第15話 城壁崩落
嵐の夜だった。風は横殴りに吹き、雨は壁を叩き、泥は深くて足を取るが、戦う者たちはそこを走るしかなかったので、要塞の正面防壁は雨の向こうで白く光りながら、まるで何も壊れないと信じ込んでいる顔をしていた。美しく高く滑らかなその壁は、これから崩れるとは思っていない者の傲慢そのものだった。
カイエンは装甲車のハッチから身を乗り出し、砲撃までの秒数を短く切って告げる。
「砲撃、五秒後」
その横でミリーが導線を確認し、C4の束と爆薬の箱と濡れた手袋を忙しなく扱いながら、雨に濡れていることも気にせず歯でテープを裂いた。
「この雨、最悪」
「爆薬には関係ない」
「気分の話」
「戦争に気分は要らない」
「隊長、冷たい」
そのやり取りのあとでミリーは笑うが、笑うというより笑う形をしているのであり、その裏にはこれから壁を壊すという明確な意志があった。人間はこういう時だけ妙に明るい。ルーティアはその後方で雨を受けながら、冷たさを逆に頼もしく感じていた。熱で頭がぼんやりするよりずっと戦えるし、彼女は両手を握ったり開いたりしながら、胸の奥の黄金の圧が嵐の音に負けないか確かめていた。
「配置につけ」
バルドがスパナで命じる。
「盾班は前。散弾班はその後ろ。ゴーレムは壁際に貼りつけ。マキアの命令を待て」
その名前を聞いた瞬間、通信が入った。
『聞こえる?』
マキアだ。雨音の向こうで、彼女の声は乾いている。
『要塞の内部防壁の一部に、さっきハッキングを入れた。五分だけ、外側の監視が鈍る。その間に壁の基部へ爆薬を置きなさい』
「五分しかないの」
ミリーが眉を上げる。
『長いほうよ』
その答えが返る前に、カイエンが手を上げた。
「行く」
装甲車が前へ動く。泥を蹴り、雨を裂き、正門へ迫る。門の上からはエルフの矢が降り、爆炎の矢が雨を貫いて火を落とす。美しい軌跡だったが、雨のせいで熱は少し鈍るので、人間は前へ出られた。前へ出られるうちに出るのだ。
「盾を上げろ!」
人間兵が一斉に構える。木製の盾に鉄板を打ち付けた即席の防護。その上へ火矢が当たり、焦げ、割れるが、撃ち返す前に割れなければ十分だった。ひとりが足を撃たれて崩れるが、その崩れた瞬間に別の兵が前へ出る。戦いはきれいではなく、足を崩し、腹を伏せ、頭を低くし、射線をずらし、相手の癖を読むという地味な工程の積み重ねだった。エルフの美しさは、この泥の中では役に立たないのである。
ルーティアは壁際へ駆けた。雨が顔を打ち、肩に爆風の破片が当たる。そのたびに胸の圧が少しずつ高まる。基部へ爆薬を置き、ミリーが先に走って壁の継ぎ目にC4を貼り付け、導線を引いていく。泥にまみれた手で火薬の位置を確かめるその横へルーティアが加わり、彼女は両手で壁に触れた。重い。冷たい。だが、壊せる。壊せると分かった瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「まだ」
ミリーが囁く。
「急がないで。足音を揃えて」
それは戦場での優しさだった。ルーティアは頷く。やがてカイエンの声が響く。
「全班、離れろ」
彼の合図で人間たちが後退し、ゴーレムたちもマキアの命令に従って一斉に退く。装甲車が後方へ下がり、雨がさらに強くなる。壁の上ではエルフたちが見下ろしていた。高い位置から人間を見下ろす顔だが、いまでは少しだけ焦っている。なぜなら、見下ろしていたものが今から壊れるからだった。
カイエンが腕を振り下ろす。
「点火」
ミリーが信管を押した。雷鳴。轟音。C4が一斉に爆発する。地面が跳ね、視界が白くなる。耳が痛い。胸が痛い。要塞の誇りだった壁の基部が、ただの石と鉄の塊になって崩れていく。巨大な白い外壁が音を立てて割れ、斜めに沈み、泥へ沈んだ。人間たちの歓声は短い。だが、その短さがいい。
