第一節
本格的に空が高くなり、澄み渡った空から冬の使いが舞い降り出して来た。極寒と評される本当の雪国は、ここカリムソンのさらに北。魔族が住まう魔界とされている。
だから雪がちらつき出しはしても、一面真っ白になるのは当分先で、一~二か月程度の短い期間だ。
それでもまばらに雪の足跡は残り、もう秋が去った事を思い知らされる。
すっかり村の住人として認められた元旅人は、しかしいつもどこかへ出掛けている。本格的な冬の到来を前に、いくつかの所用を片付けてでもいるのだろうか。
しかしこの日は村にいて、ここ数日は出掛ける様子も無かった。いつかタルカスと交わした会話では、冬場になればあんまり出掛けなくなるやも知れぬ。そう言う話ではあった。
ただ村にいる間も、毎日出掛けてはいた。宿に引き籠って酒浸りになる事は無く、村の内外を良く散歩している姿が目撃されている。
旅人であった頃からそうだが、特に何か武器のようなものを持ち歩く訳では無いのでそう見えないが、もしかしたらただの散歩では無く見回りなのかも知れない。タルカスはそう思っていた。
元旅人――オリバーは黒い外套を好んで着ていた。それは涼しくなって来たからでは無く、夏場の暑い盛りでもそうだった。カリムソンの夏は比較的涼やかなれど、汗ひとつ掻かないほど涼しい訳では無い。
すっかりフードで顔を隠す事は無くなっていたが、端正な顔立ちで肌も白く、汗ひとつ掻かずにマントをなびかせる姿は、むしろ少し恐ろし気で、中にはお伽話に聞く吸血鬼を想起する者もいた。
今日もそんな陽の下を歩く者が村内を闊歩していると、辺鄙で平和な村の平穏を打ち破る珍事に遭遇する事となった。
村の外れ、小さな菜園がいくつか点在する場所に、男と子供が立ち尽くしていた。男には見覚えがあった。オリバーが定宿にしている村唯一の酒場に入り浸っている、酔っ払いのヘンリクだ。
子供の方は見覚え無いが、村の子供なのだろう。オリバーの話を聞きに来るのは、専ら酔客ばかりである。村を散歩している時に挨拶を交わす事はあっても、顔と名前が一致するほど親しくなった村人は少ない。
こんな平和な村の中、オリバーも気が緩んでいたのだろう。この状況が切羽詰まった状況だと気付くのに、少し時間を要した。故に、悲劇を招いてしまったと言えるだろう。
ヘンリクが子供を見やり、意を決して走り出す。子供と、その奥に位置するオリバーとは反対方向、村の外縁へと。
そして気付く。そこにいる大きな獣に。雪猪。ここカリムソンは魔界に近い為か、ただの獣では無くモンスターに近い種も複数確認されている。スノゥ・ボアもそのひとつで、ただの猪では無い。
体躯が少し大きめなだけで無く、その突進は猪のそれの比では無い。何より、異常に発達したその牙が、突進時に獲物を刺し貫くのだ。猪に体当たりを喰らうだけでも危険だが、相手がスノゥ・ボアではまず助からない。見掛けたら遠くから弓矢で威嚇し、決して近付いてはならない。
「くっ!」
状況を把握し疾駆したオリバーだったが、子供の許へ辿り着いた時、すでにスノゥ・ボアはヘンリク目掛けて突進を開始していた。遅かった。子供をマントに包み飛び上がると、オリバーは一番近くの建物の屋根に降り立った。子供は眼を瞑って、オリバーにしがみ付いている。まさか、宙をふわり翔んだなどとは夢にも思わないだろう。
そうだ。まさか人が宙を翔ぶとは思うまい。オリバーの身体能力を以てすれば、大の大人ひとりと子供を抱えて、屋根の上に避難するなど造作も無かった。だが、そんな事を出来るとヘンリクが知るはずも無い。ヘンリクは子供を守ろうと、スノゥ・ボアの気を引いたのだ。気付いて動き出すのが遅かった。
「プギュヲゥゥゥォォォーーーー!ブフゥォ、ブホォ、ブォォ……」
刺し貫いた獲物を頭を振って投げ出すと、スノゥ・ボアは興奮から警戒音を叫び鳴らした。そこで気付く。そう言う事か、何と不運な。
「何だ!?一体どうした!」
そこへ、見回り中だった自警団と、その団長を務めるタルカスが駆け付けた。スノゥ・ボアの警戒音を聞き付けたのだ。すぐにスノゥ・ボアに気付き、次いでその傍で倒れ伏す人影にも。
