第12話 世界の調律師
修理室は静かだったが、ただ音がないだけではなく、音を殺しきったまま何かを待っているような、妙に緊張を孕んだ静けさでもあった。厚い壁も重い扉も防音のルーンも、床の隅に染みこんだオイルの匂いまでが、この場所では落ち着いて見える。天井から吊られたランプの光は低く、そこに並ぶ工具はどれも古くて錆びていたが、バルドの手つきはそれらを使い込まれた頼れる道具として扱っていた。
「そこへ座れ」
彼はルーティアへ短く言った。作業台の上は人間でいうところの手術台のようなもので、太い革のベルトや鉄の固定具、胸部を開くための支柱まで付いている。ルーティアはそれを見て背筋が少しだけ冷えるのを感じたが、何をされるのかはもう分かっていた。壊れたものを直すにはまず開かなければならないので、理屈としては正しくても、怖いものはやはり怖かった。
彼女が座ると、カイエンは壁際で腕を組んだままこちらを見ていた。腹にはまだ血の跡が残り、包帯の上から新しいジャケットを羽織っているが、顔色はよくない。それでも目だけは閉じておらず、監視というよりはここで何が起こるのかを見届けるという眼差しだった。ミリーは少し離れた場所で腕を組み、わざと軽い調子で口を尖らせる。
「隊長、そんな顔しないでよ」
「黙れ」
「だって、あの子、今からバラされるんでしょ」
「言い方」
「事実じゃん」
怖い場面を軽口で流すのは、彼らなりのやり方らしかった。ルーティアはそれを少し羨ましいと思ったが、自分はまだ怖いことを怖いと言うことしかできない。バルドは作業台の周りを一周し、油の染みた手袋、スパナ、薄い刃、金属のピンを一つずつ確かめていく。工房の匂いは鉄と焦げと冷却液と古い電線の匂いが混ざって、ますます濃くなった。人の体を扱う場所の匂いではないが、ルーティアの身体はもう人の体ではないのだと、嫌でも分かってしまう。
「胸、開けるぞ」
その言葉に、ルーティアの喉が詰まった。返事はしたいのに、喉の奥が勝手に固くなる。けれど拒むことはできず、彼女は小さく頷いた。バルドはためらわずに胸元へ進み、メイド服の布を切り開いた。裂ける音がして、冷たい空気が素肌に触れる。彼は留め具を外し、内部の保護板へ手を掛けると、カチ、カチという小さな金属音が響いたが、ルーティアはその音に妙な既視感を覚えた。以前にも似た音を聞いた気がする。胸の内側の金具が一つずつ外れていくたびに、彼女の中で何かが少しずつ露出していき、そこにあったのは人間の肋骨ではなく、厚い装甲板と細いフレーム、配線束と冷却管、そして微細なルーン文字だった。彼女はそこで初めて、自分の中に心臓ではなく機構があることを、はっきり見てしまった。
「見ないほうがいい」
「でも、見せるんだろ」
「必要だろ」
「必要だな」
バルドは短く言って、さらに内部を開いた。奥で光が漏れる。胸の中心には丸い核があり、それは卵のようにも古い発電機の中心にも見えたが、何より近いのは巨大な時計の心臓だった。螺旋、歯車、極細の刻印、そして中心から静かににじむ黄金の光がそこにあった。ルーティアは思わず息を止める。
「……これ」
声が掠れる。
「何ですか」
「コアだ」
バルドは答えた。
「その体の中心だ。まだいくつか封印がかかってるが、いま見えるのは本体だ」
「本体」
「そうだ。お前の心臓の代わりだ」
心臓の代わりという言葉は冷たいが、説明としてはたぶん正しかった。ルーティアは胸の中へ手を伸ばしたくなる衝動をこらえる。触れれば、もっとはっきりしてしまうからだ。自分は人間ではないし、それだけでは足りない。体の奥にあるものはただの動力源ではなく、もっと古く、もっと巨大なものだという感覚があった。バルドはコアへ慎重にスパナを当てる。
「動くなよ」
「……動けません」
「だろうな」
乾いた笑いが一つ落ちたが、次の瞬間、バルドの表情が変わった。彼はコアの中心にある小さな刻印を見つけたのだ。いや、小さいのではなく、見落としていただけだった。古代文字で刻まれた紋様がコアの内側に埋まっている。回路でも機械でもない、もっと象徴的で意味のある印だった。
「……なんだこれは」
彼は耳を寄せるように覗き込んだ。
「時計のギミックなんてもんじゃねえ」
そこで修理室の空気が、一段硬くなった。バルドの手がかすかに震え、工具を落としそうになって、それでも握り直す。額には汗が浮いていた。ルーティアはその反応を見て、嫌な予感を覚えた。自分の胸の奥にあるものは、ただの高性能機械ではなく、もっと厄介で、もっと危険なものだという確信が、じっと重く沈んでいく。
「どうしたんです」
カイエンが訊く。バルドは口を開いて、すぐ閉じた。