「やった!」
「崩れた!」
「押し込め!」
その瞬間、要塞の内部から別の光が走る。青白い、いや黄色がかった白だった。壁の崩落に反応して、防衛システムが起動したのである。だが、その動きがおかしい。通常なら味方の識別を優先するはずなのに、レーザーは横へ逸れ、逃げ遅れた敗残兵の列へ向かった。ひとり、またひとりと、肉が焼け、鎧が蒸発し、悲鳴が短く切れる。
「何だ、あれ」
ミリーが息を呑む。カイエンの顔が硬くなる。
「誤射だ」
「そんなわけ」
「マキアだ」
その名を言うと同時に通信が入った。
『予備の制御ルートを吸い上げたわ』
マキアは淡々としている。
『防衛レーザーの周波数をこちらへ引っ張った。だから、今は要塞の目が狂ってる』
「狂ってる、じゃ済まない!」
ミリーが叫ぶ。だがマキアは少しも動じない。
『分かっている。だから急ぎなさい。ここから先は、敵も味方も区別がつかなくなる』
その言葉が終わる前に、再びレーザーが走る。今度は要塞の内側を掃くようにして、光の線が逃げるエルフ兵を追い、壁際の補給倉庫を焼き、転がった兵器を蒸発させた。美しかった要塞の防衛が、突然、自分の体を食い始める。誤射ではない。もっと悪い、バグだ。誰かが言った不具合が、今ここで最も残酷な形で牙をむいているのである。ルーティアはその光景を見て息を止めた。怖いが、それは嫌な怖さではなく、壊れていく側の怖さだった。
「進め!」
カイエンが叫ぶ。人間たちは瓦礫の中へ走り、ゴーレムたちはレーザーを避けながら負傷兵を引きずる。ルーティアも走る。泥に足を取られ、雨に目を潰され、それでも前へ。要塞の白い壁はもう誇りではなく、ただの崩れた石だ。だが、煙の向こうから次の敵が現れる。白い外套、黒い剣。ルキウスが崩落した壁の隙間に立っていた。
彼は笑っていない。いや、笑っているが、もう狂気の笑みではなく、もっと深くもっと静かな笑みだった。世界が壊れ始めたことを心から喜んでいる顔である。
「ようやく」
彼は囁く。
「本物だ」
その言葉に、ルーティアの胸の奥が重く鳴る。要塞は崩れた。だが戦いはここからが本番だった。ルキウスの姿を見た瞬間、カイエンが舌打ちする。
「出てきたか」
腹の傷はまだ深いが、彼は銃を構え直した。ミリーが横で弾倉を入れ替え、バルドが砲座へ走る。ルーティアは泥を踏みしめ、黄金の圧を身にまとったままルキウスを見据えた。白い外套は雨の中でも不思議と汚れておらず、それがひどく不気味だった。
「生きてたのね」
ミリーが吐き捨てる。
「当然だ」
ルキウスは壁の裂け目から一歩だけ入る。
「こんな面白い夜に、途中で死ぬわけがない」
その言い方が気持ち悪い。戦場を楽しむ声だが、彼は本当に楽しんでいる。泥にまみれても雨に叩かれても嬉しそうで、壊れる現場に立っていることが彼の生きる理由なのだとでもいうようだった。
「お前、何がしたい」
カイエンが問う。ルキウスは少しだけ首を傾げた。
「知りたいか」
「お前が何を考えてるかで、撃つ順番が変わる」
「合理的だ」
彼は笑う。
「僕は、壊れるものが見たいだけだ」
その瞬間、ルーティアの胸の奥でさらに深い音がした。カチン。彼女はルキウスの言葉に、はっきりと怒った。壊れるものが見たい、それがどれだけ身勝手で、どれだけ残酷か。村で焼かれた人々の声、パンの匂い、手を伸ばした子どもの震え、それら全部がその一言で踏みつけられるのである。
「見るな」
ルーティアは言った。ルキウスは彼女へ視線を向ける。
「見ないと分からない」
