「旅の始まりと、遠い記憶」 第三話
◇二人旅の始まり
その夜、俺たちは谷の近くで野営することにした。
イリスの傷はまだ完全に癒えていないため、遠出はできない。俺の方も、追放されたばかりで行く当てがあるわけではなかった。
焚き火を挟んで座るイリスは、人の姿になってもなお、時折竜のような仕草を見せた。何かを警戒するように首を傾げたり、匂いを確かめるように鼻先を上げたり。
「――お前は、何者なのだ」
不意に、イリスが訊いた。
「何者、と言われても」
「先ほどの業だ。人の身で、名を与える力など、聞いたこともない」
「俺にも、よく分かってない。物心ついた頃から、名前のないものを見ると、なんとなく『こう呼んでやりたい』って感覚があって……それを続けてきただけだ」
「ふむ」
イリスは焚き火を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「昔――まだ私が人間の国で崇められていた頃、そういう力を持つ者たちがいたと聞いたことがある。真の名を見抜き、与える者。だが、それはもう千年近くも前の、忘れられた話だ」
「千年」
「私にとっては、さほど遠い昔でもないがな」
イリスがそう言って、初めて小さく笑った気がした。
その夜、俺は久しぶりに、誰かの隣で眠った。
パーティーにいた頃は、いつも一番外側で見張り番をしていた。誰かを信用していなかったわけじゃない。ただ、自分がそこにいることに、いつまでも慣れなかっただけだ。
けれどこの夜は、少しだけ違った。
翌朝、目を覚ました俺は、何気なく懐からステータスプレートを取り出した。
いつもの、真っ白なプレート――のはずだった。
「……あれ」
プレートの隅、これまで一度も文字が浮かんだことのない場所に、ごく小さく、薄い影のような文字が滲んでいた。判読できるほどはっきりしたものではない。息を吹きかければ消えてしまいそうな、頼りない滲みだ。
「どうした」
「いや……気のせいかもしれない」
俺はプレートを懐にしまった。深く考えないことにした。今はまだ、それでよかった。
「これからどうする」
イリスに問われ、俺は少し考えてから答えた。
「故郷に、帰ろうと思う」
「故郷」
「ムートって村だ。大した場所じゃない。俺が育った孤児院がある、それだけの村だよ」
「何をしに」
「……分からない。ただ、なんとなく、一度ちゃんと帰っておきたい気がするんだ。追放されて、行く当てもなくなった今だからこそ、かもしれない」
イリスはそれ以上、理由を訊かなかった。ただ、静かに頷いただけだった。
「ならば、私も行こう。傷が癒えるまでの居候先くらいには、なるだろう」
「村人が竜を見たら腰を抜かすと思うけど」
「人の姿でいれば、竜とは気づかれまい。多少、目立つ髪の色ではあるがな」
そんな軽口を交わしながら、俺たちは荷物をまとめ、ムート村への道を歩き出した。
三年ぶりの帰郷だった。
◇孤児院の記憶
ムート村までは、歩いて三日の道のりだった。
街道を歩きながら、俺はぽつぽつと、イリスに昔の話をした。話すつもりはなかったのに、彼女の相槌が妙に静かで、心地よかったからかもしれない。
俺がこの世界で最初に覚えている光景は、ムート村の外れにある、小さな孤児院の天井だった。
物心ついた時には、すでにそこにいた。両親の顔も名前も知らない。院長である年老いた神官は「教会の前に置かれていた」とだけ教えてくれたが、それ以上のことは誰も知らなかった。
「その年の、最後に拾われた子どもだったから、しばらくは『ラス』とすら呼ばれていなかった。ただ『最後の子』、それだけだった」
「今の名は?」
「院長が、面倒だからって『ラス』って呼び始めたのが定着した。……『最後』の意味の、訛った呼び方だったらしい」
「――お前自身も、まともに名を与えられなかった、というわけか」
イリスの声に、揶揄うような響きはなかった。ただ静かに、事実を確かめるような口調だった。
「そういうことになるな」
十歳になれば、誰もが聖名教会で命名式を受け、ステータスプレートに職業が刻まれる。だが、それには相応の献金が必要だった。孤児院にそんな余裕はなく、俺の番が回ってくることはついになかった。
村の子どもたちが、真新しいプレートを自慢げに見せ合う中、俺だけがずっと白紙のままだった。
「無銘」
いつからか、村の大人たちは俺をそう呼ぶようになった。悪意はなかったのだと思う。ただの、便利な呼び方だった。それでも、呼ばれるたびに、自分の輪郭が少しずつ薄くなっていくような気がした。
「――それで、名のないものを見ると、放っておけなくなったのか」
イリスの問いに、俺は少し驚いて彼女を見た。
「……かもな。考えたことなかったけど、そうかもしれない」
野良猫、割れた植木鉢、行き場のない道具。名前を持たないまま、忘れられていくものたち。それに勝手な名前をつけてやることだけが、幼い俺にできる、唯一のことだった。
「誰かに、そうしてほしかったんだろう、お前自身が」
イリスの言葉は、静かで、飾り気がなかった。だからこそ、まっすぐに胸へ落ちてきた。
「……そう、なのかもな」
それ以上、何も言えなかった。
イリスもまた、それ以上は何も訊かなかった。ただ、隣を歩く歩調を、ほんの少しだけ、俺に合わせてくれた気がした。
三日目の夕方、街道の先に、見覚えのある景色が見えてきた。
痩せた畑、傾いた水車小屋、そして――記憶にあるよりずっと寂れた、木造の集落。
「……ここが」
「ああ。ムート村だ」
三年ぶりに見る故郷は、思っていたよりもずっと、静かで、寂しい場所になっていた。




