾重にも浮かび上がる。ホログラムのようでいて実体がある。鎖、枷、錠前、それらすべてがひとつずつ重なり、彼女の身体を封じていた証だった。第一封印のさらに奥、第二のロックが内側から粉々に砕ける。黄金の魔力圧が爆ぜ、周囲の敵兵が膝をつき、エルフの魔導アーマーが見えない壁に押し潰されたように姿勢を崩した。空間が変わる。戦場の空気が、ひとつ上の階層へ引き上げられたように重くなるのである。
「何だ……これ」
ミリーが息を呑む。
「来た」
バルドが低く唸る。
「第二段じゃねえ。もっと上だ」
カイエンの視線も揺れる。彼は血を流しながら、それでもルーティアを見上げていた。驚き、警戒、理解の手前。だが、もう最初のような疑いではない。未知だ。理解できない。だが敵として斬るべきものでもない。そんな顔をしている。ルーティアは一歩踏み出した。その一歩で周囲の瓦礫が吹き飛ぶ。黄金の圧はもうただの防御ではなく、押し潰し、引き裂き、要塞の壁を空気ごと叩き割る。
正面のルキウスが、その力の増幅に目を細めた。彼は血で濡れた外套を肩へ払う。片手には剣、もう片手には今さっきまで砕かれた黒水晶の残骸。戦場のど真ん中で彼だけはまだ楽しそうだったが、その楽しみの底には明らかな焦りが混じっていた。
「まだあったのか」
ルキウスが笑う。
「君の中は、深い」
「黙れ」
ルーティアはその言葉と同時に地面を蹴った。速い。自分でも驚くほど速い。足裏が泥を蹴るたび黄金の圧が後ろへ流れ、身体を前へ押す。ルキウスの剣が横から来る。だが、今度は少し遅い。ルーティアは手の甲でそれを弾き、掌底で彼の胸を叩いた。圧が一点に収束し、ルキウスの身体が壁へ叩きつけられる。石が割れ、彼は咳き込みながら笑った。
「いい」
それがどうしようもなく気持ち悪い。だが、気持ち悪いからこそ彼は本物だった。戦場を壊しながら生きている者の顔なのである。そのとき、背後で別の音がした。短い、金属が何かを差し込む音だ。マキアである。
『今よ』
通信越しの声は完全に冷えている。
『要塞中枢への直通ポートを見つけた。ルーティア、中央司令塔の裂け目へ向かえ。そこで特権ポートを開く』
「何をするんです」
ルーティアは息を切らしながら問う。
『エルフの復活権限を切る』
短い返答だった。
『今の要塞は、死んでも戻れる連中を前提に動いている。だから無茶をしている。だから、人を焼ける。だから、壊れても平気でいられる。そこを物理的に断つ』
「断つって」
『次に死んだら、終わりになる』
その言葉が泥の上に落ちる。終わり。今まで奪われてきたもの。それが要塞の中に通っている。ルーティアは、その意味を完全には飲み込めない。ただ、そこを断てばエルフたちが今までのようには生きられなくなるということだけは分かる。死が戻ってこない世界。戻れない世界。彼らが初めて恐怖を知る世界だ。
「行け」
カイエンは血を流しながら、それでも声だけは折らさずに言った。
「お前が行け」
「でも、あなたは」
「俺は死なない」
あまりにも無茶な嘘だったが、彼は嘘だと分かっていても言い切ることで、自分の役目を果たそうとしていたのである。
「行って、戻って来い」
その一言が、ルーティアの胸を鋭く刺した。彼女は黙って頷き、その瞬間にミリーが肩を叩いて前へ押し出した。
「ほら、行くよ」
「はい」
「あと、帰ってきたらパン焼くから」
「約束、ですよ」
「うん」
言葉は軽かったが、その軽さこそが今の彼女を支えていた。ルーティアはカイエンを支える人間たちを一度だけ見渡し、次にルキウスへ視線を戻すと、壁際で血を拭う男がまだ自分を見ていることに気づいた。彼の目には興奮があったが、その奥には明らかな焦りも潜んでおり、ルーティアの封印がさらに深く開いたことで、楽しみが加速すると同時に計画が崩れ始めているのを悟っているのだと分かった。
「君は」
ルキウスが言った。
「どこまで行く」
ルーティアは少しだけ目を伏せ、それからまっすぐに上げた。
「見せません」
その一言で黄金の圧がさらに膨れ上がり、彼女の背後にある古代ルーンの枷がもう一段開いた。第二の封印を破った衝撃が要塞の床を押し潰し、司令塔の残骸が揺れ、天井の梁が悲鳴を上げ、ルキウスの表情にも初めて微かな変化が走る。その震えは彼の側にいる者だけでなく、要塞の奥にいたマキアにも届いていた。
『……これは』
彼女の声が珍しく詰まる。
『ルーティア。今すぐ中枢へ。あなたの内部、想像以上に深いわ』
「深いって、何が」
