34.過去からの呼び声
前回のあらすじ――
いつもの老婆の包丁を研ぎながらもあの本焼きの影を感じていた。
現れては消える鋼の幻がその手に残していったのは、紛れもなく真髄の欠片。
今研いでいるのはどうということはない、痩せた三徳包丁であるがその一丁から読み取れる世界が否応なしに解像度が高くなっていた。
何も語ることのない包丁はただ、砥石の上を滑り己を研ぎ澄ましていくだけだった。
若竹での手伝いも終わり、俺と竹原さんはいつものようにカウンターと厨房の丸椅子で遅めの晩飯を食べていた。
食卓に並ぶのは白米とみそ汁。そして余ったままかりの酢漬けにキャベツの千切りだ。
俺はこの前研いだ全鋼の出刃包丁の話を竹原さんにしていた。
「全鋼までは言わんのぉ、そりゃあ本焼きだけじゃ」
「本焼きだけですか?」
「うん。料理人からするとの、霞やないこの類の包丁は本焼き言うけえ」
さすがは料理人である。俺や熊野さんは「本焼き全鋼の包丁」として見ていたが、竹原さんだけは違った。確かに熊野さんも金物のプロではあるが、料理は奥さんに任せっきりだし、俺も包丁はよく切れてその人の手に馴染めばいい。という程度の人間であった。
「実物を見たらすごかったじゃろ?」
「ええ、最初は錆びた包丁だな。って感じだったんですけど、研げば研ぐほど、今まで見てきたものがおもちゃに見えてしまうほどでした」
温かいみそ汁に口をつける。晩秋の冷えた体にわたりゆく。
「かかか。本物に触れるっちゅうこっちゃけえ、ええ経験じゃの。それでおって上手に研げたんならええじゃねけえ」
うまく研げてよかったじゃないか。と言われたものの、正直あの包丁が来ても次はちゃんと研げる自信が逆にない。
この前は無知なまま挑んだがゆえにそれなりの成果を残せたとでもいうべきなのだ。そうビギナーズラックだ。
あの類の化け物と対峙することは早々ないだろうが、いつまでもこびりつく赤錆のように強烈な恐怖として俺の感覚を狂わせたのは紛れもない事実である。
「はあ、でも次にあれが来ても研げる気がしませんよ」
「まあ、気張らんとまた来た時に頑張るしかないけえのぉ」
まるで他人事であるが、俺は一度も竹原さんの包丁を研がせてもらったことはない。
竹原さんは「最近は忙しくなったみたいやけえ、俺の包丁はええよ」といつもそう言って自分で研いでしまうのだ。どちらかと言えば、俺をその包丁から遠ざけているように感じる。料理人の魂とも言える包丁を気軽には触れさせてくれないのだろう。
キツイ言葉ではないし、俺もその意図をくみ取ってそれ以上踏み込むことはしないが。
「続いてのニュースです。先日、詐欺で逮捕された佐伯勝容疑者ですが警察の調べによると余罪もあることがわかり、再逮捕される見通しとなったことが県警より発表されました――」
テレビから聞こえるただの音声に何も気に留めていなかったが、その名前を聞いたとき俺の心拍が一瞬にして上がった。
ニュースはその短文だけを並べて、次の話題へと移り変わっていった。しかし、俺の神経はその名前に縛り付けられた。
「勝ちゃん、どうしたんじゃ?」
「え……いや……」
俺は気づかぬうちに持っていた箸を落としており、左手に持つ椀からはみそ汁がこぼれそうなほど震えていた。
震える手でその椀をカウンターに置き、箸を拾い上げる。床のタイルは冷たく、落ちた箸は先が欠けてしまっていた。佐伯勝――。俺の脳裏に彼の顔が浮かんだ。
「何かあったんか?」
お茶を飲んでいた竹原さんは、厨房越しに俺を見る。淀んだ瞳が俺をじっと見据えた。
「いえ……なんでもありませんよ」
「そんなわけなかろう。気付け薬でも飲むか?」
「だ、大丈夫です。ただ、さっきのニュースに驚いてしまって」
「さっきのニュース……ああ、詐欺で捕まった男が再逮捕された話……まさか、勝ちゃんのアダか?」
アダ。一言で言ってしまえばそうだ。俺にとっての最大の仇とでも言うべきか。佐伯勝。俺と同じ勝という名を持っており、共同経営者として一年以上ともに戦ってきた「つもり」だった男だ。
「捕まってたんですね……しかも、こんなニュースになるなんて」
「ほうか……」
腹の中に入ったみそ汁が逆流しそうなほどに心臓が脈打ち、何に焦点があっているのか自分自身もわからない。忘れていた、いや忘れ去ろうとしていた男の名前をこんな形で聞くなんて。
俺も被害者だ。もし、弁護士をつけて奴を訴えれば失った金も戻ってくるのか?いや、俺の手元には弁護士を雇うほどの金すらない。
どうすべきだ。俺は金を取り戻したいのか?自分の経営者としてのプライドを取り戻したいのか?店を取り戻したいのか?
