第17話 人間の矜持
雨はまだ降っていたが、もはや天気の話ではなかった。空から落ちてくるのは水だけではなく、砕けた石の粉、焼けた金属の匂い、要塞の崩壊が作る冷たい湿気でもあったので、正門の前は白い壁の残骸と泥と血でぐちゃぐちゃになっている。そこにいる者たちは誰一人きれいではなかったが、だからこそ戦えていたのである。
ルーティアはルキウスと向き合ったまま立っていた。ルキウスの剣はまだ黒く、雨に濡れてもその黒さは鈍らない。彼は口元を拭い、今度は少しだけ肩を落とした。楽しみの顔だが、そこに焦りが混じっている。さっきの一撃で彼は確実に傷を負い、人間の銃弾もルーティアの圧も彼を完全には無傷でいさせなかったので、彼はさらに欲しくなっているのだろう。
「いい」
彼は低く言った。
「やはり君は、壊しがいがある」
ルーティアは返事をしない。返事をすれば、何かが崩れそうだったからだ。そのとき、横合いから銃声が連続で響いた。人間兵たちだ。ミリーが最初に飛び出し、叫びながらライフルの残弾を全部吐き出す。
「私たちの聖女様に触るな、この耳長野郎!」
乾いた銃声が雨に混じり、散弾ではなく対魔力弾がルキウスの周囲で火花を散らして外套の一部を裂く。だが、彼は怯まない。怯まないが、目の奥は笑っていなかった。
「虫が増えたな」
「虫で悪かったね」
「悪くはない。潰し甲斐がある」
その言葉を聞いた瞬間、カイエンが前へ出る。腹部の傷は深く、包帯の下からまだ血が滲んでいたが、彼は銃を持っている。人間の武器を持っている。泥まみれの靴で地面を踏みしめ、ルキウスの死角へ入った。
「後ろだ」
短い声。
「知ってる!」
カイエンがルキウスの肩へ組みつく。それは洗練された戦いではない。泥臭く、荒く、無様だが、その無様さこそが人間の強さだった。エルフのように美しくはない。だが、相手の刀を奪うには十分であり、カイエンはルキウスの剣腕を引っ張り、体勢を崩し、足を払う。ルキウスの身体が一瞬だけ沈んだ。
「人間らしい」
彼は押さえ込まれながら笑う。
「それが、嫌いじゃない」
「なら、もっと嫌って死ね」
カイエンは肘をルキウスの喉へ叩き込んだ。鈍い音がしたが、それでもルキウスは剥がれない。魔力身体強化で筋力を上げ、逆にカイエンを振りほどこうとする。体格差ではなく反応速度の差であり、二人の身体が泥の上でもつれ合う。そこへミリーが脇から爆薬を投げた。
「離れて!」
爆発。ルキウスが後方へ弾かれる。ルーティアはその隙に踏み込んだ。黄金の圧が周囲を押し潰し、エルフ兵たちが膝をつき、残っていた魔導アーマーが姿勢を崩す。彼女はその中心で、ただひたすらに前へ進む。周囲には人間たちがいた。ミリーの叫び、バルドの砲声、負傷した兵の呻き。誰も完璧ではないが、誰も引いていなかった。
「隊長」
ミリーが肩で息をしながら、カイエンを見る。
「まだいける?」
「いける」
「絶対嘘」
「黙れ」
そのやり取りの間に、ルキウスが再び姿勢を立て直す。
「見事だ」
彼は言う。
「人間が、神の足元で吠えている」
カイエンは返さない。ただ銃口を上げた。
「神じゃない」
低い声だ。
「お前らは、ただの長生きだ」
ルキウスの眼が細くなる。その瞬間、彼の周囲に黒い雷が走った。ルーティアはそれを見て背筋が冷える。さっきの、カイエンを裂いたものだ。雷そのものではなく、剣と魔導回路と要塞の残留電力が噛み合って起こる黒い切断線であり、彼はそれを意図的に扱っているのだった。
「それでも」
ルキウスは囁く。
「本物だ」
彼は剣を振り上げた。狙いはルーティアではない。カイエンだ。ルーティアが気づくより早く、彼は踏み込む。速い。やはり速い。ルーティアが圧をぶつけるより一瞬早く、ルキウスの切っ先がカイエンの脇腹へ刺さった。
