第16話 黒い雷、黄金の圧
要塞の中央広場は、もう広場ではなかった。崩れた石、焦げた木材、割れたガラス、雨で薄まった血が散らばり、そこへ煙が絡むせいで夜の空気はひどく重く沈んでいる。かつて整然としていた白い空間は、今や瓦礫と火花の海であり、美しかったものが壊れたあとの匂いは、結局のところ鉄と焦げと泥と死の匂いに尽きるのだと、ルーティアは嫌でも思わされていた。
その中心に立つ彼女の胸の奥では、黄金の圧がまだ脈打っていたが、さっきまでのような暴力的な噴出ではなく、封印解除の余韻として身体のどこかがまだ熱い、という感覚に近かった。使える。まだ使える。だから使う。その単純な結論だけが今の彼女を前へ押している。
前方で黒い外套がひるがえった。ルキウスだ。白い顔、血の筋、濡れた髪、そして瞳の奥にある獣のような飢えが、雨の中でもはっきり見える。先ほどまでの狂気は少し落ち着いていたが、そのぶん危険になっている。彼は今、何をしても壊れないと信じている者の顔をしていたし、同時に壊れるかもしれないことをむしろ望んでいる顔でもあった。
「まだ立てるか」
ルキウスが問う。
「立っています」
ルーティアは答えた。
「なら、いい」
彼は剣を肩へ担ぎ、ゆっくりと笑う。
「これでこそだ」
その言葉はどうしようもなく腹立たしい。ルーティアは息を整える。周囲では、人間兵が残敵を掃討し、ミリーが弾倉を入れ替え、バルドが倒れた機体の足を爆薬で吹き飛ばしている。マキアの通信は途切れ途切れだが、まだ生きていた。要塞内部のシステムは今も狂っており、味方も敵もその結果に振り回されているのである。だが、ルキウスだけはその混乱を楽しんでいた。
「君は」
彼は言う。
「面白いな」
「褒めても何も出ません」
「欲しいのは、そういう返事じゃない」
ルキウスの目が細くなる。
「君の中の本物だ」
その瞬間、彼が踏み込んだ。速い。魔力身体強化で無理やり加速した肉体は雨を裂き、石畳を滑る。剣の軌跡は細いが、その細さが恐ろしい。ルーティアは反射で黄金の圧をぶつける。圧と剣がぶつかり、火花ではなく空気が悲鳴を上げたような音が響き、周囲の瓦礫が震えた。
「遅い」
ルキウスが囁く。
彼は剣を引き、次の踏み込みで横から切る。ルーティアは腕で受けた。痛い。だが止まらない。彼女はそのまま体勢を崩さず、逆に掌底を返す。黄金の圧がルキウスの肋骨へ押し込まれ、外套が裂け、血が飛んだ。彼は、その痛みに表情を歪めて笑う。
「そう、それだ」
「何がです」
「死に近い」
「気持ち悪いです」
「ひどいな」
彼の会話は、戦場に似つかわしくないほど楽しげだった。だがその楽しさに、ルーティアは吐き気を覚える。人が死ぬかもしれない場面で笑うのは、彼にとって正しさなのだろうか。違う。たぶん違う。だが、彼はそうやってしか生きられないのかもしれない。そう思うと、なおさら嫌だった。
ルーティアは次の一撃を避け、剣が頬をかすめる。熱い。浅い傷。血が滲む。彼女はそれを拭わない。拭えば次の動きが遅れる。戦場では痛みは後でいい。
「なぜ、そんなに死を欲しがるんですか」
彼女は避けながら問う。ルキウスは少しだけ目を開いた。
「欲しいからだ」
「理由になっていません」
「なっている」
彼は踏み込む。
「不老は退屈だ。死がない世界は終わりがない。終わりがないものは、何も本気になれない」
その言葉に、ルーティアは一瞬だけ止まりかける。終わりがない。それが彼を狂わせたのか。だが、だからといって許されるわけではない。彼が退屈したからといって村は焼かれていい理由にはならない。
「勝手です」
「知ってる」
彼は、まるで褒め言葉みたいに言った。会話の最中、ルーティアの背後でカイエンが銃を構える。
