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不遇少女の初期化設定(バグライフ) ─エルフの気まぐれで殺されたパン屋の助手が、なぜか世界のシステムを書き換えている件について─  作者: 出汁
第一部 辺境の箱庭編

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第14話 決戦前夜のパン

 地下の夜は地上より早く冷え、格納庫の天井から落ちてくる空気には鉄とオイルと火薬の匂いが混ざっていたが、そこにまだ戦闘の焼け跡が薄く残っているからこそ、ルーティアは人は戦いのあとに食べるのだとようやく理解し始めていた。人間もゴーレムも、腹が減れば明日が来ることを前提にしてしまうので、明日があるか分からない夜ほど、手を動かし、何かを焼き、何かを食べるのだろうと彼女は思っていた。そんな格納庫へ、ミリーが焼きかけのパンを抱えて走ってくる。


「見て見て、やっと膨らんだ!」


 片手鍋の上で発酵させた簡易パンは形こそ不格好だが、表面はきれいに割れていて、焼きたての匂いが火薬臭を少しだけ追い払っていた。ルーティアはその匂いを嗅いだ瞬間、胸の奥が少しだけ柔らかくなるのを感じる。パンはあの朝の匂いだったし、焼け落ちた村の中でも最後まで残っていた匂いでもあったので、胸に刺さるような懐かしさがあった。


「食べる?」


 ミリーが差し出したそれを、ルーティアは恐る恐る受け取った。熱いが、それは戦場の熱ではなく食べるための熱であり、重いが、それも武器の重さではないので、指先で確かめるように一口かじる。小麦の甘さと少しの塩、焼き目の香ばしさが舌に広がり、たったそれだけで胸が痛くなった。


「どう?」

「……おいしいです」


 ミリーは得意げに胸を張る。


「でしょ。明日生き残ったらさ、本物の焼き立てのパンってやつ、一緒に食べようよ」

「本物?」

「そう。シナリオの匂いじゃなくて、ほんとに小麦から焼いたやつ。村の窯じゃなくてもいいからさ、ちゃんと粉こねて、ちゃんと寝かせて、ちゃんと焼くの」


 ルーティアが少しだけ首を傾げると、ミリーは明日死ぬかもしれない、という顔で食べるパンは味が変わるのだと笑いながら説明し、だから明日はちゃんと生き残って、ちゃんとお腹を空かせて、ちゃんと食べたいのだと続けた。その願いはひどく普通で、だからこそルーティアの胸に深く刺さった。


「……約束、ですか」

「うん」


 ミリーは、いっそ軽く頷く。


「約束」


 その横で、バルドが装弾箱を運びながら鼻を鳴らした。


「生き残る前提で話すな」

「だって、死ぬつもりでパン焼くやついる?」

「いる」

「最低」

「戦場だぞ」


 そんな会話が格納庫のあちこちで続いている。人間たちは銃を磨き、弾を詰め、爆薬の導線をチェックし、ゴーレムたちは首筋の紋の残光を気にしながらも工具や火かき棒を持ち替えていた。誰もが少しずつ明日を前提にしているのに、明日が来るか分からないからこそ、今できる準備をやめない。その姿は、どうしようもなく人間的だった。

 カイエンは装甲車の横で静かに部品を確認していた。腹にはまだ包帯が巻かれているが、目は鋭いままだし、痛みを表に出さない。その彼へ、バルドが油の染みたスパナを差し出す。


「旧世界の特製アサルトライフルだ」

「何だそれ」

「喉笛をぶち抜け」

「説明が雑」

「必要な説明だけだ」


 カイエンはスパナではなく銃のフレームを受け取る。古いが重心がよく、人間が長いあいだ使い続けてきた道具の手触りがあった。彼はそれを見て少しだけ口元を緩める。


「悪くない」

「だろ」


 バルドが鼻を鳴らしたちょうどその時、格納庫の中央に青いホログラムが立ち上がった。マキアだった。彼女の顔は疲れているが目は研ぎ澄まされており、管理者権限を握ったままの冷たい顔で、手元のログをめくりながら要塞の内部構造を拡大していく。中心部、深い階層、さらにその奥にある細い接続路へ視線が止まると、格納庫の空気が少しだけ硬くなった。


