7.研ぐのは何か
6月14日(日)10時から1時間ごとに一気更新!
第一部完結までぜひ見届けてください。
午前中に来たお客さんは猫一匹だけだった。見回りコースになっているようで、丸椅子に腰かける俺の前を悠然と通り過ぎ、歯牙にもかけない様子だった。
店番を頼んだと熊野さんは言ったきり、整骨院に出かけてしまっていた。
あまりにゆるすぎないか?昨日まで怪しんでいた相手を懐に入れるのが早すぎる気がする。とは言え、もちろん店を開けたままどこかへ行くわけにもいかない。
落ち着かない。気を紛らわすため、はたきで埃の積もったちぐはぐな商品群を掃除する。年季の入った埃だ。熊野さん、店はほとんど飾りにしてるな。
「熊ちゃ~ん、おる~?」
表から声が聞こえた。熊ちゃん。お客さんだ。
「は、はーい。お待ちを!」
慌てて声の元へと駆ける。腰の曲がった老婆が細長い新聞紙を握り、店舗軒先の丸椅子に腰かけていた。
「あれ?熊ちゃん……? じゃないねえ、お兄さん熊ちゃんの友達?」
「いえ、新しい従業員です」
「ジューギョーイン?」
従業員という言葉が適さないことに気づく。ちょっと耳が遠いのかもしれない。
「あ、えっと熊さんの弟子です」
パッと出た単語が弟子であった。あながち間違ってはいないと思うが、少々言葉選びを悩む。
「あらあ、お弟子さん?若ぇのに大変じゃねぇ。あ、そうそう。これこれ、熊ちゃんに研いでもらおう思うてねえ」
棒状に成形されていた新聞紙を広げるとそこには年季の入った三徳包丁が握られていた。刃の根元には本割込みとだけ打たれており、銘も何もない。
どうしたものか。さすがにいきなり依頼がくるとは思わなった。指示を仰ごうにもスマホの番号すらまだ聞いていないのだ。困った。
「あぁ、でも熊ちゃんおらんのなら、出直しじゃねえ……」
おばあさんは手にしていた三徳包丁を再び新聞紙にくるもうとする。
「あ、ま、待って下さい。その包丁、よければ僕が研ぎますよ」
幸い、包丁を研ぐのは以前も仕事にしていたから難しいことではない。
「ええ? お兄さん、包丁研げる? じゃあ、お任せしようかのお」
そう言っておばあさんは再び包丁を俺に見せる。よくある家庭用の三徳包丁だが、ずいぶんと年季が入っている。刃もそれなりに痩せていることがわかる。これであれば買い直したいい気もするが。
「あの、だいぶ刃が痩せてるのでよければ新しい商品見てみましょうか?」
「ありがとうねえ。でも、ええよお。もうこれ以外使いにくくてしょうがいないのよぉ、研いでもらえる?」
にこにことおばあさんはその包丁を見る。ハッとした。刃は痩せており柄も傷ついて少しぐらついている。それでもこのおばあさんにとって、この包丁は無二なのだ。
長年手に馴染んできたこの包丁を手放すということは頭にない。
「わかりました、少しお時間いただきますね」
「あぁ、研いでくれるの?ありがとうねえ、三十分くらいかのぉ?」
包丁をおばあさんの手から預かる。その手はかさかさしているが、温かかった。
「ええ、それぐらいあれば大丈夫です」
「じゃあ、ちょっと天気もええし、ここで待っとるから、お願いしますねえ」
「はい、少しお待ちくださいね」
作業場に向かい砥石を探す。中砥はどこだろうか……あった。大手メーカーの人工砥石だ。番手は九〇〇番といったところだろう。
作業場の近くにあるたらいを拝借し、水道水を貯めて砥石をちゃぽんと沈める。砥石は静かに呼吸を始めた。
近くにあった布巾も一緒に水につけて絞る。
作業台の上に濡れ布巾を整えた。
少しの待ち時間が生まれる。
改めて預かった包丁を見た。痩せた刃だ。長い間、あのおばあさんと共に働いてきたことがうかがえる。食材を切り、そして研がれ、それを何度も繰り返してきたのだ。
口金もひびがあり、いつ割れて黒合板の柄から外れてもおかしくはない。普通に考えれば買い替えたほうがいいと思うが、そういう訳にもいかない。
切っ先に爪で触れると少し刃こぼれを感じるがこの程度であれば中砥で十分だ。水に浸された砥石は呼吸をやめており準備が整ったことを告げていた。
砥石を拾い上げ、濡れ布巾の上に固定する。右手に柄を握り、ひたりと砥石につける。
玉野で初めての包丁研ぎだ。さて、気合をいれるか。
一定のリズムで包丁を動かす。砥石は静かに刃と触れあう。春の日差しが作業場の窓から差し込み、すずめが鳴く。