「分からなくていいです」
「それは困る」
彼は本気でそう言った。その本気さが、いっそう腹立たしい。ルーティアは地面を蹴る。黄金の圧が前方へ走り、ルキウスを押し返す。だが彼は押されながらも剣を振るった。剣圧が雨を裂き、近くの砕けた壁面を深く切る。ルーティアはそれを避け、その先でミリーの散弾が飛ぶ。ルキウスはその弾道を一瞥し、わずかに身を引いた。速い。だが、カイエンのほうがもっと速かった。
「右!」
彼の叫びで別班が突っ込む。人間たちが、エルフの敗残兵を押し潰すように前へ出る。さっきまでレーザーに焼かれていた連中はすでに混乱していた。そこへマキアの声が通信を裂く。
『レーザーの周波数を再設定した。今、同じ座標に二回撃てない。だから、撃たせるだけ撃たせて』
「なるほどね」
ミリーが笑う。
「つまり、敵に撃たせて自滅させるわけ」
『そういうこと』
その瞬間、要塞の内部防衛が再び起動する。だが今度は味方をも巻き込んでいた。白い光が走り、本来なら人間の突撃班へ向くはずのレーザーが角度を狂わせ、逃げ遅れたエルフ兵たちへ向かう。ひとり、ふたり、三人。鎧が蒸発し、肉が焼け、悲鳴が雨の中で短く切れる。
「何だこれは!」
エルフ兵のひとりが叫ぶ。すると別のレーザーが足元を掃き、その答えのように周囲を焼いた。
「バグだ」
マキアの声は冷たい。
『あなたたちが作ったものが、あなたたちを焼いているだけよ』
その言葉に、ルーティアの胸が少しだけ熱くなる。要塞の誇りだった防衛システムが、今は敵も味方も区別せずただ焼く。それは「ざまぁ」と言うには軽く、もっと重く乾いた勝利だった。だが勝ち切るにはまだ足りない。ルキウスが剣を肩に担ぎ直す。
「ここまで来て、それか」
彼はレーザーに焼かれる味方を見ても動じない。
「面白い。ますます面白い」
そして視線をルーティアへ戻す。
「君は、どこまで行ける」
ルーティアは息を吸い、もう迷わない。黄金の圧を掌に集め、ルキウスへ向かって一気に放つ。圧縮された見えない衝撃が雨粒を押し潰し、泥をはね上げる。ルキウスはそれを避けるが、完全には逃げきれず肩が裂け、血が飛んだ。彼はそれを見て、初めて少しだけ表情を変える。痛みを喜ぶ顔だ。
「いい」
彼は唇の端を吊り上げる。
「本当に、いい」
その頃、後方ではマキアが要塞の制御系をさらに深く掘り下げていた。
『防衛レーザーの主周波数、こちらへ完全に引き寄せる。三十秒だけ、要塞の目を潰す』
「三十秒で十分か」
カイエンが問う。
『十分じゃないなら、撃ちなさい』
短い返答。その冷たさが逆に頼もしい。人間とゴーレムと、ひとりの半壊した少女が、同じ泥の上で同じ敵に向かっていた。ルーティアはその事実を噛みしめる。要塞の壁は崩れ、防衛は誤射し始め、ルキウスはまだ笑っているが、その笑みの奥にはほんの少しだけ焦りが見えた。
「来る」
カイエンが呟く。
何が来るのかルーティアにはまだ分からない。だが、すぐに分かる。レーザーが振れた先で司令室のモニターがひとつ赤く染まり、そこに映っていたのは壊れた要塞の内部図ではなかった。赤黒いノイズに混じって、ひとつの文字列が浮かび上がる。
`GAROU / 90%`
ルーティアはその単語を知らない。だが、マキアは通信の向こうで息を止めた。
『……来る』
その一言が終わる前に、要塞の奥から低く重い起動音が響いた。まだ見えない何かが目を覚まし始めている。戦場が次の歯車を回し、その歯車は止まらない。ここから先は燃える。逃げ場はもうない。誰も止まれない。戻れない。だから進む。泥のまま、血のまま。それでいい。今は。燃え尽きるまで、ここで終わる。