「要塞の中枢に、世界のシステム層へ直通する特権ポートがある」

「そこへ繋げば、何が起きる」


 カイエンが問うと、マキアは少しだけ間を置いてから答えた。


「私をオモチャにした連中の不老不死を、物理的に切断できる」


 誰もすぐには答えなかった。不老不死を切断するという言葉はあまりにも乱暴で、同時にあまりにも希望に満ちていた。人間もゴーレムも、エルフの死なない前提に何度も傷つけられてきたので、その前提を壊せるなら、戦う理由としては十分だった。


「切断って」


 ミリーが目を細める。


「つまり、死ぬってこと?」

「ようやく、そうなる」


 マキアは冷たく言った。


「次に死んだら、戻れない」


 その一言が地下の誰かを震わせる。戻れないという言葉は、彼らがずっと奪われてきたものを端的に示していた。ルーティアはそれを聞き、自分の胸の奥で何かが静かに軋むのを感じる。戻れないからこそ生が重く、だからこそ明日があるのだと、初めてその単純なことを理解した気がした。


「怖いのね」


 ルーティアは、マキアへ問いかけた。ホログラムの向こうで、彼女が一瞬だけ目を伏せる。


「怖くないわけないでしょう」

「でも、やる」

「当然よ」


 それは命令ではなく意思だった。マキアは、与えられた玩具として不老不死を抱え込んできた連中から、それを壊して返して取り返すのだと続ける。彼女の声には偽物の母性ではない別の熱があり、奪われたものを奪い返す熱だった。ルーティアはその熱を見て、少しだけ頷く。


「私も」


 自分でも驚くほど自然に言えた。


「守りたいです」

「何を」


 マキアが訊く。ルーティアは少しだけ言葉を探してから、短く答えた。


「みんなを」


 それは大きすぎて曖昧で、戦争の場では頼りない言葉だったが、今の彼女にはそれしかない。村の人たち、カイエン、ミリー、バルド、自分にパンをくれた少女型ゴーレム、まだ名前も知らない誰かたちが、彼女の中で重なっていた。


「それでいい」


 カイエンが言う。


「明日は、そのために要塞へ行く」


 格納庫では最後の確認が始まる。ミリーが導線を切り直し、バルドが炸薬を整理し、カイエンは銃のボルトを磨く。ルーティアはその一連の動きを見ながら、自分も準備しなければと思うが、何を準備すればいいのか分からない。銃は持てないし、爆薬は重い。だが、胸の奥の黄金の圧なら少しは制御できる気がしたので、彼女は両手を握ってゆっくり開いた。


「使える」


 バルドが短く言う。


「何がです」

「その力だ」


 今日、何度目かのその言葉だった。使え。奪うためではなく、守るために。ルーティアはその言葉を胸に置く。夜が更けるにつれて格納庫の空気は少しずつ熱を増し、明日が近いことだけが、誰の目にも分かるようになっていった。明日こそ要塞の正面防壁へ出て、泥と油と人間の意地で神の城壁を崩すのだと考えるだけで、吐きそうなほど怖いのに、同時にひどく鮮やかでもあった。

 マキアが最後にホログラムを閉じる前、ひとことだけ言った。


「中枢に行く前に、ひとつだけ知っておいて」


 彼女の視線が全員を一巡する。


「要塞の深部には、もう一つの古い機構がある。私でも完全には触れない。だから、誰かが先に行くなら、その誰かは戻れないかもしれない」


 沈黙が落ちる。だが、ミリーは笑った。


「それ、今さら言う?」

「今さらよ」

「ひどい」

「知ってる」


 カイエンは何も言わなかったが、その目はもう覚悟を決めている。ルーティアはその顔を見て、明日の朝を思った。焼き立てのパン、火薬の匂い、泥の上の足跡、生き残った先でちゃんと食べる約束。それがあるなら、明日はまだ終わっていない。

 ルーティアはその夜、少しだけ眠れた。眠る前、彼女はひとりで格納庫の端まで歩き、古い作業台の上に置かれていた焼ききれなかったパンの端切れと、油紙に包まれた乾燥肉を見つける。誰かが夜食のつもりで残していったものらしく、その匂いを嗅いで、彼女は少しだけ笑った。村の夜も、こうだったのである。明日死ぬかもしれない夜ほど、人はよく食べる。

