31.真髄(中編)
6月14日(日)10時から1時間ごとに一気更新!
第一部完結までぜひ見届けてください。
いよいよ残り2話で第一部完結です!
(30話から32話まで前・中・後編ですが、最後は一時間ずつずらしての投稿となります)
火曜日、朝八時半。窓の外は一昨日とは打って変わって穏やかな小春日和だった。
たらいに水道水を貯める。荒砥をチャプンと沈めた。無数の泡が浮かび立ち、荒砥は呼吸し始める。新聞紙をくしゃくしゃにして、のばす。濡れ布巾を作業台に敷く。
砥石は小さな気泡があふれ出している。水にぬらした布巾で出刃包丁の油分をぬぐう。
赤錆をおおむね落とし終わった出刃包丁。陽の光に照らしながら、改めてその姿を見る。この出刃包丁は本焼きと思われ相当な年代物であることがわかる。
俺も一端の包丁研ぎであるが、ここまでの優れた年代物の一丁はホームセンター時代を通しても今まで研いだことがなかった。銘は見当たらないが、柄を手にしたときに自然と馴染み、もったときの重心、赤錆を落とした後の地金、これらから判断しても極めて質の高いものだと理解できる。
たらいに水滴が落ち波紋を生む。荒砥はその身を鎮め、いつでも準備ができていることを静かに俺に語り掛ける。たらいの中から荒砥を取り出す。
冷たい水は感覚を研ぎ澄ます。その一方、一筋縄ではいかない作業であることを俺に予感させる。
一呼吸置き、濡れた布巾の上に荒砥をおく。その間に中砥と面直し(めんなおし)もたらいの水に浸す。
そっと刃と番手の小さい荒砥を平にのせ、細かな赤錆を丁寧に削いでいく。慎重に削ぐ。
刃の角度を一定に保ち押しては引くことをただ繰り返す。最初はその錆と砥石が削れる独特のざらつきを感じたが、次第にその感覚も比較的滑らかな研ぎ具合になってくると同時に、錆びの解ける匂いが鼻に漂う。
赤錆と研ぎ汁が混ざり合い滑り止めの布巾はにわかに茶色く染まっていく。一度掌で本体をぬぐいとる。片面の赤錆は一昨日クレンザーで研磨したときよりも随分と落ちていた。
次は反対の面を研ぐ。刃付けはそのあとだ。
包丁を持ち替え反対の面も同様に丁寧に削ぐ。じゃりじゃりという音を立てながらも、それは緩やかに音の質を変えていく。
研ぎ心地が両面同じ程度になったことを確認し、再び手で研ぎ汁をぬぐう。泥がぽたぽたと床にこぼれる。あとで掃除しなくては。
悪くはない。平の部分の赤錆は小さな影が残る程度になっていた。この薄い錆であれば中砥でも問題ない。平をこれ以上荒砥で闇雲に研いでもただのそれは削りになってしまう。いい頃合いだ。
刃付けを行う。
荒砥を水道水で流す。できれば研ぎ汁はそのままにしたいが、錆も混じっているのでいったん流す。
包丁を乾いた布巾でふき取り、そばに置く。ずいぶんと小奇麗にはなったが、まだ道半ばだ。洗い流した荒砥を面直しで何度か研ぐ。一分ほどで研ぎ終え、再び包丁を手にして水にぬらす。
汚れた布巾も一度洗うが錆が染みついており落ちない。仕方なく別の濡れ布巾を作業台に準備し、その上に再び荒砥を置く。
刃付けの下処理だ。
今まで以上に細心の注意を払い、静かに荒砥と出刃を滑らせていく。平と同じく刃先には赤錆がついているが、先ほどまでとは違いこちらの神経まですり減らす。
本焼き特有の硬さは手に力を入れてしまいがちになるが、この加減が正直に言うと俺もいまだ分からない。なかなかこういった高級和包丁とは出会うことすらホームセンターでは稀なのだ。
包丁の心臓ともいえるこの刃先に集中し、強いのか弱いのか迷う力加減で錆を削ぐ。
秋も終わりに近いというのに額に汗が浮かぶ。
やがてその研ぎの音は硬質な響きから滑るような音へと移っていく。悪くないようだ。
荒砥で刃先の両面を研ぎ終えたのは既に九時半だった。しまった。夢中になりすぎてシャッターを開けるのを忘れていた。
俺は包丁の水気を布巾で慌ててふき取ろうとしたが、熊野さんが今日は軒先で丸椅子に座っていた。
「おお、福山君おはようさん」
「お、おはようございます。すみません、店あけるの忘れてしまっていて」
「ええ、ええ、あれに集中しとったみたいやけん。気にせんでええけん」
「いえ、すみませんでした」
俺は泥だらけの手で額の汗をぬぐう。
「どうじゃ? ちょっと見せてもらってええか?」
丸椅子から立ち上がり作業台へと熊野さんは向かう。スリッパで歩く姿はずいぶんと軽やかに見える。腰の痛みもかなりマシなのだろう。
「まだ、半分くらいですけど、いかがですか?」
作業台に置かれた出刃包丁を熊野さんは握る。赤錆はほとんど落としており、刃付けの前捌きもしてあとは中砥と仕上げ砥で研ぐ工程だ。
「……うん。悪くないけんなあ、やっぱり若いと手先の言うことも俺らよりよぉきくけん」
「ありがとうございます、でもやっぱり本焼きは俺みたいなにわかじゃ難しいですね」
「これも数打って練習するしかないけど、なかなか今時こんな本焼きの全鋼を持ち込む奴は少ないけんなあ。俺もこれを仕上げろ言われたらちょっとえらいと思うけん」
静かに熊野さんは出刃包丁を俺に渡す。陽の光に刃先が鈍く揺れる。あともう少しだ。
「まあ、あと少しやのぉ。あんまい気張りすぎんようにの。午前中の表はワシがおるけん、福山君はそれやっとり」
「ありがとうございます、ではお言葉に甘えて作業続けます」
「おお、よろしくな」
よろしくとだけ伝えられ、熊野さんは店先の丸椅子へと向かい、足元にあった新聞を読み出した。
錆の匂いは独特です。仕事柄、錆や汚れともよく対面します。特に沿岸部での仕事に従事している際は金属製品の多くは塩害によって錆びているものも多数あります。しかし、酸化とは鉄にとってみればその場でもっとも安定している形になろうとしているのです。
※1.自転車の魔法使いもこれまで通り、毎週金曜日更新しています!あわせてごらんください!
※2.タイトルの話数に誤りがあったため、修正しています。(2026.6.16)