「……世界の電力を、逆流させかねん」
「は?」
「底なしだ。ブラックホールみたいなもんだ」
ミリーが目を丸くする。
「そんなの、動かしたら終わりじゃん」
「だから言ってんだろうが」
バルドはコアを見つめたまま、低く唸った。
「これ、ただの核じゃねえ。何かを吸い上げる前提で組まれてる。しかも、普通のエネルギーじゃない。もっと上だ。もっと古い。システム全体を飲み込むレベルの代物だ」
ルーティアはその言葉の意味を理解しきれなかったが、終わりという単語だけは分かった。終わりかねないものを、自分は胸の中に入れている。怖い。だが同時に、妙に納得もしていた。胸の奥で感じるあの重さは、どう考えても普通ではない。村を焼いた炎を押し潰した圧も、このコアの一部なら辻褄が合うし、自分が何度も死んだような記憶を抱えていたのも、この内部機構が関わっていたのではないかと考えると、記憶の隙間が少しだけ繋がる。
「だから毎晩、初期化されていたのか」
ルーティアは小さく言った。バルドは答えない。だが、その沈黙が答えだった。毎晩修理され、毎晩記憶を消され、このコアがあるから何度壊れても戻され、このコアがあるからエルフたちは村を遊び場にしていたのだと理解すると、怒りがここで初めて静かにやってくる。ルーティアは胸の奥で拳を握った。
「私は……」
言葉が続かなかった。何と言えばいいのか分からない。人形でも村娘でも、ただの道具でもない。だが、では何なのか。自分の名前でさえ、まだ借り物みたいに思える。そんな彼女へ、カイエンが一歩近づいた。
「怖いか」
今度は彼が訊く。ルーティアは少しだけ考えてから頷いた。
「怖いです」
「そうか」
「でも」
彼女は胸のコアを見た。
「怖いだけではないです」
その言葉に、カイエンは何も返さなかった。代わりに、銃を肩から外して作業台の横へ置く。信頼のようでもあり、警戒のようでもある動作だった。自分はまだ彼の仲間ではない。だが、敵でもなくなりつつある。その境目にいるのだと、ルーティアはぼんやり思う。
「見つかったものは、隠せない」
バルドが唸る。
「このコアは、見つかった時点で災厄だ。狙われる」
「誰に」
ミリーが訊く。
「上だ」
バルドの答えは短い。
「エルフも、人間も、どっちもだ。こんなもんを黙って見過ごすわけがない」
その言葉で修理室の空気はさらに重くなった。ルーティアは自分の胸の中で眠るものを見つめる。恐ろしく大きいが、同時にどこかでわくわくしている自分もいた。こんなにも危険なら、きっと何かを変えられる。もしそれが誰かを守る力になるなら、それでいいと思えた。
「修理は」
彼女は訊いた。
「できますか」
バルドは少しだけ黙ってから、工具を拾い上げる。
「できる。だが、優しくはない」
「構いません」
「そうか」
彼は作業台のライトを強めた。光の中で、コアの刻印が鈍く浮かぶ。その古い紋様の隣には、ひとつだけ見覚えのない文字列が刻まれていた。
『Project: REHABUAM』
ルーティアはその文字を見ても意味が分からない。だが、そこに世界のどこかが繋がっている気がした。修理室のさらに奥で別のモニターがかすかに明滅し、赤いノイズの向こうで、誰も気づかないほど小さく低い起動音が鳴る。まだ眠っている。だが、目を覚ます準備をしているのだろう。バルドはさらに細い工具を手に取った。
「次は肩だ」
「肩も開くんですか」
「当たり前だ。詰めが甘いと、外で死ぬ」
彼の口調は荒いが、作業は異様に丁寧だった。乱暴に見えて、線を外さない。どこを壊せばどこへ影響するかを全部知っている人間の手つきで、バルドはルーティアの肩部を外していく。彼女は少しだけ息を呑んだ。金属の継ぎ目が露出し、内部の配線が肩口からはみ出す。自分の身体を見ながら、まるで別の道具の整備を見ているような感覚だった。
「痛みはあるか」
カイエンが問う。
「少し」
「耐えられる?」
「……たぶん」
「曖昧だな」
「曖昧です」
ミリーが小さく吹き出した。
「今までの隊長なら、そこで黙って勝手にやるところだよ」
「今は、そんな余裕がない」
そのやり取りに、ルーティアは少しだけ気が楽になる。会話は、奇妙な鎮痛剤みたいなものだった。修理の最中、バルドは内部の配線束を一本ずつ確認していく。焦げた箇所を切り離し、代わりの導線をつなぎ、冷却液を入れ替える。そうやって自分の内部を見せられるうちに、ルーティアは自分の中で何が起きているかを少しずつ理解し始めた。胸のコアだけではない。腕にも脚にも細かな駆動回路が通っており、どの回路も村の仕事では到底見ないものだった。
「これ」