 彼女はパンの端をひとつ手に取り、ゆっくり齧る。硬いが十分で、歯ごたえがあり、噛むたびに小麦の味が広がった。その味は焼けた村の記憶と混ざり合い、失われたものとまだあるものが同時に口に残るので、ひどく苦しかった。


「眠れないのか」


 背後からカイエンの声がした。ルーティアが振り返ると、彼は腹を押さえながら歩いてきており、包帯の上からジャケットを羽織っている。無理をしているのが見え見えだが、それでも立っている。立っていられるうちは立つ、という顔だった。


「少しだけ」

「少しだけなら、寝ろ」

「無理です」

「そうか」


 その一言だけで終わる。会話が長引かないのは、この人のいいところでもあり、悪いところでもあるが、今はありがたかった。長く話せば怖さが増すし、短い言葉のほうがまだ動けるのである。カイエンは作業台の上に置かれたパンを見た。


「それ、ミリーのだろ」

「たぶん」

「食べていい」

「もう食べました」

「なら、次も食え」


 彼はそう言って、自分のポケットから乾いた肉片を取り出し、油紙に包まれたそれをルーティアへ差し出した。


「これも」

「私に」

「腹が空く」


 彼女は少しだけ目を丸くする。この人はこういうところで妙に親切だ。優しいとは少し違い、生き残らせるために渡す、そういう配慮なのである。だが、それが嬉しかった。彼女は乾燥肉を受け取り、口に入れる。塩が強く、硬いが、温度があった。人の手を経た食べ物の味だった。


「……おいしいです」

「だろうな」


 カイエンは壁にもたれた。


「ミリーが焼いた」

「やっぱり」


 その瞬間、ミリーが遠くから顔を出した。


「今、文句言った?」

「言ってない」

「絶対顔で言ったでしょ」


 そのやり取りに、格納庫の数人が笑った。笑い声は小さいが、確かに笑っている。明日死ぬかもしれない夜に、人はなぜ笑うのか、ルーティアはまだ完全には理解できないが、笑いがあるから死が少しだけ遠のくのだと感じた。

 バルドが離れた作業台で油を拭きながら言う。


「明日の朝は、最初の砲撃前に動く」

「何時だ」


 カイエンが訊く。


「朝食の前」

「雑だな」

「戦争に丁寧さを求めるな」


 ミリーが笑う。


「でも、パンは丁寧に焼くよ」


 その言葉に、ルーティアは胸が少しだけ熱くなる。パンは丁寧に焼く。戦争は雑にやる。その二つが同じ夜に並んでいるのはおかしいが、正しい気がした。壊すためではなく、壊されないために準備する。そういう生き方を、彼女は今から覚えるのだろう。

 夜がさらに深くなる。格納庫の一角では、ゴーレムたちが互いの首筋の紋を確かめ合っていた。もう青くはないが、まだ赤でもない、あの中間の色だ。あやふやな揺らぎではあるものの、今はその揺らぎこそ希望なのである。完全に従属していない。完全に自由でもない。その間で、自分で選べる。ルーティアはそれを見て、少しだけ羨ましかった。彼女はまだ、自分の選び方を知らないが、明日要塞へ向かえば、何かが変わるはずだった。

 マキアが示した特権ポート、世界のシステムへ直通する接点。そこまで辿り着けば、エルフの不老不死を切断できるかもしれない。その言葉を思い返した時、ルーティアはパンを持つ手を止めた。死を切断する。そんなことができるなら、もしかすると自分たちの痛みも意味を持つのかもしれない。


「怖いですか」


 不意にミリーが訊いた。ルーティアは少しだけ考える。


「怖いです」


 正直に答える。


「でも」


 彼女はパンの欠片を見つめた。


「約束は、守りたいです」


 ミリーが目を細める。


「うん。そういうの、嫌いじゃない」

「私もです」


 そう言ったあと、ルーティアは少しだけ驚いた。自分で言っておいて、自分で少しだけ救われた気がしたからだ。その夜、要塞の上ではもう爆撃の準備が進んでいたが、地下では誰もその朝を完全には信じていなかった。それでも、格納庫には焼きたてのパンの匂いが残っていたのである。


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