「隊長!」
ミリーの悲鳴。カイエンは避けきれなかった。黒い雷が彼の身体を真横から切り裂き、血が噴く。彼は一歩下がって膝をつくが、銃を落とさない。落とさないままルキウスへ最後の一発を撃つ。弾丸はルキウスの肩を貫き、彼の身体をほんの少しだけ後ろへ押した。その一瞬で十分だった。
ルーティアの胸の奥で、何かが叫ぶ。カイエンが倒れ、泥の中へ崩れた。その光景を見て、ルーティアは世界が音を失うのを感じた。人間が、人形である自分のために、ここまでボロボロになっている。それは嬉しい。嬉しいから、苦しい。胸の奥に重い歯車が嵌まり、カチンという、もう音ではなく骨の奥で聞こえる衝撃が走る。彼女はカイエンの方へ駆けようとするが、呪印が熱を上げる。紫、紫、紫。回路が過熱し、全身に痛みが走る。それでも止まらない。止まったら、今度こそ誰かが死ぬのである。
「触るな」
ルキウスが、倒れたカイエンを見下ろしながら言った。
「僕の相手は、まだ君だ」
ルーティアはその言葉を聞いて、完全に切れた。
「黙れ」
黄金の圧が、これまでで最も重くなる。要塞の残骸が震え、瓦礫が浮き、雨が逆流したように見えた。ミリーが驚いた顔で振り返る。
「うそ」
バルドが端末を落としそうになる。
「二つ目か」
マキアの通信がノイズの向こうから食い込んでくる。
『……来るわよ』
その声は、今度は本当に焦っていた。
『ルーティア、あなたの中のロックが一段深く外れ始めてる。止めなさい。今ここで無理に開くと、身体がもたない』
身体がもたない。そんなのは知っている。だが、カイエンが倒れている。ミリーが泣きそうな顔で銃を握っている。バルドが歯を食いしばっている。ルキウスが笑っている。だから止まれない。ルーティアは自分の胸を押さえた。第一のロックの奥にさらに深い何かがいる。それを今、開けてしまいたい。
「見ろ」
ルキウスが囁く。
「まだあるんだろう」
その声が、彼女の怒りを煽る。ルーティアはゆっくり顔を上げた。
「あります」
低い声。
「でも、あなたには見せません」
その瞬間、胸の奥の歯車がもっと深く噛み合う。カチン、カチン、カチリ……! 今までで最も重く、不気味な音が要塞全体に鳴り響いた。その音を聞いた瞬間、誰もが一度だけ動きを止める。ルキウスでさえ、ほんのわずかに目を見開いた。
「またか」
今度は驚きではない。期待だ。ルーティアは、その期待が心底嫌だった。胸の奥で何かがさらに深く回転するが、まだ開かない。開く前の軋みが大きすぎて、周囲の空気が震えているだけだ。頭の中には、止まれ、開くな、耐えろ、違う、もっと強く、もっと深く、といった声がいくつも重なる。
その間に、カイエンが呻いた。彼は泥の中に片手をついたまま血を吐くが、目だけは上を向いている。ルーティアを見ている。心配しているのか、確認しているのか、もはや分からない。ただ、彼はまだ諦めていなかった。ミリーが駆け寄り、血で濡れたカイエンの肩をつかむ。
「隊長!」
「うるさい」
「うるさくても、死ぬな」
「……死なない」
その返事は弱い。だが、弱くても言い切る。それが、人間の矜持なのだとルーティアは思った。壊れやすい。痛い。無力だ。それでも、壊れないふりではなく、壊れたまま前へ進む。だから彼らはすごいのである。
バルドが、カイエンの傷を一瞥して唸る。
「肺じゃない。だが深い」
「治せる?」
ミリーが問う。
「ここでは無理だ」
「じゃあ、運ぶ」
「お前が?」
「私と、そっちのゴーレムたちで」
ミリーは言いながら周囲へ叫んだ。