彼女は肩口の下にある細い刻印を見つけて囁いた。
「何ですか」
バルドが顔を寄せる。そこには非常に古い文字列があった。意味は分からないが、彫り方が違う。工業用のルーンではなく、もっと儀式的で、もっと古い。設計と祈りが同時に埋め込まれたような刻み方だった。
「古代文字だ」
バルドは唸る。
「人間の時代の」
「人間の?」
ミリーが首を傾げる。
「嘘だろ。あいつら、何もできないって言ってなかった?」
「言うわけないだろ」
カイエンが低く答えた。
「自分たちが作ったものが、いちばん危ないからだ」
その言葉に、ルーティアの心臓もどきが一度だけ強く跳ねる。作った。人間が。彼女の身体のどこかに刻まれたこの文字は、誰かの設計図の痕跡なのだろうか。人間が作った。エルフが使った。ドワーフが修理した。自分はその全部の上を通って今ここにいるのだと思うと、頭の中が少しだけ揺れた。
「私は」
言いかけて止まる。何を言えばいいのか分からない。だが、バルドは彼女が口を閉じるのを待っていた。待ったうえで、工具を置き、小さく言う。
「お前の修理は、物としてなら簡単だ」
その言い方に、ルーティアは息を止めた。
「だが、記憶のほうは面倒だ」
「記憶」
「初期化されすぎてる。しかも、それを上書きするたびにコア側が抵抗してる」
彼は言いながら額の汗を拭った。
「つまり、毎回、無理やり朝を作ってたってことだ。村の記憶を、な」
ルーティアはゆっくりと目を閉じた。毎回。やはり、そうなのか。あの朝はひとつではなかった。何度も、何度も、何度も、彼女はパンを運び、誰かを助け、笑い、死に、また起きた。その上に同じ景色が重ねられていたのだと思うと、胸の奥が痛む。だが、それは絶望だけではなかった。繰り返しが本当なら、守った記憶も確かに積み重なっていたはずだからだ。
「カイ」
ルーティアは、そっと呼んだ。
「あの村の人たちは」
カイエンは少しだけ視線を逸らした。
「生きてる」
「本当に」
「ああ」
「何度も」
彼は、その言葉を聞いて黙った。やがて短く頷く。
「……何度もだろうな」
その返事に、ルーティアは胸の奥が少しだけ痛むのを感じた。何度も死んで、何度も初期化されて、それでも彼らは生きているのか。生きて、また同じ朝を迎えていたのか。もしそうなら、あの温かさは単なる繰り返しではない。積み重ねられた本物だと思えた瞬間、彼女は少しだけ救われた。
修理は続いた。バルドは今度、胸の奥のコア周辺を調整し、細いピンで位置を固定して、金属のリブを少しだけ締め直す。ルーティアは胸の中で歯車の動きが変わるのを感じた。ギア比が変わり、圧の逃がし方が変わり、反応速度がわずかに上がる。彼女の身体はただの人形ではなく、手を入れればまだ少し変化するものだった。その感覚は恐ろしくもあり、うれしくもあった。
「お前」
ミリーが不意に訊く。
「人間のこと、どう思ってる」
ルーティアは即答できなかった。村にいた者たち、カイエン、ミリー、バルド、怖いエルフ、笑うゴーレム、どれも人間らしいのかゴーレムらしいのか、まだ分からない。だが、少なくともひとつだけ分かる。誰もが、誰かのために無茶をしている。
「……面倒です」
彼女はようやく言った。
「でも、嫌いではないです」
ミリーが笑った。
「それ、ほぼ好きだよ」
「違います」
「違わない」
カイエンも少しだけ口元を緩めた。
「お前、今まで何度も、その答えを変えたんだろうな」
ルーティアは答えない。だが、否定もしない。修理室の奥で、再びモニターが明滅した。今度は、さっきよりもはっきりとしたログが走る。
`REHABUAM / Synchronization pending`
`Cradle wake sequence`
`Restricted access`
バルドが顔を上げる。
「おい」
彼は声を低くした。
「やばい」
「何が」
カイエンが即座に訊く。
「起動が近い」
モニターの赤い点滅が速くなる。
「何がです」
ルーティアが問う。バルドは答える前に工具を置いた。
「地下のもっと下に、魂の置き場みたいなもんがある」
その言葉で、室内の空気が止まる。
「置き場?」
「クレイドルだ」
聞き慣れない言葉だったが、ルーティアの胸の奥で何かが嫌に鳴った。
「そこが起きると」
バルドは低く言った。
「面倒どころじゃねえ」
彼はモニターに浮かぶ赤いノイズを見つめる。
「世界の下のほうが、動き始める」
その瞬間、修理室の照明が一斉に落ちた。闇の中で、コアだけがかすかに金色に光る。ルーティアはその光を見て、自分がまだ目を覚ましていない何かの一部であることを、はっきりと感じた。




