35.刃物が繋ぐ縁(前編)
前回のあらすじ――
若竹で夕食の最中、偶然飛び込んできたニュースに福山は動揺する。
かつて自分を絶望の淵へと落とした男の逮捕。
わずかな感情の残滓がとぐろを巻いて蘇っていた。
熊野金物店の丸椅子に座って俺はぼーっとしていた。あのとき、佐伯勝逮捕のニュースを見てから俺は昔のことを考えていた。
破産手続き、遅滞した給与の最後の払い、何度となく押したはんこ。当時から既に身も心も錆びついていたには間違いない。
結果的に見れば俺は今、この玉野の地でなんとか生計を再建しつつある。これ自体も奇跡であり、つくづく運が良かったとしか言いようがない。
そのうえで見た佐伯勝の逮捕。竹原さんが言っていた因果応報というものなのか。
時折、強く吹く木枯らしは店の奥に座る俺の薄手のジャンパーを強くなびかせる。曇り空の中、今日は誰も来ていないが、一人だけ来る予定だ。
そう、一週間前にあの本焼きの出刃包丁を預けた若い女性だ。今日は引き渡しの日曜日。
最終チェックとして手に持つ桐箱を開き、油紙からそっと包丁を取り出す。
赤錆びていた頃とはまるで異なる鋼。銘も無きその一丁は生み出された頃のような鋭さと輝きを蓄えていた。
自分で研いだとは思えぬ程の仕上がりだ。最後の仕上げに恐怖を感じるまで俺は無心でこの包丁と向き合っていた。
薄く塗り伸ばした椿油のやや黄色い皮膜は地金に吸い付きながら、地金の色を黄金に変えていた。
はっきり言って今もう一度これと対峙したら俺は研ぎきる自信がない。あのときは本当に無我夢中であったが本焼きがデリケートな一品であることを知ってはいた。つまり、俺がこの包丁を研げたのは技術的にはある程度問題がなかったということでもあるわけだが、それ以上に精神がついていかないことに気づいてしまったのだ。
「ごめんくださーい」
噂をすればか。声の感じからして持ち主の女性だろう。
「はーい」
出刃包丁を油紙に包み、桐箱に入れて店先へと出る。
「お待たせいたしました」
「すみません、先日和包丁を預けさせてもらった者ですが、どうでしたか? 修理できました?」
若い女性は少し不安げであったものの、期待の眼差しも浮かべていた。
「ええ、こちらです。どうぞ、手に取ってみてください」
俺は桐箱を開き、柄の方を女性へと向ける。包丁の柄を握り、油紙を抜き取る。
「おぉ……すごい。あんなに錆びてたのに……!」
包丁の柄を手にその錆が落ちた一丁を見る。椿油が薄くまとわり、艶やかな地金。ずっしりと彼女の手には重たく感じるのではないだろうか。
「錆は結構ありましたけど、刃自体は痩せていなかったのでなんとかここまではできました。いかがですか?」
「ありがとうございます! あ、これお代と控えです」
「はい。それでは五千円ちょうどお預かりしますね」
女性から五千円と預かり証を受け取る。三次恵美。間違いなく本人である。
「恵美ちゃん? こんなところで何してるの?」
恵美ちゃんと呼ばれた女性が振り返る。俺も聞き覚えのある声だ。
「弘子お姉ちゃん?」
「あれ? 世羅さん。どうされたんですか? こんなところで」
ほとんど同時に声を出す。
熊野金物店には珍しい程の来客人口密度になる。世羅さんは紙袋を二つ持ってきょとんとして、俺も思わぬ来客にきょとんとなった。
「今日はちょっと福山さんに用があって……」
「福山さんって?」
「いや、俺のことですね。あのお二人はどういうご関係は……」
「ああ、恵美ちゃん……。三次恵美さんと私、いとこなんですよ」
「へえ? いとこ。ですか」
「弘子お姉ちゃん来てたんだ」
「うん。この前ちょっと福山さんと熊野さんにお世話になったから、そのお礼にね。恵美ちゃんは?」
「私はこの前、おじいちゃんの遺品整理してたときに出てきた包丁を研いでもらってたんだ。ほら、見てこれ。すごくキレイにしてもらったんだ」
三次さんは研ぐ前の包丁を写真に収めていたようで、それを世羅さんに見せる。
「え? こんなにキレイになるんだ、よかったね。おじいちゃんも喜んでるよ」
本当に不思議な縁が続くものだ。俺は蚊帳の外だが、木枯らしが強い。
「お二人とも軒先で立ち話もなんですから、奥へどうぞ」
「え? そんな悪いですよ」
世羅さんは遠慮がちに手を横に振る。
「大丈夫ですよ。熊野さんも今整骨院に出かけてますし、お礼を伝えるなら直接のほうがいいでしょう」
「福山さんでしたっけ? もしよければ包丁の研ぎ方教えていただけませんか?」
世羅さんとは対照的に三次さんは食い気味に聞いてくる。
「ええ、ご自身で包丁を研げるようになるのも料理人としては必要ですからね。俺でよければ」
こうして、俺たちは熊野金物店の陳列棚の前に丸椅子を置き、缶コーヒーを二つ出して熊野さんの帰りを待ったのだった。
「刃物が繋ぐ縁(前編)」いかがだったでしょうか。
はじめて包丁を研いだのは母が使っている本割込みの三徳包丁でした。色々調べて研いでいき、最初にきゅうりを試し切りをしてもらったときは「うーん、わからん」という感じでしたが肉や魚などを切ったときは多少は切れ味がよくなったと言ってくれたのもいい思い出です。
※前後編のため一挙更新します




