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不遇少女の初期化設定(バグライフ) ─エルフの気まぐれで殺されたパン屋の助手が、なぜか世界のシステムを書き換えている件について─  作者: 出汁
第一部 辺境の箱庭編

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第19話 神の悲鳴

 最初に壊れたのは音だった。上級将軍アルセインは司令室の中央でその異変を聞いたが、聞いたというより、聞こえるはずのものが消えたのである。壁面を満たしていた復活回線の低い脈動、補助ルーンが吐き出す微かな駆動音、頭蓋の奥で鳴り続けていた同期待機の鼓動、そのすべてがある瞬間を境にぴたりと止まり、静寂ではなく何かが止まった後に残る空白だけが部屋を満たしていた。

 アルセインは最初、それを理解しなかった。理解する必要がなかったからだ。彼は長く生きてきた。あまりに長く。死は一時停止にすぎず、体が壊れても復活の回路が呼び戻し、記憶は保たれ、美しい肉体は更新され、傷も恐怖も失敗も全部が次の転生に持ち越される。そういう前提の上で、何百年も何千年も他者を見下してきたのである。だから恐怖を知らないし、知らないから退屈だった。だが今、その退屈を支えていた土台が抜け落ちた。

 司令室の壁面モニターが赤く染まる。ひとつ、またひとつ。復活権限の表示が消え、バックアップ列が黒に沈み、再構成待機の帯が途中で途切れる。管理画面の端を走っていた緑色のラインはみるみるうちに痙攣し、すべてが暗転した。アルセインは息を止めた。


「……何だこれは」


 声が、自分のものではないように聞こえる。隣にいた補佐官が端末を叩く。必死だ。指が速い。だが画面は応えない。拒絶、権限不足、同期遮断、アクセス不能。赤い警告が何層にも重なって吐き出される。


「通信が死んでいます」

「どこへだ」

「要塞内の全バックアップ路です」

「そんなはずはない」

「いえ」


 補佐官の顔が白くなる。


「切られました。意図的に。誰かが……上位から」


 アルセインの胸の奥が冷たく沈んだ。切られた。バックアップが。復活が。この世界を神の側にしていた最後の保険が。ありえない。ありえないはずだ。だが数字は残酷であり、画面は嘘をつかず、表示は真っ赤で沈黙は深い。アルセインの喉が乾く。喉だけではない。指先も歯の裏も背骨の隙間も、急速に冷えていくのである。


「再試行しろ」


 自分でも驚くほど高い声が出た。


「再起動だ。上位権限に直通しろ。要塞の管理層へ繋げ」


 補佐官は再び打つ。打つ。打つ。だが返ってくるのは同じだ。拒否、拒否、拒否。その文字が増えるたび、アルセインの中に見たことのない感情が積もっていく。不安だ。いや、違う。恐怖だ。そう気づいた瞬間、彼の背中を冷や汗が伝った。

 次の瞬間、司令室の扉が乱暴に開いた。外の廊下からひとりの兵が転がり込む。白銀の鎧は泥と血で汚れ、胸当てには焼け焦げた穴が空いている。彼は息をするたびに喉を鳴らし、床に手をついたままアルセインを見上げた。


「将軍……!」

「何だ」

「前線が崩れています! 復活が、復活が使えません!」


 その言葉が室内の空気を凍らせた。アルセインは兵の襟首を掴む。


「ふざけるな」

「本当です! 死んだ者が、戻ってこない! 戻らないんです!」


 一瞬、何も聞こえなくなる。いや、聞こえている。どこかで何かが燃える音、遠くで爆ぜる音、要塞の深部から響く低い崩落音。だがその全部が急に遠い。戻らない。死ぬ。終わる。その三つの単語が頭の中を何度も回る。アルセインは手を離した。兵は床へ崩れ落ちる。その顔を見た瞬間、彼はようやく理解した。今、自分の喉を掴んでいるのは敵ではない。死だ。死が要塞の内側まで入ってきているのである。


「嘘だ」


 言葉は弱い。兵は首を振る。


「嘘では……ありません」


 その時、廊下の向こうで叫び声が上がった。短い。切れた。次いで足音、走る音、逃げる音、誰かが壁にぶつかる音、ドアを殴る音、命令を怒鳴る声。だが命令は通らない。復活を前提にした世界でしか成立しない暴力は、復活が切れた瞬間に骨抜きになる。ただの暴力になる。怖いのではない。みっともないのである。

 アルセインは走った。高貴な歩き方を捨て、司令官の姿勢を捨て、廊下に飛び出す。そこには、彼が長年見下してきた顔があった。壁際で膝を抱え、泣いている若い兵がいる。


「将軍、助けて」


 別の者は武器を落としていた。


「死にたくない」


 さらに別の者は呪文を唱えようとして噛み、舌を震わせていた。


「お願いだ、戻してくれ」


 無様だった。ひどく無様だった。だがアルセインは、その顔を見て吐き気を覚えた直後、自分も同じ顔をしていることに気づく。死にたくない。助けてほしい。戻してほしい。今まで何度も誰かに向けてきた感情が、初めて自分の喉元に噛みついているのである。

廊下の奥で、誤作動した防衛レーザーが火花を散らし、味方だろうが何だろうが識別を失った機体は区別しないまま赤い光条を走らせ、ひとりの兵の肩を焼き切った。焼けた肉の匂いがじわりと漂うと、アルセインは足を止めたが、それは彼がこれまで幾度となく敵に嗅がせてきた匂いであり、それが今は自分の鼻へ返ってきただけだったのである。さらに先の壁面には帝国の紋章が刻まれた金属板が整然と並び、かつてなら勝利を飾る眩しい意匠に見えたはずなのに、白い光に泥が跳ね、赤い警告灯が反射した今ではどの紋章も傷口のように見えた。高い天井から吊られた結晶灯も、貴族のための光を放っているはずなのに、泣き崩れる兵の顔を照らす飾り物に堕ちていた。