『私にもまだ全部は読めない。でも、ひとつだけ言える』
通信の向こうで、彼女は短く息を吸った。
『あなたは、ただの兵器じゃない』
その一言は、ルーティアの胸をひどく痛めた。違うなら自分は何なのか、その答えを探すより早く、ルキウスが再び踏み込んでくる。黒い剣が振り下ろされ、ルーティアはそれを受け止め、圧と圧の衝突で空気がひび割れた。しかもその裂け目の向こうでは、マキアの仕込んだハッキングが完成に近づいており、要塞の司令塔の奥にある特権アクセスポート、つまり世界のシステム層へ直結する細い回線がようやく繋がろうとしていた。
それが通れば、エルフたちの不老不死は終わる。マキアはその事実を噛みしめるようにして、静かに告げた。
『いま切る』
そして接続した。白い光が司令塔の奥で一瞬だけ赤く染まり、その瞬間に戦場の空気がひっくり返る。ルーティアはその変化を肌で感じ、要塞全体を支えていた見えない線が一本ぷつりと落ちたことを理解した。次の瞬間、エルフ兵たちの顔色が変わり、自分たちの終わりがもうシステムの向こうへ逃げられないところまで来たのだと悟っているのが分かった。
「何をした!」
遠くで誰かが叫び、別の誰かが悲鳴じみた声で続ける。
「復活権限が……」
その先は続かなかった。マキアのハックが要塞内のバックアップ層を一気に遮断し、赤いランプが落ち、補助コアが停止し、再起動待機列までもが消えていく。戻れるはずだった場所がひとつずつ閉じていく中で、ルキウスが初めて本気で目を見開いた。
「……まさか」
彼は後退し、その反応を見たルーティアはようやく理解する。あの男は恐れているのだと、そして死んでも終わらないと信じていた者たちが、今まさに終わりを知ったのだと悟る。戦場の色はそこで変わり、エルフ兵たちの一部は武器を落とし、混乱が一気に広がった。
「うそだ」
「戻るはずだ」
「再起動は」
「バックアップは」
声が次々に裏返るなか、人間たちはその変化を見逃さなかった。カイエンが血を吐きながらも銃を上げる。
「撃て」
低い声だった。
「今度は逃がすな」
ミリーが笑い、ライフルを撃ち込む。
「やっと神様が人間の顔してきた」
倒れたエルフ兵の顔には、初めて死ぬのが怖いという色が浮かんでいた。今までどれだけゴーレムのように踏み潰してきたのか、どれだけ人間を見下してきたのか、その全部がようやく自分に返ってきたのだ。ルーティアはその光景を見つめ、胸の奥に痛みとともに奇妙な感情が広がるのを感じた。嬉しい、だがそれだけではない。死を知らない神が死を知った瞬間の顔が、あまりに哀れだったのである。
『完了。要塞エリア内のバックアップ遮断、全部終わったわ』
マキアの通信が再び乗り、その一言で地獄の空気がさらに冷えた。
『エルフが神でなくなった瞬間よ』
ルキウスはその言葉を聞いて低く笑ったが、そこにあったのはさっきまでの狂喜ではなく、追い詰められた獣の笑いだった。
「そうか」
彼はゆっくりと剣を見下ろした。
「なら、もっと面白くなる」
言い終える前に、彼は逃げた。いや、敗走だった。崩れた司令塔の奥へ黒い外套を翻して駆け抜け、右腕は傷だらけで肩口から血を流しているのに、それでも笑っていた。死の恐怖が初めて自分に迫ったことを、むしろ楽しんでいるようでもあった。
「待て!」
ミリーが叫び、カイエンが撃つ。だが届かず、ルキウスは雨と煙の向こうへ消えていった。ルーティアはその背中を見送りながら、あの男はまだ終わっていないのだと、そして終わっていないのが彼だけではないのだと悟る。
要塞の中枢モニターが赤く染まったまま何かを映し出し、そこには世界の管理者AIの名が一瞬だけ浮かび上がった。
`Congratulations`
それは勝利の言葉ではなく、失敗作たちへの嘲笑にしか見えなかった。ルーティアがその文字を見つめていると胸の奥が冷え、マキアの通信が一拍だけ遅れる。
『……何か、おかしい』
彼女の声は低かった。
『この戦争、まだ終わってないわ』
その直後、要塞のさらに奥で、もうひとつの高い周波が鳴り響いた。
キィン。
古く、冷たく、しかし確かにそれはクレイドルの音だった。ルーティアはその響きを聞いた瞬間、胸の奥で眠っていた何かがこちらを向く気配を感じた。知らないはずなのに知っている、見たことがないのに待っていた、そんな奇妙な感覚だけが残り、彼女は崩れた最上階に立ち尽くしたまま、次に来るものを見上げる。まだ下がある。もっと深いところがある。そして、その先には誰も知らない答えが眠っているのである。




