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鉄火、錆を削ぐ  作者: 津山 みかり
第一部
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23/32

23.ままかりを食らうギリシア彫刻

6月14日(日)10時から1時間ごとに一気更新!

第一部完結までぜひ見届けてください。

 何事も終わりは唐突にやってくる。昨日の夕立が過ぎてから朝夕は気温が冷え込み、急に秋の訪れを感じた。薄手のジャージと着の身着のままだったシャツとデニムしかないが、俺は今日も薄手のジャージで帰路につく。今後は少し厚手の上着も考えなければ。

「ただいま戻りました」

「おお、勝ちゃんおかえり、飯用意しとおけえ、今日は手伝いなくて大丈夫やけえのお」

「わかりました、ありがとうございます」

 若竹に帰ると、テーブル席に数名のお客さんが入っていた。客入りはまばらで、少し前のたまのまつりを考えると平常運転である。

 見慣れぬ若い男性客が一人カウンターの隅で瓶ビールを手酌している。年齢は俺とあまり変わらないくらいに見えた。

 ん?しかし、どこかで見た気もする。メガネをかけているが、はてどこで見たのだろうか。俺はぼやけた記憶を手繰り寄せる。

「すみません。親父さん、この冷奴と、えーっと……ままかりの酢漬けください」

「はいよ」

 若い男性客は瓶ビールをコップに傾ける。よく見るとその体は鍛え上げられており、黒いシャツとデニムに身を包んでおり、均整の取れた肉体は鋼のようだ。

 いや、待て。この男、どこかで見ただけではない。すってんてんになったあの日に俺が希望を託した男。もっと厳密に言えば、俺に期待させるだけ期待させておいて俺の車券を紙くずにした男、笠岡誠一ではないか。こんなプロの競輪選手がここに現れるなんて思ってもいなかった。

 他の常連客や竹原さんは気付いているのか、それとも気付いて知らぬふりをしているのかはわからない。それでもこんな筋骨隆々な男性が一人で飲んでいるとなるとかなり目立つ。

