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63.逃れられない選択

 エルはクリスティーヌを腕に抱き抱え、牢屋から出ようとした。そして、あと2、3歩で出入り口に手が届きそうなところまで進んだ瞬間……


 チクン


 突如、針で刺されたような鋭い痛みを彼は首元に感じた。

 徐々に彼の手と足には痺れるような感覚が起き、抱き抱えていたクリスティーヌを持ち上げられなくなると、とうとう彼女を床に降ろして膝をついた。


 ……なんだ……これは……体に力が入らない……

 自身の急な体調の変化に戸惑いを感じながら、エルはクリスティーヌの方へと不意に目をやった。

 すると、彼女は両膝を床につけた状態で座っているが、口をポカンとあけたまま唇の端からは赤いものを垂らしている。さらに、心ここにあらずと言った様子で虚ろな目を宙に向けていた。

 とっさにエルは、痛みを感じた方の首に手をやった。生暖かくヌルリとした妙な感触が手に伝わる。嫌な予感に襲われつつ、彼は自分の手に向かって視線を送ると、そこにはべっとりとした鮮血が付いていた。

 

 ……この光景は見覚えがある……そうだ、自分がラウルを襲ったときだ。でも、クリスティーヌは自分とは違う。これは……どういうことだ?……

 エルがそう思った瞬間、震える彼の手越しに見えるクリスティーヌは、虚ろな目ののままゆっくりと彼の方へと顔を向けた。

 だが、彼女はすぐに目線を下にすると、よろよろと体を動かし、両手を床につきながらエルの方へと近づこうとした。


 ……ごくっ……

 エルは彼女に対して一瞬、緊張を感じて息を飲んだ。そして、座り込んだまま僅かだが後ずさりをした。

 しかし、エルの予想に反して彼女はそれ以上近づこうとはせず、代わりに顔を伏せて肩を震わせながら、はあ、はあと呼吸が苦しいのか浅い呼吸を繰り返していた。


「……クリス……ティーヌ?」

 エルは今さっき感じた事を忘れ、苦しそうにしている彼女に向かって声を掛けた。

 しかしながら、彼女はエルの呼びかけに答えようとせず、浅い呼吸を繰り返しながら、とうとうその場にうずくまってしまった。

「大丈夫か!」

 そう声を上げると、エルは彼女の元へ素早く寄り抱き起こした。


 クリスティーヌは今にも意識を失いそうな様子だが、何とかそれを防ごうとしているのかうっすらと目を開けている。

「しっかり……しっかりするんだ! さあ、俺がここから連れて行くから!」

 必死にエルも彼女に向かって声をかけた。すると、彼女もそれに応えるかのように、エルの事を潤んだ瞳でじいっと見つめると、弱々しく手を伸ばして彼の頬に触れた。

 エルはその様子に小さく安堵して微笑むと、彼女の冷えた手に自分の手を重ねた。クリスティーヌも微かではあるが、頬を緩ませた。


 彼女の表情を見たエルは、ふとこう思った。

 まさか、クリスティーヌが自分と同じだなんて事はあり得るはずがない。

 きっと、さっきの痺れは疲れによるものだ。出血も彼女を抱き上げた瞬間、彼女の歯がたまたま首に当たって傷ついてしまっただけだろう。

 自分自身をそう納得させて

「よし、それじゃあ俺の首に腕を回して……」

とエルは彼女に向かって声を掛けた。

 エルがクリスティーヌの膝裏に手を入れると、彼の首にゆっくりと彼女の手が回る。彼は大丈夫だという代わりのように、また軽く微笑んだ。



 だが、エルが片膝をあげようとした瞬間__


 ドサッ!!


 と大きな音が上がる勢いで、エルは力強い何かに押し倒され、冷たい床へと頭を打ち付けた。


 その衝撃により、エルは一瞬だけ意識を失いそうになったが、すぐに目の前にゴツゴツとした石の天井が目に入ってきた。

 続いて彼の目に届いたのは、無表情で彼を見下ろして膝をついているクリスティーヌだった。

「……?」

 今度は一体何が起きたのか。

 そうエルが考える間もなく、クリスティーヌは覆い被さるようにして彼の両肩に向かって手を置いた。

 そして、指の先に徐々に力を入れ始めると、先ほどまで弱々しい様子だったのが信じられないほどの力で、彼の体をぐっと床に向かって押さえつけた。


「なっ……!! どうしたんだ! クリスティーヌ!」

 エルは無表情のまま押さえつける彼女に向かってそう叫んだ。

 しかし、彼女は力を緩めようとはせず、反対にますます力を強めた。

 さらに、口をわずかに開けると、エルの首元に向かってゆっくりと顔を近づけ始めた。

「!!」

 咄嗟にエルは、辛うじて動く両手でクリスティーヌの鎖骨を押さえて彼女を突っぱねた。

 一瞬だけ、二人の目線が交わる。

 すると、無表情だった彼女の顔は、みるみるうちに怒り狂ったような恐ろしい表情に変わり、今度は先ほどよりも口を大きく開け涎を垂らして、再びエルの首元を目掛けて襲い掛かかろうと暴れた。


