64.悪意の果てに
明るかったはずの寝室に、急に影が差し込む。
ベッドにいた彼は、突然彼女から唇を離すと、顔をうつむかせたまま肩を震わせ始めた。
そして、ふっと軽く鼻を鳴らすと、彼女の耳でははっきり聞き取れないほどの小さな声を上げた。
一体何事だろうか?
彼女が疑問に思っていると、彼は次第に明らかに聞き取れる大きな声……ふふふ、あははと笑い声へと変えた。
その様子は、普段の軽い冗談やからかいのような感じではなく、どこか彼女を小馬鹿にしているような意地の悪い笑い方だった。
なぜそんな風に笑うのだろうか。
彼女が彼らしくもない……と眉をひそめると、彼は笑うのをぴたりとやめて顔をすっと上げた。
そして、目尻を下げながら嬉しそうに彼女に向かって微笑んだ。
「やっぱり、君は自分の欲には勝てなかったじゃないか。ねぇ、クリスティーヌ?」
その言葉を聞いた瞬間、クリスティーヌはまるで水中から宙へ浮き出るように、ふわっと意識を取り戻した。
ゆっくりと瞼を開けて目の焦点を合わすと、ぼんやりとした視界からだんだんと輪郭を捉えた光景に変わった。
そしてさらに、ふふふ、あははは……と夢の中でも捉えた、聞き慣れた誰かの声が彼女の耳に届いた。
しかも、その声の主は手をパチパチと叩きながら楽しそうにしている。
その声に釣られるように、先程よりも更に彼女の意識はしっかりとしたものに変わると、硬くゴツゴツした冷たい床の感触がひざ下に伝わってきた。どうやら彼女は石の床に座り込んでいたようだ。
……ここは、どこかしら……
柔らかなベッドの感触から、石の床に変わったせいで、彼女は一瞬混乱した。
「やった! とうとう、ついに!!」
そんな彼女を御構い無しに、笑い声の主は歓喜する声をあげている。一体、何をそんなに喜んでいるというのだろうか。
一種の不快感を覚えながら、クリスティーヌは、ふと、自分の足元に目線を落とした。
すると……
床には、目を閉じ、人形のように横たわって動かないエルの姿があった。
「?!」
彼のシャツの襟元には赤い汚れのようなものが見える。
「エル!」
咄嗟にクリスティーヌは彼に向かって叫んだ。そして素早く彼の元に寄り、両手を上半身に置いて身体を揺さぶってみたものの、彼はピクリとも反応を見せない。
ねぇ、起きて! 起きて! と彼女はさらに必死に彼を揺さぶった。
しかし、それでも、彼は何も反応を見せなかった。
彼女は彼の胸に耳を当てた。さっきまで聞こえていたはずの心臓の音はすでに聞こえなくなっており、温かかったはずの体も次第に冷えていっているようだった。
「エルに……エルに何をしたの!!」
クリスティーヌは顔を上げると目に涙を浮かべて、笑い声を上げている相手ーーつまり、鉄格子の向こう側にいるラウルを睨むとそう叫んだ。
「何って、僕は何もしていないよ? むしろ君が彼にしたんじゃないか」
ラウルはクリスティーヌの口元を指差した。
彼女はそんな……という思いで、指を震わせながら口元に触れてみると、何かねっとりした感触が伝わった。
恐る恐る口元から手を離し、視線を指に移すと、確かに自分がおぞましい行為を行なったと証明する赤い汚れが付いていた。
「残念だったねぇ。あれほど、人を傷つけないとか言っていたのに。よりによって自分の愛する人を手にかけるんだから……」
あははは、とラウルは上を向きながら、またしても大きな笑い声を上げた。
その様子に彼女は呆然としたが、すぐに違う、違う、信じられないと言って
「どうして、どうして、こんな酷いことを! 私がするはずない! 騙されないわ!!」
金切り声のような悲鳴に近い叫び声をあげながら彼女は牢屋の鉄格子を掴み、怒りを込めてガタガタと揺らした。
すると、ラウルは毒づく代わりとでもいうように鼻で少し笑った。
「騙しただって? まあ、これはあくまでもエルが選択した事だよ? 納得がいかないようだから……いいよ、君に見せてあげる」
そう言って、彼はパチリと指らを鳴らすと、クリスティーヌの視界は突如暗くなり、彼女の目にはエルと倒れ込んでいる自分が映し出された。
◆◆◆
「……わかったよ」
エルは蚊の鳴くような声でそう漏らすと、拳に力を入れてぎゅっと目を閉じ、その場で動かなくなった。
だが、覚悟を決めたのか両手で膝を軽く叩くと、顔をラウルの方へと向けた。
「わかった……俺が犠牲になる」
エルの覚悟を受けて、ラウルは数秒沈黙して