外から誰かの話し声が聞こえた。でも、今は集中しなければ。何せ一年ぶりに包丁を研ぐのだ。身体は覚えているが、指先は久しぶりの仕事であることと同時に、無為に過ごした一年を思い出すかのように歓びのせいか意思に反して妙に急いている。ああ、これが仕事をするということだ。
人は仕事がなければ生きていけない。誰かのために働くということは尊い。
研ぎ終わった。春先だと言うのに、額に汗が滲んだ。いけないな。集中することは大切だが、包丁を研ぐのに力が入ってしまってはならない。柄が取れそうで少し力が入ってしまったのは事実だが、基本をおろそかにしてしまっていた。
自分自身をもう一度研ぎ直さなくては。とはいえ、最初に預かったときよりはきちんと刃がついている。作業台においてある古新聞でバリを落とすし、さっと洗剤で洗い布巾でぬぐう。
切っ先に爪を当て、こぼれがないことを確認した。研げてはいる。古新聞と包丁を片手に店先に向かう。
「あらあ、もう研げたの?」
道路にはみ出した丸椅子には熊野さんとおばあさんが腰掛けていた。どうやら話し声の主はこの二人だったようだ。
「おお、お母ちゃんに見せてやりいや」
「お待たせいたしました、こちらどうぞ」
随分と刃は薄くなっているが、まだ十分に使えるはずだ。そのおばあさんは研ぎ直された刃を見て相好を崩す。
「ありがとうねえ。お代だねえ、ちょっと待ってよ。熊ちゃん、いくらだっけ?」
「お母ちゃん、今日はタダでええよ。若え衆の一本目じゃ。ウチからの祝儀として受け取ってくれ」
え。タダって言ったのか?今さっき。
「ええのかい?悪いねえ。じゃあ、かわりに電池だけでも買わせてもらおうかのぉ」
「毎度。ちょっと待っとれや。単三か?単四か?」
「単三の四本のやつがええなあ。体重計の電池が切れてしもてなあ」
「そりゃ、大儀やなあ。えーっと、たしかここに……」
奥の方でガサゴソと熊野さんは腰を曲げずに乾電池を探していた。タダという言葉にいくばくかの驚きを覚えつつも、体勢がつらそうな熊野さんに駆け寄って声を掛ける。
「探しますよ」
「ええ、ええ。お前さんは一仕事したんじゃ。こりゃ俺の一仕事やけん」
一瞥もよこさずに電池を探し当てる。自身の店内だからよくわかっているのだろう。
「ほれ、これでええかの?よんきゅっぱじゃ」
四本入りの単三アルカリ乾電池をおばあさんに手渡す。おばあさんはすでに新聞紙にくるまれた包丁を膝の上に置き、焦点をあわせるように乾電池を顔の前に近づける。
「ああ、これこれ。はい、ほいじゃあ千円で」
「毎度、お釣りがちょっと待ってや」
二つ折りのくたびれた財布から五百円玉と一円玉を二枚取り出す。おばあさんはジッパーのついた小銭入れに
「五百二円のお釣りじゃ、また来ての。ごひいきに」
「ありがとうねえ、そっちのお兄ちゃんもありがとう、またくるけえね」
おばあさんはゆっくりと丸椅子から立ち上がり、帰路についていった。
「どうじゃ?久しぶりに研いだ感覚は。気に入らんかったんじゃろ?」
おばあさんを見送りながら、熊野さんは核心をついてきた。
ぐうの音も出なかった。そう。研ぐことは研げた。でも、満足のいく研ぎではなかったのも事実だ。曲りなりに包丁を研ぐことにはそれなりの自信を持っていた。
「はい。正直、一年ぶりに研いだんですけどダメでした」
どう表現するべきか。この奇妙な感覚を。自分の手に違和感しかなかった。身体は確かに覚えていて、手は勝手に動いた。それでも決して最適化されたものではなかったといえる。
「ほうじゃろうなあ。ちょっとみとったが、しいて言うなら手と頭が別々じゃったな。使える程度には研げたやろうけど、福山君自身の腕も錆びとることは明白やけん。身体は覚えとってもその反応に頭がついていっとらん」
手と頭が別。そういわれて納得した。一年ぶりに研いだ包丁は確かにそういわれても仕方なかった。おばあさんの姿はいつの間にか見えなくなっていた。
「まあ、数こなして思い出すしかないけん、気張りや」
静かに俺の研ぎを見ていた熊野さんの表現は的確だった。こればかりは数をこなして頭と手の位相差をなくすしかない。
掌を見る。手についた泥は乾いていた。
「それに仕事はこれだけちゃうけん。とりあえず今日は店番しながら掃除も頼むでな」
熊野さんはそう言って店の奥に消えていった。さあて、午後も頑張って働くか。お客が来るかは分からないけど。
包丁を研ぐ際に気を付けることは角度と一定のリズムです。早すぎても遅すぎてもダメです。あとは砥石をしっかりとメンテすることも大事ですね。
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