「ち、何だって村の中に?!」
「タルカス!」
屋根の上から、オリバーが声を掛ける。見上げるタルカスは、遠く指差すオリバーを捉え、その示す先に視線を移した。
「……何てこった……」
少し距離のある村の境界に当たる柵の向こう、そこに二匹の瓜坊がいた。
スノゥ・ボアは、猪とは違い肉食動物だ。とは言え、あくまで主食は小動物。普段人間は襲わない。普通の猪より大きな体躯とは言え、人間の背丈を超えるほど巨大な訳では無い。人間の群れには警戒し、近付く事は無い。
名前の由来は、その体毛が雪のように白いところから。雪が保護色になるからか寒い北方に良く棲み、しかし冬場だけで無く夏場であっても活動的だ。そして、冬場を除けば餌もそれなりに獲れる。そう、冬場には餌が減る。人の集落には鼠のような小動物も集まる為、結果的に冬場にスノゥ・ボアが村に近付く事は稀にある。だが、基本的には人間の群れを恐れる為、必要以上に近付く事は無く、見掛けても村の傍までで、中まで入って来る事など無い。
――が、それは成体の話だ。子供がまだ生きる術を身に付けていないなど、人間にも獣にも良くある話。人間を警戒する事を知らぬスノゥ・ボーイが、運悪く村の中まで入ってしまったのだろう。つまり、母親なのだ。このスノゥ・ボアは。
本来であれば、人間を警戒して去って行くものを、子供を守る為に命懸けで戦っているのだ。
「構えろ!」
声を掛けながら、自らも弓に矢を番える。
「放て!」
タルカスを含めて六人の自警団員が、息を合わせて矢を放った。田舎の自警団とは言え、良く訓練されている。タルカスの掛け声にぴたり合わせて、六条の矢はスノゥ・ボア目掛け降り注いだ。
タルカスの放った矢はスノゥ・ボアの眼の前の地面へと突き立ち、他の矢は周辺に降り注いだが、これは威嚇である。そもそも、この程度の弓手の矢では、半ばモンスターと言えるスノゥ・ボアの硬い体を射抜けない。人間に出来る精一杯の抵抗が威嚇なのだ。
幸い、スノゥ・ボーイは騒ぎの中で村の外へと移動したものか、母親の後方に位置していた為、母親もこの威嚇に素直に踵を返した。かなり知能も高く、威嚇射撃が引き時である事を知っている。
次の矢を番える様子も見たものか、そのまま足早に村の外へと出て行った。二匹のスノゥ・ボーイは、何事も無かったかのように、無邪気にじゃれ合いながら母親の後を追った。だが、ひとつの命は喪われたのだ。
「……ち、待ってろ!今行く。」
タルカスが人影に駆け寄ろうとするところへ、黒いマントが舞い降りた。
「すまない、手遅れだ。」
「な……」
言われなくても判っていた。スノゥ・ボアはただの猪では無いのだ。スノゥ・ボアに襲われ血塗れで倒れている者が、まだ生きているなどあり得なかった。
「あれはヘンリクだ。この子とヘンリクが、あの母猪に出くわしてしまったようでな。」
オリバーがマントを広げると、そこでようやく子供は眼を開き、何があったのかを眼の当たりにした。体は再び硬直し、倒れ伏すヘンリクを眼を見開いて見詰めている。
「……ヘンリクさん言ったんだ、逃げろって。僕の方を見て、そう言ったんだ。」
「……そうか。」
優しく、頭に手を置くタルカス。
「……まさかヘンリクが、こんなに勇敢な男だったとはな。」
もしいつも酒場で見掛ける通りの腰抜けだったなら、助ける事も出来たのにな。オリバーは言葉を呑んだ。
「あぁ……もう何年も前の話だが、ヘンリクは子供を亡くしていてな。まだ小さかったのに、流行り病でな。それ以来酒浸りになって、奥さんにも愛想尽かされて今じゃ独り身。それで毎日、酒場に入り浸ってる。……何とか助けたかったんだろうな。今度こそは。」
そう言って、タルカスは子供の頭を優しく撫でた。
その日は、酒場を開放して村人皆で飲み明かした。ヘンリクを見送るのに辛気臭ぇのはいけねぇと、ヘンリクとの最後の別れを酒場で過ごす事になった。
元妻は、子供を助けて亡くなったと聞き体に縋り付いて泣き腫らした後、率先して酒を呷り明るく送り出そうと無理に笑った。
オリバーも、今日は語りたい気分だと自ら物語り出す。