「そう……残念だけど、仕方ないことだよね」
と悲しみを表すかのように、片手で口元を覆った。
彼らの様子を見つめるクリスティーヌは、それを笑いを隠すためのものだとすぐに見破った。
が、エルにはそんな悪意を見分けられるはずもなかった。
「だけど、ラウル。一つお願いがある」
思いがけないエルからの言葉に、ラウルはさっと口から手を離した。そして、目に力をいれて、真面目に話を聞こうとでもいうような態度を装った。
「え? お願いだって? ……いいよ。僕でそれを叶えられるなら聞くよ。なんだい?」
エルはじっとラウルを真剣な目で見ながら口を開いた。
「これが終わったら、すぐパリの屋敷にクリスティーヌと共に帰ってくれ。そして、彼女に起きた変化を父上に伝えて欲しい」
「父上にだって? ……どうして? こんな事、僕以外の他の人にバレたらまずいだろうに。いくら身内だからって……」
ラウルは上手い具合に誤魔化すからと提案したが、エルは首を横に振るだけだった。
「とにかく、理由を聞かず父上に伝えて欲しい。クリスティーヌを救うため。それだけだ」
ラウルは、またしてもどうしてと言う言葉を言おうとしたが、エルはそれ以上何も言わないまま、再び首を横に振った。
「わかった。すぐ、父上には伝える事にするよ」
エルの頑固さに負けたとでも言うように、かるくラウルは肩をすくめた。
「うん、それでいい。それでいいんだ。俺の覚悟も決まったし……さあ、クリスティーヌをこちらに」
エルは彼女を迎えるため、シャツの襟を少し緩めて両手を広げた。
ふぅーっと、涙を堪えているとでも言いたげにラウルはため息のような吐息をつくと
「これで本当に僕ともお別れだね、エル。君が折角決めた覚悟に揺さぶりを掛けそうだから、僕からは何も言わないけど……けれど、何もないまま天国に行ってしまうのも、残された者にとっては辛いと思う。何か彼女に伝えたい事は?」
そう彼に尋ねた。
「伝えたい事……か」
そう呟くと、エルは顔を伏せてふっと笑った。
「まあ、直接彼女に言うよ。ただ……もし、シェリルに会ったら、こう伝えて欲しい『俺の代わりにクリスティーヌを支えてくれ』って」
深く頷き、わかったよ。とラウルは静かに言うと、虚ろな目をしたクリスティーヌをエルに引き渡し、さっと牢の外へ出ると鉄格子にむかって振り返った。
彼は両手を下に向けて組むと、無言でそっとその場に立った。彼らを見守るという事らしい。
一方、エルはクリスティーヌを引き寄せるように抱き抱えると、深く呼吸してそっと彼女の肩を叩くと耳元で何かを呟いた。
それは、彼の唇の動きを読むに
「愛しているよ、これからもずっと」
という、クリスティーヌが夢の中で聞いた言葉そのものだった。
そして、彼女の華奢な身体を一瞬力強く抱きしめたあと、愛おしそうに彼女の髪の毛を何度かゆっくりと撫でると、エルの目からは涙が溢れた。
しかし、涙が頬に伝わる前に彼はシャツの袖でそれを拭った。
覚悟を揺るがさないためだろうか。くっと一瞬声をあげて、勢いをつけて襟元をさらに開けると、彼女の口元に沿って自分の肌を近づけた。
……ピクリ。何かを感じとったのか、クリスティーヌは顔を少し上に動かすと、じいっと視線をエルの首元に移した。
先程まで虚ろな目をしていた彼女の焦点がだんだんと合っていく。
目的のもの……つまりエルの首元に走る血管をしっかりと捉えると、急に彼女の指に力が入った。グググとエルのシャツとクリスティーヌの指が擦れる音が聞こえる。
そして、まるで親鳥が餌を運んでくるのを待つ雛鳥のように、彼女は口を少し開くとカチカチと歯を鳴らした。
「……辛かったな。もう我慢しなくて良いんだよ」
エルのその言葉を聞いたのか否か。
クリスティーヌはより口を大きく開けると、躊躇うことなく鋭く尖った歯をゆっくりと彼の肌に埋めた。
◆◆◆
「いやああ!! やめて! やめて!」
クリスティーヌが必死に叫ぶと、 自身とエルの姿は急に遠くへ消え、代わりに先程の牢屋の中にいた光景へと切り替わった。
それは、冷たくなり横たわったエルの姿と、鉄格子越しにニヤついた姿のラウルがいるという、まさに悪夢というべき光景だった。
「お望み通り、君が意識を取り戻すまでの状況を見せたけど……気に入らなかったかな?」
くっくっくと楽しそうにラウルは笑っている。
「嘘よ! 嘘! 嘘! こんな事、あり得るはずがないわ!! ないわああぁ……!」