俺は――どうしたいのだ?
頭上に影が現れる。ガシッと頭をつかまれる。年老いてなお瑞々しいその掌から熱が伝わる。ググっとその指が俺の側頭のツボを押すように。
「え……?」
「勝ちゃん。お前さんを傷つけた人間とは違う人間になりゃあええんじゃないかい? 昔から言うじゃろ、因果応報とな」
「因果応報……ですか」
確かにそうかもしれない。この男は散々なことをやらかした揚げ句、いよいよお縄についたのだ。それが裁きなのではないか。自業自得だ。
「そうですね……これでよかったんですね、自業自得。いよいよ捕まったんですから……」
俺の隣に竹原さんは座る。カウンターの固定席で器用に胡坐を組んで俺の正面を捉えた。淀んだ瞳は蛍光灯の冷たい光をものともしない強い光を宿していた。
「んー、自業自得とは少し違う。因果応報とはな、自分の行いに対して返ってくる報いのことやけえ」
「報いですか」
「うん。いい意味でも、悪い意味でも、その結果がついてくるという言葉じゃ。やけえ、ニュースの男は悪いことしよってからに、悪い結果がついてきたんじゃ」
つまようじを口にくわえ、竹原さんは珍しく俺に語る。ここまでこんこんと竹原さんが正面を向いて俺に言葉を投げるのは記憶にない。
「勝ちゃんはどうじゃ? 悪いことをしとったか? 確かに躓いたり、転んだりはしたじゃろう。けど、こうやって立ち直って人の道を歩きようじゃろ。落ちこぼれがおってもそれはそれでええ、けど外れちゃあおえんのが、人の道。仁よ」
「仁……」
小さく俺はその言葉をつぶやく。
「説教臭くなるけえ、これ以上は言わん。五常という言葉があるけえ、また、自分で考えることをしてみりゃあええ」
仁義と言う言葉はよく聞く。任侠映画やヤンキーなどの話の中で筋を通した、通してないという世界でも使われる言葉だ。しかし、五常は聞いたことがなかった。
「ま、俺も受け売りやけえ、あんまり詳しないけんなあ。かかかか」
椅子から降りて再び俺の頭を何度か撫でる。まるで子供をあやしているかのような手つき。しかし、俺はそれに逆らうこともない。
「……まあ、あんまり考えすぎんことじゃ。刹那的に生きろと言うとうわけちゃう。けど、まじめに一生懸命生きとったら神さんもちっとはオマケしてくれるんじゃ」
神さんもおまけ。そんな程度なのかもしれない。でも、きっとそれでいいのかもしれない。俺はここ玉野で立ち直らせてもらった。であれば、過去の失敗や後悔を乗り越えて、一つ一つの仕事に丁寧に向き合っていくしかない。今はそれでしか恩返しができないのだから。
「過去からの呼び声」いかがだったでしょうか。
ふとしたきっかけで昔のことを思い出すことがあると思います。どんな生き物にしても過去からの積み重ねで今が存在しています。その過去を顧みて、今をしっかり生きたいと思います。