 冷静に考えれば確かに現れてもおかしくはない。ここ若竹は玉野競輪場からも徒歩圏内であり、一人で静かに酒を飲むのに最適な場所だ。

 俺は竹原さんが少し店の奥に行ったことをチラと確認してカウンターの隅にいる笠岡選手と思われる男性に耳打ちした。

「あの、すみません。もしかして、笠岡選手ですか?」

 一瞬、男性は手に持っていったグラスをビクッとさせたが、周囲を見渡して誰もこちらの会話に気付いていないことを確認する。

「あの……わかっちゃいました?」

「……えぇ。すみません、ご迷惑でしたね。失礼します」

 なんとなく有名人を見かけてテンションが上って声をかけてしまったが、特に用事はなく、その場を退散しようとした。迷惑この上ない行為だ。


「あ、待ってください。一緒に飲みませんか?」

「え?」

「ホントは今日、知り合いと飲むつもりだったんですけど、その人風邪引いちゃって」

「いや、その、俺は」

「少しでいいんですよ、話し相手がほしいと言うか……駄目ですか?」

 そんな引き止められ方をされると、さすがに断りづらかった。いつの間にか竹原さんは厨房に戻ってきており、ままかりの酢漬けにのせる玉ねぎを準備している。

「ん?勝ちゃん、飲むんか?」

 竹原さんはカウンターで挙動不審な俺に気付く。

「え、あ、はい」

 流されるように俺はカウンターで笠岡選手の隣に座る。

「お客さん、ええんか? 隣で?」

 手を止めることなく玉ねぎを手早くスライスしていき、それをままかりの酢漬けにのせる。

「ええ、僕から誘ったんです。連れが来れなくなってつまらなかったので」

「ほかあ。勝ちゃん、何飲む?」

「ああ、そうですね。じゃあ、瓶を願いします」

「はいよ、晩飯も持ってたるけえ、一緒に食べんさいね」

「いや、自分で行きますよ」

「ええ、ええ。今日はお客さんじゃ、晩飯分も払ってもらうけえのぉ」

 いつものように「かかか」と笑い、竹原さんはドリンク専用の冷蔵庫から瓶ビールとグラスをカウンターにトンと並べた。グラスは外気にさらされ白く結露していく。

 そして居間のほうへと俺に準備してくれていた晩飯を取りに向かう。非常に申し訳ないことをした。

「もしかして、大将の息子さんですか?」

 笠岡選手は瓶ビールを手に取り、自然とその栓を抜く。シュポっと耳心地のいい炭酸がせり上がる。カウンターを転がる王冠が鈍く輝く。どう見ても五百円には見えない。

「いえいえ、ちょっとまあ、知り合いと言いますか。まあ、ちょっと訳ありでして……」

 何も知らない他人から見れば相当不思議な関係だろう。

 夕方に突如「ただいま」と現れて、晩飯を用意されているのだ。これで親子でもなければ一体お前は何者だとなるのは理解できる。

「はい、お待ち。今日の晩飯は卵焼きと鯖の塩焼きじゃ。一緒に飲むとこれもおいしいけえな」

「竹原さん、ありがとうございます」

 俺の目の前に差し出された料理はまさに酒の肴というより、晩御飯そのものだった。

「おいしそうですね、僕も一口もらっていいですか?」

 サバの塩焼きを割りばしで豪快に半分に裂く。

「ああ、もちろん。すみません、俺名乗ってなかったですよね。俺は福山勝と言います。ちょっと事情があって、ここの若竹の大将にお世話になっています」

「ご丁寧にありがとうございます。僕は……ご存じの通り、競輪選手で笠岡誠一と申します」

 笠岡選手は先ほど半分に裂いたサバを更に四分の一ほどにして口に運ぶ。

「うん、うまい。冷めててもこれは絶品ですね」

「ここの料理はみんなおいしいですよ、笠岡さんはよくいらっしゃるんですか?」

「いや、実は初めてでして……今日来る予定だった人から、俺がいなくても一度は行っておけというお店で、ちょうど玉野でレースもあったのでお邪魔したんですよ。普段は僕、お酒は飲まないんですけど、料理がおいしいと聞いたので」

 冷奴とままかりの酢漬けがいつの間にか出されていた。夕飯でもちょくちょく出してくれる一品だが、まかないメニューとは少し異なり生姜と白髪ネギ、そして玉ねぎが添えられている。

「なるほど。ご友人、残念でしたね」

「まあ、でも彼はこの玉野市が地元なのでいつでも来れるし、なんなら一人でもたまに来てるみたいですよ」

「ああ、じゃあもしかしたら俺もお会いしたことあるかもしれませんね」

 丁寧にままかりの酢漬けに笠岡選手は箸をつける。

「ままかり……これ何の魚ですか?」

「え。知らずに頼んだんですか?」

「知り合いがこれは頼んでおけって言っていたので……」

 二人で笑う。かく言う俺も以前はこのままかりという言葉を知らなかったので、偉そうなことは言えない。笠岡選手が不思議そうに箸で掴んだままかりの酢漬けをまじまじと見ていると、竹原さんがぬっと厨房から顔をだけ出す。

「ママカリはママカリやけえ。他所ではサッパ言いようねえ。俺らはママカリ、ママカリで覚えとるね」

「ままかり……」

 まるで魔法の言葉を唱えるように笠岡選手は呟く。確かに語感もやや不思議な感じがする。

「青物やけえ、足が早いんじゃ。やからこうやって少しでも日持ちさせるために昔から酢漬けにして食べるんじゃ」

「ここのママカリ、絶品ですよ」

「なるほど……では、いただきます」

 一見するとアジやイワシなどに見えるが、全く違う魚種らしい。素人の俺はようやく最近アジとイワシの見分けがつくようになったが、それに伴ってこのママカリも違いがわかるようになってきた。

 大きな口を開け胴体だけのママカリを一口で放り込む。よく味わうように右へ、左へ口をもごもごさせながら、飲み込む。

「なるほど……これはいいですね。小骨が多かったんですけど、南蛮漬けみたいに小さいから気にせず食べられましたし、酢と青魚だから身体にいいですし……何よりうまいですね。すみません、なんかもっとこうコメントできればいいんですけど、男なんであんまりいい言葉でなくて……」

 頬を人差し指でかきながら苦笑いを浮かべる。

「あはは、その気持ちよくわかりますよ。うまいでしょう? さあ、遠慮せず飲んでください。竹原さん、今月は俺の給料から一本引いといてください」

 理屈抜きで若竹の料理はうまい。俺は自分の瓶ビールを笠岡選手の空になったグラスに注ぐ。

「勝ちゃん、えらなったのお」

 竹原さんは「かかか」と笑いながら日本酒と徳利、おちょこ二つを取り出した。

「さすがに日本酒は勘弁してくださいよ、竹原さん」

「これは俺の奢りじゃ、一合だけやけえ。さ、お二人さん。その酢漬けには大典白菊のぬる燗がよう合うけえ」

 

 結局、笠岡選手と俺は午前〇時の閉店まで二人で飲み続けた。笠岡選手がプロになった理由や日常生活、挫折、今後の展望を聞いた。最初のうちは前を向き続けるその意志の強さはやはりプロたる所以だと思っていた。

 しかし、こうして生身の人間と話すと相手も等身大であることに気づく。どうしても第一線のプロがメディアを通して語る言葉はどこか作り物に感じてしまうが、余計なフィルターがないとクリアに感じる。

 彼らは脚光を浴びているから輝いて見えるのではない。ごろごろの原石を削り、磨き、研ぐから輝けるのだ。その輝きすらも一瞬で翳ってしまう世界に身を置くがゆえに、自らを研ぎ澄まし続けている。そして同時に彼の競輪に賭ける情熱があった。

 

 俺もそんな風になりたい。なれるだろうか。酔いが回った俺は夢を見たように心地よく眠っていた。

私も釣りをするのですがサッパを釣ったことはありません。サビキでもかかるのはおおむね豆アジかイワシです。でも、豆アジは数釣りをして南蛮漬けにするとおいしいですよね。


※自転車の魔法使いもこれまで通り、毎週金曜日更新しています!あわせてごらんください!

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