先程よりもさらに甲高い声をあげ、半狂乱といった状態でクリスティーヌは両手を頭に食い込ませて、髪の毛を掴んでグシャグシャにしながら大声で叫んだ。
しかし、彼女がそうすればそうするほど、ラウルは楽しそうに笑い声をあげるだけだった。
「あははは……ははは! ああ、おかしい! それにしても、エルがこんなにも簡単に僕の話を信じてくれるなんてねぇ。少しばかり嘘を仕組んでも全然疑いもしなかった。ちょっと考えればおかしいって気づいても良さそうなのに」
ラウルによると、仮にクリスティーヌが血を飲む事を今回拒絶しても死ぬ事は無かったという。ただ、ただ、喉が焼かれるような乾いた飢えに苦しめ続けられるだけだと。
それに、エルが犠牲になったからと言って、少量の血でこれから耐えられるはずがない。誰かの息を止めるほどの量を毎夜毎夜求め続けることになるだけだと。
「本当、追い詰められた人間は必死で笑えるねえ……希望とつくものなら、なんでも飛びつくんだから。僕がちょっと細工して気絶したネズミを元に戻しただけで、生き返ったと信じるなんて……あぁ、やっばりエルは単純でよかったよ。こんなバカバカしいことを真に受けてくれたんだから!」
ラウルのエルに対する侮辱に、彼に向かって怒りをぶつける代わりとでも言うように、クリスティーヌは泣き叫んで、鉄格子をバシンバシンと叩きながら呪詛の言葉を叫んだ。
「あなたは最低よ! 最低よ! まるで悪魔そのものだわ!! 地獄に堕ちればいいのに……どうして? どうして?! エルは双子の兄なのに……あなたの分身というべき存在じゃない! あんなに仲も良かったじゃない! それなのにこんな仕打ちにするなんて……狂ってるわ!」
すると、ラウルは急に笑うのをピタリとやめて無表情になると、僕は君たちにお返ししたまでだとボソッと呟いた。
「ねえ、クリスティーヌ。君に拒絶されて、僕がどれほど傷ついたと思う?」
静かな声でラウルは問う。
「それに、僕にとって唯一の理解者だと思っていたエルも……彼だって僕が会いたがっていたのを知っていたくせに、拒絶しつづけた。その上さらに……僕が君を愛していたことを知っていたにも関わらず、結局、彼はまんまと君を奪い取った! ……本当にエルが僕のことを大切な存在だと思ってたら、そんなこと出来るはずがないじゃないか。そもそも、僕が助けを求めた時点で、救いの手を差し伸べてくれたはずだろう! でも彼はしなかった。つまり、彼にとって僕は大した存在じゃなかったっていうことじゃないか!」
だから、エルにもこの償いをしてもらうのは当然だ、とラウルは吐き捨てるように言った。
「偶然君たちをパリで見かけたとき、君が助からない病にかかっていることを僕は知った」
そして、彼はこの計画を思いついたとも加えた。
「それまでは、正直言って君の事をすっかり忘れていた。だけど、君たち2人が仲良く笑っている所を見たら……しかも、結婚して子供までいる事を知ったら……あの時のどうしようもなく惨めで情けない気持ちが蘇ったよ! でも……今の僕はあの時の弱くて臆病な僕じゃない。今度は…今度は僕が思う存分楽しませてもらう番だ。それにしても、ほぼシナリオ通りに動いてくれるなんて、実に滑稽だったよ!」
そう言うと、ラウルは再び大きな笑い声を上げた。
「なんていうこと……それじゃあ、これは最初から全て罠だったというの……?!」
クリスティーヌの顔には絶望の表情が浮かんでいる。肩をがっくりと落とすと、彼女は格子にもたれかかった。
「その通り。それにね、僕が何より一番に傷つけたかった人物……それは君だ。言ったでしょう、君は僕を傷つけたと。だから、これはそのお返しだ。君はずっと、愛する人を自分の手で殺したと後悔して、永遠に生きればいいんだ!」
悔しい思いで彼女は顔を歪ませると、その場を離れ、エルの死体の前にひざまづいた。そして、ごめんなさい、ごめんなさいと、両手で顔を覆いながら泣いて詫びた。
その様子を見ながら、ラウルは勝ち誇ったかの様にフッと笑みを浮かべると
「まぁ、安心しなよ。飢えはないように毎日ご馳走はこうやって運んであげる。でも、僕が飽きたらそれはやめる。だから、僕を飽きさせないように、これからも偽善者ごっこをせいぜい頑張るんだよ」
そう言って、泣き崩れている彼女に向かって手を振り、自身の食事があるからとベアトリスと共にその場を去ろうとした。
しかし、その時だった。