 かっと見開いた彼女の目は血走り、口の中には鋭く尖った牙のような歯が見える。

 白い肌には青白い血管が浮き上がり、さらには、グルル、グルルと普段の穏やかな彼女からは信じられない、まるで獣のような低いうなり声を上げている。

 一体、これはどういうことだと驚き、同時にもはや人とは言えぬ彼女の様子にエルは恐怖を感じながら、それでもなお、抵抗を続けようとした。



「クリスティーヌ、止めるんだ!」

 突然、牢屋の外から声がかかる。

 声の主はそう言って自ら牢屋に入り、エルに襲いかかるクリスティーヌを引き離してしゃがみこむと、まるで暴れる子供をなだめるかのように自分の胸に彼女を引き寄せて、その頭を優しく撫でた。

「よし、いい子だ、クリスティーヌ。最初の一口が美味しかったのかい?」

 ラウルはよしよしと言って、興奮状態である彼女をゆっくりと落ち着かせた。


「……ああ、そうだ。エル。ごめんね。君に一つ大事なことを言ってなかった。確かに彼女はもう病気なんかで死ぬことはない。けれど、彼女はもう普通には生きられないんだ」

 エルは急に気道へ空気が入り込んだせいで、ゲホゲホと咳き込んでいる。

 その上、クリスティーヌからようやく解放されて安堵しようと思ったのも束の間、ラウルの発言によって頭が混乱しそうになっていた。

「普通に生きられないだと……?! どういう意味だ!」

「もちろん、僕の延命の儀式は成功したんだ。ただ、彼女は普通の人間ではなくなった。当たり前だよね。誰しもに訪れる死を拒否したのだから。ただしその代わりに……彼女がこれから生きていくためには、人の血が必要となる」

 ラウルは彼女の頭を撫でながら続ける。

「それで、彼女に血を与えるために哀れな犠牲者を用意したのだけど……人の命を奪う事は出来ないと彼らの血を飲む事を彼女は拒否をしたんだ。実に優しい彼女らしいよね。まあ、それはいいとして、今日までに誰かの命を犠牲にしなければ、彼女はいずれ死ぬ。せっかく延命したのにねぇ」

 憐れむような目線をラウルはクリスティーヌに向かって投げた。


「そんな……」

とエルは膝をついたまま顔を伏せ、絶望感漂う声を上げたあと、数秒沈黙した。

「どうしてだ! どうしてそんな大事な事を黙っていたんだ!」

 その言葉のあと、エルはキッと睨みつけるようにしてラウルを見つめ、拳を思い切り握りしめると床に向かってバンッと叩きつけた。

 だが、ラウルはそれに動揺する様子を見せず

「だって、僕が言ったところで君は素直に受け入れたかい? 仮に君が受け入れたとしても、クリスティーヌはどうだっただろう。彼女の事だ。きっと、そんな事はできないと拒絶して自らの運命を受け入れたはずだ。だから、僕は敢えて黙ってたんだ。残酷かもしれないけど……君たちの事を思ってね」

と静かに答えた。そして、彼は眉間にシワを寄せると、わざとらしいくらいに悲しそうな表情をして肩をすくませた。


 二人の間に再び沈黙が訪れる。

 

「ほ、他に……他に方法はなかったのか! 彼女を助ける方法は!」

 自身で選択したことへの後悔と、ラウルが黙っていたことへの怒りの感情を込めながら、エルは彼に向かって声を震わせながらそう叫んだ。

「残念ながら、僕にはこの方法しか考えつかなかった。それにしても、エル。君は相変わらずだね……後のことを何も考えない。何かを得るためには、何かを代償にしなければならない。特に、君の選択した事は神の意志に逆らう行為なんだ。けれど、幸いなことに、まだ君には引き返す余地がある」