「負傷班、こっち! 隊長を引っ張れ!」
その声で、数人の人間兵と、青い光を首筋に残したゴーレムたちが一斉に動く。彼らはカイエンを支え、泥の上から引き起こそうとした。誰もがひどく荒いが、その荒さがいい。完璧な救助ではないが、助けるための手だった。
ルーティアはその光景を見て息を飲む。守られている。自分が。いや、自分だけではない。ここにいる全員が、互いのために身体を張っている。そういう連鎖が、戦場の中でだけ本物になる。彼女はその事実にひどく胸を打たれた。
「ルーティア」
カイエンが、引き上げられながらも彼女を見る。
「行け」
「でも」
「いいから、行け」
その声は、もう命令ではなかった。頼みだ。ルーティアはその頼みを聞いて、胸の奥が痛くなる。ルキウスが、そのやりとりを見逃すはずがない。
「感動的だ」
彼は剣を肩に担ぎ直した。
「人間はいい。壊れながら、まだ他人を気にする」
「気にするから強いんです」
ルーティアは低く言い返した。
「お前たちみたいに、壊すことしか考えないのとは違う」
ルキウスの目が細くなる。
「そうか」
その一言のあと、彼はゆっくりと黒い雷を剣身に走らせた。要塞の残留電力を吸い上げたかのような光だ。その光を見たミリーが短く舌打ちする。
「まだやる気かよ」
「当然だ」
ルキウスは笑う。
「まだ誰も、本気で死んでいない」
その一言で、ルーティアの中で何かが切れた。今この目の前では誰かが血を吐き、誰かが支えられ、誰かが走っているのであり、死はすでにここにあって、重く、近く、泥にまみれたまま確かに息をしているというのに、それを遊びの温度で語るのなら、もう我慢はできなかった。ルーティアは片手で首筋を掴み、呪印が焼ける痛みに顔を歪めながらも、その奥で回転を始めた歯車の気配に意識を引きずられていく。さらに深く、さらに内側へと、第二の封印、第三の封印が押し上がり、眠っていた何かが確かに目を覚ましつつあった。
「来るなら」
彼女はそう言って、息を吸い込む。
「今です」
その瞬間、ルキウスが本当に踏み込んできた。剣先はカイエンへと伸び、ルーティアはそれを見た途端、考えるより先に飛び出していた。黄金の圧が爆ぜてルキウスの剣を弾き、その反動で彼女の内側にある歯車が一段だけ外れ、カチン、カチンと深く重く古い音を響かせる。要塞全体がその響きに合わせて軋み、エルフ兵たちは膝をつき、雨さえ一瞬止まったように見え、ミリーは目を見開き、バルドは拳を握りしめ、カイエンは血まみれの顔でルーティアを見上げた。
「おい」
カイエンの声は震えていた。
「まだ、あるのか」
ルーティアは答えなかった。答えられなかったのではなく、今の彼女にはまだ言葉として掴めるものがなかっただけで、胸の奥では確かに何かが目を覚ましていた。それを開けてしまえば、もう今の自分には戻れないと知っていても、彼女の足は止まらなかったのである。するとルキウスが、狂気に近い笑みを浮かべた。
「そうだ」
その声には、隠しきれない歓喜が混じっていた。
「それを見たかった」
ルーティアは真正面から彼を見返し、揺らぎのない声で言い返した。
「見せません」
その直後、要塞はもう一度大きく震えた。揺れの中で、ルーティアは背後にいる人間たちの息遣いを聞き取る。ミリーの荒い呼吸も、バルドの低い罵声も、カイエンが血を吐きながら、それでも立ち上がろうとする気配も、すべてがひとつの「生きろ」という圧力になって彼女の背中を押していた。だからこそ、まだ完全には開かない扉を、彼女は内側からこじ開けようとするのである。次の一撃で壊すのは、この手だ。今はまだ耐えるしかないが、それでも彼女は立っていた。まだ倒れない。