「離れろ」
短い。ルキウスの肩越しに、ルーティアを見る。
「君の仲間は、邪魔だ」
「仲間です」
「そうか」
その返答は少しだけ軽かった。だが次の瞬間、ルキウスは地面を蹴ってカイエンへ突っ込む。狙いは見えていた。カイエンの傷だ。血の匂いだ。そこへ意識を向けさせ、ルーティアを引き離す。戦場の読みとしては正しい。だからこそ腹が立つのである。
「来るな!」
ルーティアは叫び、黄金の圧を前へ押し出す。圧がルキウスの軌道をずらし、カイエンの銃弾が飛び、ミリーの爆薬が横から炸裂する。ルキウスはそれを受けながらもなお笑っており、黒い外套の端が飛び、頬が裂け、肩から血が流れる。だが、そのたびに彼は少しだけ生き生きして見えた。
「そうだ」
彼は息を弾ませながら言う。
「もっとだ」
その声に、ルーティアの中で何かが逆流する。怒り、嫌悪、守りたいものへの執着、自分を壊そうとする存在への拒絶、その全部が一つの圧になる。彼女は足を踏み込み、地面が割れたように見えるほどの力で、黄金の大剣を掌の圧から形にした。剣身は光ではない。圧縮された力そのものであり、振り下ろせば空間ごと切れるような気がする。ルキウスはそれを見て、眼を細めた。
「来たか」
彼は剣を両手で構える。
「ようやく本気だ」
ルーティアは答えない。答えるより先に斬る。剣と剣がぶつかる。金属音ではない。圧の爆ぜる音だ。衝撃で周囲の瓦礫が飛び、ルキウスの足元が沈み、ルーティアの肩が弾かれる。だが、彼女は引かない。引けばカイエンが危ない。引けばミリーが危ない。引けば、今ここで戦っている者全員が危ないのである。
「いい」
ルキウスは剣を押し返しながら笑った。
「そうでなくては」
彼の瞳は、もう完全に戦場のものだった。その時、ルーティアの首筋が焼ける。紫。さっきよりは弱いが、確実に熱が走る。呪印だ。黒水晶の余波か、まだ残っていた強制命令が身体を内側から煽ってくる。彼女は歯を食いしばった。全身の回路が熱くなり、視界の端にノイズが走り、膝が笑う。
「っ……」
「どうした」
ルキウスが笑う。
「もう終わりか」
「黙れ」
彼女は呪印の激痛を自力で押し返す。誰も、もう自分を動かせない。そう思った瞬間、胸の奥でひときわ重い歯車が回った。カチン。今度は深く、ゆっくりと。第一封印の奥で別の何かが目を覚ましかけている。ルーティアはそれを抑えながらも、ルキウスへ向かって剣を振るった。雨が裂け、石が割れ、ルキウスの剣が弾かれる。
その直後だった。彼が、狂ったように笑いながら懐へ手を突っ込む。黒い水晶、それを物理的に噛み砕いた。硬い破砕音とともに、ルーティアの首筋が殺人的な紫に染まる。彼女の魔力回路が過熱し、全身が燃えるように痛い。膝が折れ、吐血し、泥の中へ赤が落ちた。ルキウスはその喉元に剣を突きつける。
「さあ」
壊れた笑み。
「もっと、見せてみろ」
その言葉はもう挑発ではなく、命令に近かった。ルーティアは膝をついたまま、喉の奥で血の味を噛む。視界の端が白く飛び、耳鳴りがし、全身の回路が悲鳴を上げる。紫の呪印が焼けた針みたいに首筋を走り、彼女は自分の身体のどこを支えに立てばいいのか、もう分からない。
「ルーティア!」
カイエンの声が遠い。だが遠いのに届く。彼は腹の傷を押さえながら、それでも前へ出ようとしていた。だめだ。来ないで。そう思うのに声にならない。ルキウスの剣は彼ではなくルーティアを見ている。だから、もし動けば別の誰かが死ぬ。
ミリーが横から飛び込んだ。
「どきなさい、この耳長野郎!」
散弾がルキウスの横顔をかすめる。ルキウスは、それでも笑う。
「邪魔だ」
