8.小料理若竹
6月14日(日)10時から1時間ごとに一気更新!
第一部完結までぜひ見届けてください。
午後六時。初めての店番が終わった。結局、客らしい客はあのおばあさんだけだった。働いた時間にしてわずか三十分。いや、砥石が水を吸うまでの時間をマイナスすると更に短くなり十五分程度である。
そのあとは掃除をしながら、店番をしていただけである。熊野さんはその間、店の奥に引きこもってテレビを見ていたようだった。
ある意味予想通りであったが、ここまで仕事がないとは。これはこれで辛いものがある。
夕方、子どもたちの声が近くの公園から聞こえる。それぞれの家から夕食を作っている匂いだ。なんだか、本当に生活が成り立とうとしている気がした。
小料理若竹。橙の火が灯った提灯が風に揺れていた。営業中。とだけシンプルな札と暖簾。そういえば、きちんと竹原さんの店を見たのは初めてだった。
古びた外観であるが、清掃は丁寧にされているのだろう。小料理若竹と書かれた看板は日焼けして、長年その場にあったことを雄弁に語っている。
古い引き戸をガラガラと開けて店内に入る。カウンターに二人のお客さんと、テーブル席に三人一組が座っていた。俺に視線を向けるわけでもなく、みな料理と酒を楽しんでいた。
「ただいま帰りました」
「お、勝ちゃん。おかえり、どうじゃった?」
厨房で食器を洗いながら竹原さんは俺に目線をよこす。
「いやあ、なかなかですね」
「かかかか、まあ今日は久しぶりに働いてえらかったじゃろ。はよぉ、休みや」
「あ、いえ手伝いますよ」
「ええ、ええ。今日はええけぇ」
「竹ちゃん、この若い子は?」
カウンターに座る老人はもっきりを口につける。顔はやや赤みを帯びており、程よく酔いが回っている。老人に出されていた料理はひじき、いかの塩辛、揚げ出し豆腐。どれもうまそうだ。
「まあ、ちょっと色々あった子でなあ。勝ちゃん、今日は上がっては休みなあ。晩飯、簡単に奥に準備しとうけえ、食べんさいね」
「わかりました、ありがとうございます」
老人に軽く会釈し、店の奥へと俺は進んだ。色々あった子。確かに俺を拾ってまだ竹原さんはわずか二日しか過ぎていない。
簡単にシャワーだけ済ませる。近所のディスカウントショップで買った安物の寝巻に袖を通す。居間のちゃぶ台には今朝の麦飯とみそ汁、野菜炒めがあった。
用意された夕食はまだほのかに温かく、俺はラップをとり小さく「いただきます」と手をあわせて箸をつける。
野菜炒めを口に運ぶ。しっかりとした塩味がきいており、麦飯をあわせて食べる。
食事しながら、ふと今日の包丁のことと自分の研ぎを考えた。
本当はあの包丁はもう買い替えたほうがいい。柄がもう取れかかっており、刃も痩せていた。大きな欠けは見当たらなかったものの、もう道具としての寿命は遠に超えていた。
でも、それだけではないことも知った。
仕事終わりに俺が帰るタイミングで熊野さんがつぶやくように教えてくれた。
「今日はありがとうございました」
「ああ、ご苦労さん。しばらく給料は出せんが、まあ明日も懲りんときてくれやな」
「はい、よろしくお願いします、では失礼します」
「ああ、ちょっと待ちや」
「はい?」
熊野さんは埃にまみれたパッケージ入りのステンレス包丁を俺に渡す。
「これは?」
「練習用じゃ」
「練習用?」
「ここに包丁研ぎだけで来るお客はおるにはおるけど、包丁研ぐのなんざ月に一回くらいやし人数は知れとるけんの、もう古い包丁やけど練習に使えばええ……あのお母ちゃんの包丁、もうおえんことはワシもわかっとるんや」
それもそうだろう。家庭用包丁はおおむね月に一回程度研げば十分だ。あのおばあさんの包丁は毎月、毎月持ち込まれていたのだ。そしてそれを熊野さんが研いでいたのだろう。
だから、長年の間包丁研ぎとしてのあの包丁の状態を持ち主以上に深いところで理解できている。それでいて、新しいものを決して買うことを勧めていない。
「あれはあのお母ちゃんの亡くなった旦那さんがはじめて買おてくれた包丁らしいわ」
それを聞いて俺はあのおばあさんが愛おしそうに包丁を見ていたのがわかった。だからあれだけ傷んで、刃が薄くなってもあの一丁を使い続けている。
どんな思いでその包丁を使っているのかは俺には計り知れない。いわゆる包丁は消耗品の一つだ。だが、そこに長年込められた思いは消耗されずに蓄積されていく。
今日の研ぎは満足いくものではなかった。かつて包丁を一日に何度も研いでいた自分が見れば反吐がでるほどだ。それでも、これで俺が一歩目を刻むことができたのは間違いない。次にあのおばあさんに包丁を研ぐとき、俺は使える。ではなく、使い心地のいいものを目指す。それが次の俺の目標だ。
塩味の効いた野菜炒めを完食し、みそ汁にぷかりと浮かぶ豆腐を見た。冷めたみそ汁はシャワーで火照った体を冷やす。木綿豆腐は煮込まれて角が取れていた。
グッとみそ汁を干してお茶を飲む。食べるときと同じよう手を合わせて「ごちそうさまでした」とつぶやく。
昼食は行きがけに買った菓子パン一つだったが、竹原さんの料理は身に染みる。
ごろんと寝転がり少し天井を眺めた。いくつかのシミがあり、蛍光灯のまわりを小さな虫が飛んでいる。息を吹き俺は身体を再び起こして食器を洗うことにした。
最近はステンレス包丁が増えましたね。自分は釣りもするのですが魚を卸すときは出刃包丁を使いますが、サイズが小さいのでハマチを卸した時は大変でした。
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