「瀕死の竜、名を取り戻す」 第二話
◇瀕死の竜
森は思っていたより深かった。
音を頼りに歩き続けているうちに、木々の背丈はどんどん高くなり、やがて陽の光もろくに差し込まなくなった。魔物避けの結界石もない、地図に載らない領域だ。パーティーにいた頃なら絶対に足を踏み入れなかった場所だろう。
――もう、パーティーはいないんだったな。
自嘲するように呟いて、俺は苔むした岩を踏み越える。
半刻前に聞こえたあの軋むような音は、それきり途絶えていた。それでも足を止める気にはならなかった。胸の奥のざわめきが、まだ静まっていなかったから。
やがて木々が途切れ、小さな谷に出た。
谷底に、それはいた。
最初、俺はそれを崩れた岩山だと思った。苔と枯れ葉に覆われ、ところどころ罅割れた、灰色の巨大な何か。
けれど近づくにつれ、それが呼吸に合わせて、ほんの僅かに上下しているのに気づいた。
「……竜」
思わず声が漏れた。
伝承でしか聞いたことのない存在だった。全長は見上げるほどで、翼は片方が根元から折れ、鱗のあちこちが黒く焼け爛れている。古い傷だ。もう何年も、何十年も、放置され続けてきた傷だ。
俺はゆっくりと近づいた。逃げる体力すら残っていないのか、竜は薄く目を開けただけで、動こうとしなかった。
その目に、俺は覚えのある色を見た。
――諦めた目だ。
誰にも見つけてほしくない、誰にも触れてほしくない。そう思っている者だけが浮かべる目。かつて鏡の中の自分が、ずっとそんな目をしていた気がする。
「大丈夫。取って食おうってわけじゃない」
竜の反応はなかった。ただ、目だけが微かに俺を追った。
近くまで来て、俺は初めて竜の全身の異様さに気づいた。傷そのものよりも、竜の輪郭が――どこかぼやけている。まるで、存在そのものが薄れかけているような。
(ああ、そうか)
名前が、ないんだ。
いや、正確には違う。かつては確かにあったのだろう。けれど誰かに、あるいは何かに、その名前を奪われ、あるいは自ら手放してしまった。名を失った者は、こんなふうに輪郭からほどけていくのかもしれない。
俺は膝をつき、竜の顔のすぐそばに座り込んだ。
「……なあ。あんた、ずいぶん長いこと、独りだったんだろう」
答えは返ってこない。それでもいいと思った。
しばらくの間、俺はただそこに座っていた。竜の呼吸に耳を澄ませ、傷の一つひとつを、焼け爛れた鱗の色を、閉じかけの瞳の奥にあるものを、じっと見つめ続けた。
急いてはいけない。真名付けは、偽りなく理解していなければ発動しない。同情や好奇心では足りない。この竜が本当は何を望み、何を悲しみ、何を諦めてしまったのか――それを、俺自身が本当に分かっていなければ。
どれくらい時間が経っただろう。
竜の瞳の奥に、ほんの小さな――怒りでも絶望でもない、何か柔らかいものが見えた気がした瞬間、俺の中で何かが、かちり、と噛み合う感覚があった。
(見えた)
「……名前を、あげるよ」
俺は静かに手を伸ばし、竜の額に触れた。
胸の奥から、言葉が――いや、言葉というより、もっと根源的な何かが、意識を通り抜けて溢れ出してくる。それは俺が考えて選んだ言葉ではなかった。ずっと前から、この竜のために用意されていた言葉のように、するりと口をついて出た。
「――イリス」
その瞬間、竜の輪郭を包むように、淡い光の文字が浮かび上がった。まるで筆で書かれたような、けれど誰の手も介さない、ひとりでに宙に描かれていく文字だ。文字は幾重にも重なり、渦を巻き、最後には竜の額に吸い込まれるように消えていった。
竜が、大きく息を吸い込んだ。
森の奥で聞いた、あの軋むような音――それは、この竜が久しく忘れていた「息を吸う」という行為そのものだったのだと、俺はようやく理解した。
◇名を取り戻した竜
竜の――イリスの瞳が、ゆっくりと見開かれた。
さっきまでの濁った灰色ではない。透き通るような金色の瞳が、まっすぐに俺を捉える。
『……人間』
低く、地の底から響くような声だった。声だけで空気が震える。
「ああ。名前は、ラス」
『何を、した』
「あんたに、名前をあげただけだ。……勝手なことをしたのは、謝る」
イリスは長い間、俺を見つめたまま動かなかった。折れていた片翼が、ぴくりと動く。傷はまだ完全には癒えていない。それでも、さっきまでとは明らかに違う――存在そのものの輪郭が、はっきりとしていた。
『……久しい』
ようやく、そう零した。
『名を、失ってから、どれほどの時が経ったか、もう分からぬ。人間どもに崇められ、そして裏切られ、この身は森に打ち捨てられた。誰にも見つからぬよう、誰にも思い出されぬよう、名を捨て、気配を薄れさせて、朽ちるのを待っていた』
淡々とした口調だった。恨み言というより、乾いた事実の羅列のように。
「……悪かったな。せっかく朽ちようとしてたのに、邪魔をして」
『……妙な人間だ』
イリスの目が、僅かに細まる。それが笑ったのだと気づくまで、少し時間がかかった。
『何故、助けた。竜と分かっていて、恐れなかったのか』
「恐ろしいとは思ったよ、正直。……けど、それよりも」
俺は少し言葉を選んだ。
「名前もないまま、独りで消えていこうとしてるものが、あまりにも寂しそうに見えて。それだけだ」
イリスはしばらく黙り込んだ。それから、ゆっくりと体を起こそうとして――バランスを崩し、地面に崩れ落ちた。傷が完全に癒えたわけではない。名を取り戻したことで存在は繋ぎ止められても、傷そのものは時間をかけて治すしかないのだろう。
「無理するな。まだ本調子じゃない」
『……世話になろう。本意ではないが』
そう言ってイリスが小さく身じろぎすると、その巨躯が淡い光に包まれた。光が収まった後、そこにいたのは――銀色の長い髪をした、人の姿の女性だった。金色の瞳だけが、竜だった頃の名残を留めている。
「これは……」
「竜の一族は、力が満ちれば人の姿を取れる。名を取り戻し、多少なり力が戻った証だろう」
イリスは自分の手のひらを、しげしげと見つめた。傷だらけの体は、人の姿になっても包帯のような黒ずんだ跡を残していたが、それでも先ほどよりずっと生気がある。
「……礼を言うのは、性に合わぬが」
「言わなくていい。俺が勝手にやったことだ」
「――ラス、といったな」
イリスが、初めて俺の名を呼んだ。
「しばらく、お前についていく。借りを返すまでは」
「別に、借りだなんて」
「竜は、借りを返さぬまま生きるようにはできておらぬ。諦めろ」
有無を言わせぬ調子だった。俺は苦笑するしかなかった。
思えば、追放された日に、まさか竜を連れて歩くことになるとは思ってもみなかった。
けれど不思議と、悪くない気分だった。