「……特に何が言いたい訳じゃ無いが、話したい気分なんだ。命ってものを考えさせられた、全く違うふたつの物語だ。」
秋空の清々しい空気が、そろそろ寒風を孕んで来る季節。しかし大陸中央部には、まだ冬の使いは到来していない。
特に、山を下り都会へやって来た事で、余計に寒さは遠のいた。本格的な冬を前に、下山出来たのは僥倖だった。
防寒の為のマントは黒。身に纏う雰囲気にも合って、黒衣はこの男の正装のように見えた。黒衣の剣士の名はヴァルハロス。元々精悍だった顔付きは威厳を身に付け、さらに見る者を惹き付けた。
共連れは、ある意味彼より目立った。この寒空の下、薄手のマントは寒さを凌げるとは到底思えない。マントが隠し切れないその肢体は女性的な曲線を描き、女の象徴たる部位は隠すどころか是見よがしに強調されている。黄橡色した髪のアマンダは、ヴァルハロスの斜め後ろにそっと付き従っている。
一行はふたりであった。否、周囲の者にはふたりに見えた。少し離れて後に付き従う、筋骨隆々たる黒衣の大男の姿に、周りの者は気付かない。
その体躯が押し広げて、多少窮屈そうに見えるスーツの仕立ては良く、見る者が見れば貴族に見えよう。だが男は、違う意味での貴族であった。千古の最強吸血鬼O・D・I。太い腕を組み、見れば少し宙に浮いた状態で、滑るようにヴァルハロスの後を追っている。
だが、そんな目立つ大男を気に留める者はほぼいなかった。ほぼ――ではある。勘の良い者――人間族の領域内では多くが子供であるが、稀に存在に気付く者もいた。今O・D・Iは、その能力で気配を殺しているのだ。
あくまで気配を消す術であり、透明になる訳では無い。眼に映っても認識出来無い。これは、盗賊の隠密と同種の能力。正の生命力では無く負の生命力を持つ不死の怪物の一種である、吸血鬼だからこそ出来る高等スキルだ。
もしこの光景をダイ・オフが見たならば、素直に感心した事だろう。何故なら今、ヴァルハロスは自身が先を行きながら、O・D・Iを少し離して歩かせ――宙を滑らせているのだ。つまり、O・D・Iを操りながら、自分も動けている訳だ。
未だ、真の力を解放させるには至っていない。その自覚はあった。しかし山を下りる決意をしたのは、相応にO・D・Iを使いこなせるようになったからだ。
その自負は間違っていないのか。根拠はあった。山を下りた理由、それはO・D・Iを通して同種の存在を感知したから。同種――とは言え、無論吸血鬼の事じゃあ無い。そう、古代魔族の遺産である。猿王の時同様、O・D・Iがその存在に気付いたのだ。
O・D・Iと感覚を一部共有する。それは、両者の同化が進んだ証左であり、O・D・Iを使いこなす事に通じる。今回感知した古代魔族の遺産は、猿王の時より尚遠い。それだけ、同化は進んでいるのだ。……同化の行き着く先を思えば、決して喜んでばかりはいられぬのだが。
故に今、ヴァルハロスたちは一路古代魔族の遺産の気配を目指していた。可能であれば、O・D・I以外の遺産も手にし戦力に加えたい。倒すべき相手をひとり喪ったものの、まだ倒さねばならぬ男がいるのだ。
そして、その先も見据えている。ヴァルハロスは、失った楽園を取り戻したいのだ。本当の親は取り戻せずとも、最愛の妹と暮らす家を、城を、国をその手に掴む。あの男を超える事。それを目標とするようでは、余りに志が低過ぎる。彼は、もっと高みを目指したいのだ。
そこに自分の居場所は無いと思いつつ、女はそれを命懸けで後押しする為、付き従うのであった。
ヴァルハロスが修行した地、そこはアガペー王国周辺諸国のひとつ、ドールデン王国にあるメルトニカ山。その麓の村マルトーを発って二週間ほど。一行は、大陸中央西部にあって一番大きな国家、グラドマリスト王国へ入った。
この国は緑豊かで、街中にも緑が溢れている。それはつまり、多くの食物が採れる事を意味し、繁栄を象徴していた。噂では、周辺国が飢饉に見舞われた際も、王都周辺だけは例年通りの収穫があったそうだ。