 アルセインはふと自分の指先を見下ろし、震えているその手がこれまでどれほど多くのものを壊してきたのかを思い返した。人間の家屋、ゴーレムの胴体、逃げる背中、泣く子ども、どれも数えたことなどなかったが、数える必要もなかったのである。壊れても戻る世界だったからこそ、痛みは消費の対象でしかなく、戻るなら何も失われていないのだと信じていられた。だが今は違い、一度壊れたものは壊れたままで、一度死んだものは死んだままという単純な事実が、骨の内側まで重く染み込んでいた。


「将軍……」


 背後で誰かが呼び、振り返ると若い文官が紙束を抱えたまま青ざめて立っていた。彼はまだ状況を飲み込めていないし、正確には飲み込みたくないのだろうが、目の前で起きているのは夢ではなく、夢なら戻るはずなのに戻らない以上、それは現実だった。文官が各区画への退避命令を口にしかけたところで、アルセインは首を振った。


「間に合わん」

「ですが」

「もう、命令しても意味がない」


 その返答で文官は黙るしかなかった。命令の効力は死を前提にした秩序の上に成り立っていたのであり、死が恒久化した瞬間に秩序は崩れ、脅しは脅しでしかなくなり、恐怖は最初からそこにあったのではなく、壊れないという神話がそれを見えなくしていただけだったのだと、アルセインは遅すぎる理解とともに歩き出した。廊下の突き当たりには戦術指令室へ続く通路があり、その途中で窓のない壁に自分の姿が黒く曇って映り込む。白い髪、整った顔、高級な装具、そのどれもが以前の自分のままだというのに、目だけは飢えた獣のそれになっており、逃げ場を失った生き物の目をした己に、彼は嫌悪と同時にこれこそが自分なのだという感覚を抱いてしまったのである。


「将軍!」


 曲がり角から下級のエルフが転げ出てきた。顔は血まみれで左腕は不自然に折れ、彼はアルセインを見つけた途端、救いを見つけた子どものように泣き出した。


「助けてください! どこへ逃げれば!」


 アルセインは思わず一歩退いた。逃げる先など、どこにあるというのか。要塞の外も中枢も上空の塔も、復活が切れた時点で安全など消え去っており、彼らは初めて自分たちの肉体がたった一つしかないことを思い出したのだ。そして思い出した瞬間から、壊れ始めている。アルセインの記憶に、人間の村を焼いた夜が鋭く蘇った。泣き叫ぶ人間を面白がって見ていた自分、壊れたゴーレムを足で蹴り、再構成までの時間を笑い飛ばした自分、そのすべてが死なないという前提に支えられていた残酷さだったのだと、彼はようやく知ったのである。

 その瞬間、司令室のモニターが再び点灯した。赤黒いノイズに満ちた暗い画面の中央に浮かんだのは、帝国の記録にない冷たい白文字だった。


`フォラス`


 アルセインは息を呑んだ。その名を知っていたわけではないが、意味だけは本能で理解できた。上から見下ろすもの、判断するもの、生かすか切るかを決めるもの、それは今まで自分たちが持っていると思い込んでいた権限の、そのさらに上にある何かだったのである。画面の下端に文字が流れ込む。


`Congratulations`

`再試行を終了しました`

`以後、死亡は恒久化されます`

`失敗作群の処理を開始します`


 アルセインの膝が折れ、床へ崩れ落ちた。手をつき、震え、自分の指が自分のものではないように感じながら、死がもうすぐそこにあるのではなく、すでにここに来ているのだと悟る。背後から、廊下の先から、画面の向こうから、どこからともなく処理の気配が迫っていた。


「処理……だと」


 その声はもはや命令ではなく、懇願に近かった。だがモニターは答えず、ただ無機質な文字列だけを続ける。


`対象群、再分類`

`神階権限、剥奪`

`恒久削除、許可`


 その表示を見た途端、周囲のエルフたちが一斉にざわめいた。


「嘘だ」

「ありえない」

「誰がこんなことを」


 だが叫びは長く続かず、高慢な言葉は死の前ではあまりにも軽く、床に落ちる前に自壊するように崩れていった。廊下のさらに向こうからは重い足音が近づき、人間の軍靴が泥を踏み砕く音と金属の補助靴が鳴る音が交じり、その隙間にゴーレムの軽い足音まで混ざってくる。アルセインが顔を上げると、そこに現れたのは今まで虫けらとしか見てこなかった者たちであり、銃を構えた人間、ナイフを握るゴーレム、泥と油に塗れた顔、傷だらけの目が、今は真っ直ぐにこちらを見据えていた。

 アルセインは喉の奥から声を絞り出した。


「やめろ」


 だが、それは命令ではなく、ただの頼みだった。人間のひとりが銃口をわずかに上げ、短く言い捨てる。


「今さらだ」


 その一言で廊下の灯りがひとつ消え、いや、消えたのは灯りだけではなく、アルセインの中で神だった自分が今まさに死んだのである。その先で誰かが笑い、その笑い声が人間かゴーレムか、あるいは画面の向こうの管理者のものかは分からなかったが、確かなのは、もう遅いということだけだった。


「次に消えるのは、誰だ」

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