 ラウルはそう言っておもむろに立ち上がると、牢屋の出入り口を指差した。

「先ほど彼女が願ったように、この場から彼女を残して逃げてもいいんだよ? 彼女だって本望だろう。ただし、僕は彼女の意志を尊重してこれ以上の犠牲者は連れてこない。……それはすなわち、彼女はこの牢屋に入れられたまま餓死することになるけどね。辛いだろうなぁ。噂で聞いたけど、この方法で延命したものは気が狂うならまだしも、死ぬまでまともな感覚をもっているそうだ。死の恐怖に怯えつつ飢えに苦しみ、家族に囲まれた温かいベッドではなく、こんな粗末な牢屋の中で死ぬなんて……病気で衰弱死する方がまだマシだったって後悔するかもしれない」

 或いは……と彼は続ける。

「彼女を死なせたくないなら、誰かを殺すしかない。今から誰か誘拐してくる? それとも……君が彼女にその血をもっと分け与えるかい?」


 すると、その言葉に反応したのかクリスティーヌは再び、ウゥーウゥーと大きな声を上げた。目には大きな涙が浮かんでいる。

「おやおや。どうやら、彼女はまだ自分自身の本能に抗っているようだ。本当に健気だ。でもね……エル。こうやって苦しんでいる彼女を君は見捨てて、ここから出ていけるのかい? そして、それを一生後悔しない自信はあるのかい?」

「くっ……!」

 追い討ちをかけるラウルの言葉に、エルは唇を噛んだ。

「君のことだ。きっと、他の誰かを犠牲にしたとしても、その事をずっと悔やむに違いない。いや、それ以前に、誰かを犠牲にしたとクリスティーヌから責められるかもね。そして、彼女からは失望した目で見られ続けられるんだ」

 ふふっと声をあげ、ラウルは皮肉めいた笑みを浮かべた。

「けれど……双子の兄弟として酷な提案だけど、君が犠牲になってくれるなら、きっと彼女も納得してくれると思う。むしろ、自分のために死んでくれるなんて『愛してる』って言葉の最上表現じゃないか。喜んでくれるかもしれないよ?」

 エルの顔には、彼女をよもや元に戻すことはできないのかと後悔の念がより一層にじみ出ている。


 だが、彼に対して更なる選択をラウルは迫った。

「それとも……」

ゴソゴソと自身の服のポケットを探ると、彼は柄に細かい宝石をあしらった一本の小さな短剣を取り出し、すっとエルの足元へ滑らせた。

「それを使って、彼女の心臓へ向かって思いきりふり落すんだ」

「……!!」

「それで、彼女の心臓を一気に止める。そうすれば彼女は苦しまずに天国にいける……まあ、餓死に比べたらの話だけどね」

 

 ラウルの提案はどれもこれもエルを絶望とさせるものばかりだ。だが、エルは彼の提案から逃げることはできない。

 エルはただひたすらに苦悶の表情を浮かべるしかなかった。


 すると、そんな彼を見てラウルはふと何かを思い出したかのように、指を一本ピンと立てた。

「そうそう。まず最初は確かに誰かの命を奪うまで血を飲み尽くさないといけないのだけど。……なあに、一度奪えば後はどうにでもなる」

「どうにでも……?」

「そう。常に満足さえ求めなければ……致死量までいかない量で耐えればどうにか生きていける。それにね、世の中にはとても奇特な人がいてね。血を喜んで分け与えてくれる人もいるみたいなんだ。だから、彼女さえちょっとの不自由さに我慢してくれれば、他の人の命までは奪わずに済む」

「……?!」

 秘密だったはずのエル自身の体質の事をラウルは知ってか、知らずかそのように提案したことにエルは驚いた。

 確かに、例の液体であれば彼女の飢えは凌げるだろう。


「さあ、それで? どうする? もう時間はあまり残されていないよ」

 自分の胸ポケットから懐中時計を取り出し、ラウルはチクチクと進むのを止めない時計の針を指差した。

「あと数時間で夜が明ける。そうすればいよいよ手遅れだ。さあ、彼女の望み通り彼女をこの場に置いて逃げるのか。それとも、自分か他の誰かを犠牲にして彼女を生き延びさせるのか。あるいは、君自身で彼女にとどめをさすのか……選択肢は君次第だよ。エル」


 無情にも選択の刻は迫っている。

 首を垂れながら膝に両手を置いたエルは、ぎゅっと拳を作り震わせた。

 これまでの彼女と愛し合い、幸せだったこれまでの日々が彼の頭の中を駆け巡る。

 最初の出会いと再会、一緒に遊んだ記憶、勇気を出したプロポーズ、そして息子の誕生……

 抑えられなくなったのか、目からはポツリポツリと自然と涙があふれ、彼の手と膝を濡らした。

 きっと、どれを選んでも結局後悔することに変わりないだろう。しかし、彼女のためにせめて自分が出来ることは……



「……わかったよ」

 唇を震わせながら、蚊の鳴くような声でエルは覚悟してそう呟いた。

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