軽く言って、剣を横薙ぎに払う。ミリーが飛び退き、泥を蹴って転がり、腕で顔を庇う。危ない。だが死んではいない。死なせない。ルーティアの胸の奥で何かが叫ぶ。守れ。今だ。彼女は立ち上がろうとするが脚が動かない。熱すぎる。痛すぎる。世界が狭い。首筋の呪印が紫の光を増すたび、脳の奥まで命令が流れ込む。撃て。殺せ。従え。抵抗するな。そういう声が何層にも重なる。
ルーティアは、その全部を歯で噛み砕くように唇を噛んだ。
「だめ」
掠れた声。
「私は……」
誰にも聞こえないほど小さい。
「私のものです」
その一言が、彼女の中で最初の反抗になる。ルキウスはその言葉を聞いた。
「いい」
興奮していた。
「そうだ。そういう顔だ」
彼は本気で喜んでいる。ルーティアは、その喜びが理解できない。理解できないが、だからこそもっと嫌だった。嫌悪が怒りへ変わり、怒りが圧になる。その圧がほんの少しだけ呪印の熱を押し戻す。
「離れろ」
カイエンが低く言った。彼はついにルキウスへ銃口を向けた。腹の傷は開きかけているが、それでも撃つ。人間の意地だ。無茶だ。だが、無茶だから生き残ることがある。
「撃つぞ」
「撃て」
ルキウスは、カイエンへ視線をずらした。
「その顔も悪くない」
「黙れ」
カイエンの引き金が落ちる。弾丸が飛ぶ。だが、ルキウスはそれを避けず、剣で弾いた。火花、硬い音。続けて彼は一歩踏み込み、カイエンの懐へ入る。速い。速すぎる。ルーティアはその軌道を追おうとして首筋を焼かれ、視界がぶれる。
「隊長!」
ミリーがもう一度走る。だが間に合わない。黒い雷が、今度はルキウスの剣からではなく、周囲の要塞残骸の導線を通って走った。どこかで漏れた高電圧、いや、漏れではない。戦場全体が、今や壊れかけた回路になっているのであった。ルーティアにはそれが分かるのに、避けられない。
カイエンの身体が弾かれた。真横から胸元を裂くような衝撃を受け、彼は膝をつき、泥の上へ片手をついた。血が増える。ミリーの顔から笑みが消える。
「うそ」
バルドが低い声で罵った。
「まだ生かしてやるつもりだったのに」
ルーティアは、そこで初めて本気で叫んだ。
「やめて!」
声が出た瞬間、黄金の圧が爆ぜる。ルキウスの身体が一瞬だけ浮き、周囲の瓦礫が割れ、ルーティア自身もその反動で吐血した。だが止まらない。止まれない。カイエンが倒れ、ミリーが支え、バルドが駆け寄る。みんな壊れながら前へ進んでいる。その光景を見た時、彼女の胸の奥でさらに重い錠前が外れかけた。まだ。まだある。このままでは足りない。
「そうか」
ルキウスは血に濡れた口元を拭った。
「そこまで傷つくか」
「お前がやった」
ルーティアの声は、もう震えていなかった。震える前に怒りが先に来たからだ。彼女は立ち上がる。首筋の呪印がさらに焼ける。痛い。だが、その痛みの奥にもっと深いものが見えた。第二の、第三の、まだ眠っているロックだ。今外れかけているのは、ほんの入り口にすぎない。ルーティアはルキウスを睨む。
「次は、あなたが泣く番です」
ルキウスは目を細めた。
「それを待っていた」
そして、彼が懐へ手を伸ばす。黒水晶の残りだ。今度は噛み砕く気なのだ。ルーティアは先に動いた。泥を蹴り、黄金の圧を一点へ集め、ルキウスの手首へ叩きつける。骨が鳴り、黒水晶が宙へ弾ける。雨の中で紫と金が交差した。
そしてその破片の先で、カイエンの銃口が震えたままこちらを向いていた。彼の目は、もう疑っていない。ただ、答えを探している。そのことがいちばん怖かった。ルーティアは息を止め、次の言葉を待つ。雨だけが先に落ちた。その沈黙が銃声より怖い。彼は何を知ったのか。今さら逃げられない。だから、見た。逃がさない。ルーティアは目を逸らさない。何が来ても、ここで受け止める。止める。今度こそ、だ。