国としての特徴は、絶対王政にある。王とそれを監察する元老院と言う良くある王国制なのだが、元老院議長を王自身が務めている。且つ、全ての議席を有力貴族が占め、その有力貴族は皆王家と血縁関係にある為、元老院が王権を監視すると言う本来の役割を果たしていない。
無論、そんな歪な体制になるには相応の理由があるのだが、国家の最重要機密が漏れる事などありはしないし、こうして平和が続いていれば気にする国民なぞ存外少ないものだ。
そんなグラドマリスト王国の王都グラドマリステレスへと、一行はやって来た。王都には国とは別に、もうひとつ目立った特徴があった。
エルフ族による自治権を認める特別区画――通称エルフ自治区が、都のほぼ中心に存在する事である。そこは都の一等地であり、王城も有力貴族たちの邸宅もある都の中心区画。いや、むしろエルフ自治区を避ける形で城が、邸宅が建てられている為、見方によれば王様よりも良い土地にエルフたちが住んでいるとすら言えた。
では、そんなエルフ族はこの国において尊重されているのか。否。エルフ自治区とは公式名称の俗称であり、都の住人たちは違う呼び方をしている。異民族区と。
エルフ自治区に住むエルフたちは、分類上はシティ・エルフと言う事になるのだが、その文化風習は森エルフのものに近い。自然に近い形で生活しており、グラドマリステレスの住民から見れば随分と野性的な――野蛮な下級人種と見えるのだ。
故に、都人たちはエルフたちを見下し、異民族区と蔑称する。同じグラドマリスト王国民などでは無い、異民族なのだと。
おかしな話だ。ヴァルハロスはそう思う。O・D・Iを通して知る古代の知識に照らせば、エルフ族の方がよっぽど上位種族だ。それが何故差別的な扱いを受けているのか。そして、なぜそんな扱いを受けてまで、こんな人間族の街の中に留まり続けるのか。
夕刻、宿の部屋でヴァルハロスは、ひとり物思いに耽っていた。情報収集はアマンダに任せておけば良い。共に盗賊ギルドに属していたとは言え、それぞれ専門分野が違う。ヴァルハロスは、あくまで荒事担当だ。何より、アマンダを誰より信頼している。彼女がそう判断したのだから、宿敵と天使の事を報されていなかった事も気にしていない。
吸血鬼は屋根の上にいた。O・D・Iが見たもの、感じたものをヴァルハロスも共有出来る。こうしておけば、自身が周囲の警戒に当たっているに等しい。
装備一式を脱いでベッドに横たわったのも、そう言う理由からであった。
窓ひとつ無く、真闇に包まれた宝物庫。見慣れた光景だ。私があ奴に敗れ実験体とされてより、ここが私の唯一の居場所。ふ、因果応報か。私の実験体たちも、皆このような心持ちであったものか。
あ奴?誰の事だ。
ふむ、私たち真祖すら凌駕する種族などそうはおらぬ。魔族よ。とは言え、ただの魔族ではあるまいな。まるで御名持つ悪魔に等しき力を持っておった。まさか魔王ではあるまいが。
……では、お前ほどの者が、古代魔族と言う種族にでは無く、たったひとりの魔族に敗れたのか。
古代魔族……そうであったな。未来において、奴腹めはそう呼ばれる事となるのだったな。如何にも、私は正々堂々、一対一で戦い負けた。故にこの境遇も、決して恨んではおらぬ。
真闇の中、そこにいるべき者といないはずの者が対話をする内、ひとつの影が眼前に立った。真闇であっても、その眼は全てを見通す。真なる吸血鬼であるが故に。
目の前の影は、何も明かりの類いを持っていない。だがその眼は――金目銀目の虹彩異色の瞳も、この真闇を見通した。
「オ……いえ、ダイナス伯爵閣下。どうぞ、今日も神託を下し賜え。」
魔眼邪眼の美しき吸血鬼、ヘテロ・アイ。彼女はO・D・Iが“世界”と化して後も、変わらず仕え続けていた。それは強き忠誠心故か――愛故か。
すでに私は伯爵では無いのだ。其方の好きにすれば良いが、私の事は下らぬ魔導器として扱うが良い。
「……そうは行かないわ。でも判った。私の好きにさせて貰う。貴方が忌々しい奴らの最高傑作となったのならば、その所有者も相応の者でなければならない。……いいえ、そうでなければ納得が行かない。相応しき者が現れるまで、私がこの地を支配する。」
