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鉄火、錆を削ぐ  作者: 津山 みかり
第一部
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3/32

3.いっぱいのかけうどん

6月14日(日)10時から1時間ごとに一気更新!

第一部完結までぜひ見届けてください。

「はいよ、お待ちどうさん」

 海岸からしばらく歩き、古びた「小料理若竹」に案内される。カウンターに座らされた俺に出てきたのは、かけうどんだった。何の変哲もない、ネギが申し訳程度にちりばめられた一杯のうどん。カウンター越しにジャージ姿の老人はにこにこしながら俺を見ていた。

 箸を手に取り、一言「いただきます」とだけ言って、箸にうどんを絡ませてすする。

 口の中に熱い麺が暴れる。僅かな出汁とともに食道から胃の中に流れ込む。大きな音を立ててうどんは胃の中で弾む。


 ああ、ああ。ああ!

 俺は生きている。まだ、死んでいなかった!

 無我夢中にそのうどんをすすった。

 湯気で鼻水と涙が止まらない。

 もう何も関係ない。

 恥も外聞も本当に関係ない。

 このうどんのうまさは何なのだ。

 空腹は最高の調味料というがそんな次元をはるかに通り越している。

 四月の潮風に一晩中さらされていた体は底から冷えて、体力を消耗していた。

 身体の芯から温かくしてくれるこのうどんは命の水ならぬ命の小麦だ。

 犬がエサにありついて、それをむさぼるかのように俺はそのかけうどんを流し込んでいた。

 気が付くと俺はどんぶりを両手に持ち、出汁を最後の一滴まで残らず干していた。

 

 どんぶりから顔を離すと、真正面の整頓された食器棚には薄汚れた自分が映っている。なぜ、こんなことになってしまったのか。腹が満たされて俺は一瞬で現実に引き戻される。

「どうね? 兄ちゃん、そのうどん。二日酔いにはでーれーきくんじゃよ」

 老人はカウンター越しに新聞を読みながら俺を見る。先ほどの淀んだ瞳はそのままであるが、どこか優し気な空気がにじみ出ていた。

「あ、えと、あの、ありがとうございます…」

 言いよどむ。当たり前だ。昨日の大負けで本当の無一文だ。だが、嘘はこれ以上つけない。

「……でも、俺、お金持ってないんです」

 カウンター越しにいた老人は新聞を閉じる。よろり立ち上がりカウンターを出て俺の隣に座る。

 ああ、まずい。さすがにただ飯くらいになってしまった。どうやって金を払うか。

「そうかあ、じゃあお前さんこのままだと食い逃げになっちまうのお。したら、俺の知り合いんとこでちっと、働いてみんしゃい」

「は?」

 老人の言葉に俺は耳を疑った。働くだって?

 嘘だろ。

 名前も何も明かしていない見ず知らずの人間にそんなこと言うか?普通じゃないぞ、このじいさんは。それに俺もこの老人の名前も知らない。

 お互いに赤の他人どころという話ではない。昨日の今日なんて言葉すら生ぬるい。

 知り合って三十分と経っていないのだ。それが、なんだ。一体。

 働く?俺はなにか悪い詐欺に引っかかっているのではないか?一文無しの俺だ。まさか、臓器売買とかその手の後ろ暗いやつではないだろうな?

 出されたうどんの旨さとは裏腹に不気味さを覚える。今の時代、行き倒れを助ける理由なんてあるのだろうか。せいぜい警察に通報するくらいではないのか。

「いや、あの、え? どういうことですか?」

「んん? そのままじゃよ。ぜにこがねぇなら働くしかないけえのお」

 ぜにこ。ああ、金のことか。

「俺の知り合いに腰いわせて店閉めるかどうするか悩んどる奴がおるんよ。そいつにちっと話してみるけえ、ちょっと待っちょれ」

 待ってくれ。いきなり何でも急すぎるにもほどがある。確かに現実的に考えて俺は一文無しで行き先すら不透明であるが、あまりにも急だ。臓器売買はなくても何か良くないことの片棒を担がされるのではないか。一文無しとはいえ、犯罪に手を染めるほど落ちぶれてはいない。

「ちょ、ちょっと待ってください、きゅ、急すぎませんか? 俺にだって仕事が……」

 つまらない嘘が出た。仕事なんてないのに。どうして今、さっきまで恥も外聞もないと思っていたのに腹が満たされた瞬間わずかなプライドが覗いてくる。

 老人はその言葉に素早く反応する。

「なあ、兄ちゃんよ。人間ってのはいかにうまく負けを認めるかで次に進めるんじゃよ。いつまでも勝ったことに執着してても次につながらんし、それに勝ったこと。負けたことなんてのはただの昔の出来事なんじゃ。今を見んことには前に進めんもんやけえ、もうちょっと素直になったらいいんじゃないか?」

 本当にこの老人、何者なのだ。

 俺の状況を何もかも見透かしているような口ぶりだ。岡山県に俺の知り合いなんていないし、縁もゆかりもない土地だ。

 それなのに――

「まあ、そんなわけでそいつに電話してくるけえ、ちょっと待っときんさい」

 老人は先ほどまでの本質を突いた言葉とは裏腹に、しわが深く刻まれた笑顔でカウンターの奥に消えていった。

 俺はどうすればいいのだろう。ここで店をこそっと出てしまえばこれ以上厄介ごとに巻き込まれる心配はない。しかし、それでは本当の無銭飲食者になってしまうし、行く当てももちろんない。

 かと言って、あの老人にやすやすとついていってしまっていいものか。逡巡する。悩んでいても仕方ないのに。

 しばらくすると老人の声が奥から聞こえてきた。何やらもめているような感じである。それはそうだろう。どこの馬の骨かもわからない奴の就職をいきなり知り合いに斡旋しているのだ。普通の神経の人間なら断るどころか絶交されても何ら不思議ではない。

 俺はどうすることもできないまま、店内をぼんやりと眺めていた。店内には恰幅のいい男性と先ほどの老人の若いころの写真が飾られている。何かのトロフィーを手に笑っていた。その写真はさっきの子どものようなクシャっとした笑顔で今と何一つ変わっていないように見える。

 ここで悩んでいてもきっと仕方ないんだろうな。踏み出すことに恐怖するのはいつだって同じだ。その一歩が踏み出せないからこそ何も手にできないこともある。失うことが怖くて踏み出す勇気を持てないことだってある。

 幸い俺は今、この両手に持っているものは何もない。要は失うものが何もないのだ。自己破産も終わって、生活保護を受けるか受けないかの瀬戸際なのだ。

 

 であれば、何を迷う必要があるのか? ここで先に進まなければ、ずっと何も変わらない。いや、むしろまだまだ落ち続けてしまうかもしれない。それはダメだ。せっかくのこの老人の好意を無下にすることになってしまう。しかし、信じていいものか。

 詐欺師はいつも人の弱みに付け込んでくる。人は騙されたい生き物なのだ。弱れば弱るほどにその隙は大きくなる。

 一方で少なくとも俺は再生をかけて玉野競輪に突っ込んだのではないか。やり方が間違っていただけだ。俺はまだ諦めてはいけないんだ。真偽を確かめるのだ。

うどんっておいしいですよね。子どもの頃は苦手でしたが、大人になって食べられるようになりました。昔香川の山田家さんに行って食べたうどんのおいしさが忘れられません。


※自転車の魔法使いもこれまで通り、毎週金曜日更新しています!あわせてごらんください!

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