爛々と輝く金目銀目は、見詰めるさらにその先、すでに消えた忌々しき者たちを射殺すほどの鬼気を孕んでいる。この女が生きて行く糧となるも一興。もう応えてやれぬ身であるが故に。
良いだろう。では予言を伝えよう。私をその手にするであろう、遠き未来に訪れる者たちの話を。
同化した今なら判る。それはただの戯言だった。本当に未来が視えた訳では無かった。それでも、何故か自然と口を突いた。求道者、愛人、信者、死神――そして天使。
それは、O・D・Iすら自覚せぬ才能であったのか。未だ発揮せぬ“世界”に眠る力なのか。制作者が与えた予見であったのか。
真偽は不明なれど、そうして予言はヘテロ・アイへと託され、凡そ千年の後に実現する事となる。
……また、つまらぬものを覗き見られたな。まぁ良い。本の少しの成長の証――か。だが、まだまだ足りぬ。努々忘るるなよ。貴様に残された時間は、そう長くは無いのだ――ふん、貴様の女のお帰りだ。
は、っと目が覚める。ここは、夕刻入った宿の部屋、そのベッドの上だ。もう、夢に――記憶に惑わされて、現実を見失う事も無い。解放は進んでいる。ただ、まだまだ足りぬだけだ。
ベッドの上で体を起こし、端に座り直したその時、施錠してあった扉が音も無く開いた。
「!……お目覚めでしたか。」
素早く体を滑り込ませたアマンダは、後ろ手に扉の鍵を閉めた。ヴァルハロスは苦手としていたが、アマンダには開錠など化粧より容易い簡単な技能だ。敢えて、自宅の鍵は捨てて過ごしていたくらいである。通りたい扉に鍵が掛かっていたなら鍵開けして通る。これは、エンジエルも真似していた。
「やはり、思った通りです。件の気配の位置は街の中心、エルフ自治区のようですわ。」
無論、アマンダには古代魔族の遺産の気配など感じられない。あくまで、先に聞いていた情報を現地で照らし合わせて来ただけの話である。推測はしていた。その裏付けを取って来たのだ。
「この街の人間の多くは、自治区では無く異民族区と呼んでいました。エルフ族は下等市民で、何故街の一等地に住んでいるのかと文句ばかり。」
「……滑稽だな。他には?」
「はい。異民族区などと呼ばれている割に、出入りは自由のようです。少数ですが街の方でエルフを見掛けましたわ。街の人間のエルフに対する態度は非道いものでしたが、どうやらお偉いさんたちはエルフ族を大切に扱っている――扱いたがっているようです。それが判っているから、表立って暴力的な扱いまではしていない――と言ったところですわね。」
「……訳ありか。」
「でしょうね。あんまりにも歪ですわよ、この街。エルフを見る人間たちの眼は二種類。侮蔑と罪悪感。身なりの良いお貴族様は、エルフたちを憐れんでおいででしたわ。」
そこにどんな意味があるのかまで、アマンダには窺い知れない。それでも、単に奴隷階級の亜人種を街中で飼っている――そんな良くある権力者の街とは明らかに違った。
「それじゃあ、食事にするか。」
ヴァルハロスは立ち上がり、上衣だけ手にして扉へ向かった。
「……すぐに向かわれないのですか。」
「あぁ、自治区へは翌朝向かう。」
疑問を返しはしたが、反対する意思など無い。アマンダは、愛しい主の言に逆らう気など毛頭無い。ただ理由が判らないから聞いた。その事を、主の方も理解している。
「エルフたちの下に遺産があるのなら、話を聞かなくてはな。遺産の事を知っているのか。十中八九知っていると思うが、ではどう扱っているのか。彼らにとって、どんな存在なのか。確認すべきだろう。俺たちは略奪しに来た訳では無いんだ。」
そこで足を止め、
「ふ、盗賊が言う事じゃあ無いがな。」
振り返って笑った。
アマンダは、時に弟のような愛しさを覚えさせる目の前の男を、思わず抱きしめたい衝動を抑えるのに苦心した。そして、互いに想い合っていても体を重ねられない関係に、同じ部屋で横になりながら夜通し苦悶もする。
男は主であり、自分の体は穢れている。愛しい男の傍にいられて幸せでありながら、同時に決して報われぬ想いに心を串刺しにされる。
アマンダが返した微笑は、とても美しく――悲しげであった。




