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58.変異

 湿っぽく、そして少しカビ臭い匂いがクリスティーヌの鼻腔をつく。その匂いに刺激され、彼女は瞼を瞬かせながら、ゆっくりと目を開けた。

 その紫色の瞳に入ってきた情景は、ぼんやりと霞んでいたが、次第にはっきりとしたものへと変わった。


 数本の蝋燭に照らされただけの暗い室内。目の前にはゴツゴツとした石造りの天井が見える。頭を左右に動かしてみると、同じように石でできた壁が2、3歩先にある。

 果たしてここは一体何処なのか。確認するため上体を起こしてみると、正面には頑丈そうな鉄格子がそびえたっていた。

 彼女はどうやら、この空間内に寝かされていたようだ。ギシギシと音を立てる寝床は硬く、いつも寝ているベッドと違い、造りも粗末だった。


 明らかに牢屋と言える場所で、彼女は目を覚ました。

 なぜ、こんな所に自分はいるのだろうか? と疑問を感じたのと同時に、ラウルから行われたおぞましい出来事を彼女はハッと思い出した。


 毎夜、彼は現れた。

 そして、延命の儀式を行うと言って、クリスティーヌと二人きりになった。

 しかし、彼が行ったのは、神への祈りでもなく、妖しげな魔術を行う訳でもなく……

 彼女のか細い首に自らの歯を突き立てると、その血を啜っていたのだ!


 だが、彼に襲われた後、意識は失っていたが、辛うじて命は落とさなかったようだ。

 しかしながら、自分だけここに連れてこられて来たようだがエルは? 彼はどうしているのだろう。状況はよくわからないが、とにかくここから出なくては。

 彼女はそう思って牢屋内を見回してみても、窓は一切見当たらない。鉄格子にある唯一の入り口をガタガタと揺らしてみるものの、それはビクともしなかった。



 すると、入り口を触っていた時の音を聞きつけたのか、誰かの足音が聞こえてきた。

 コツコツとしたその音は、不気味に牢屋の前の廊下でゆっくりと響く。そして、クリスティーヌのいる牢屋の前でぱたっと突然止まった。

「よくやく目覚めたね。お姫様」

 その人物はそう言うと、クリスティーヌに向かって軽く微笑んだ。

 エルとそっくりな顔をしているが、いつも明るいエルとは異なり、どこか憂いのある雰囲気は昔から変わらない。

 彼ではない事を彼女はすぐに見破った。


「ラウル……!」

 彼の名前を呼んだ後、彼女は一瞬後ずさったが

「あなたがここへ連れてきたの? 何のために!? ……ここから出して!」

と叫び鉄格子を掴むと、再びガタガタと揺らした。

 だが、ラウルは入り口を開ける事はなく、笑顔のまま彼女を落ち着かせるようにこう言った。

「まぁ、まぁ。それより、気分はどう? 少なくとも、前まで感じていた痛みはないんじゃないのかな?」


 確かに、ラウルが言う通り、彼女が今まで感じていた痛みは嘘のようになくなっていた。

 それと同時に、彼女は自分の体に妙な違和感を覚えていた。自分のもののはずのなのに、自分のものではないような……だが、今はそれよりも、ここを出してもらう事の方が彼女にとっては重要だった。

「ねぇ、ここから出して!」

 彼女はより大きな声で叫んだ。しかし、必死な彼女を御構い無しに、ラウルは

「ところでさ!」

とまたしても笑顔で声をかけ

「お腹空いてるんじゃないかな?」

と唐突に彼女へ質問をぶつけた。


 言われてみれば、クリスティーヌは空腹を感じていた。しかし、それはどちらかと言うと、喉が渇いた状態に近かった。

 どうしてそんな事がわかるのだろうか? と言うように、彼女はラウルの事を見つめると

「図星のようだね。それじゃあ、今、ご馳走を持ってきてあげる」

彼はそう言うと、くるりと来た方向に向かって立ち去ったが、数分もしないうちに戻ってきた。

 そして、彼の両腕にはなぜか、栗毛色の髪をした男の子が抱き抱えられていた。



 ラウルは牢屋の入り口の鍵を開け、中に入って彼女に近付くと、地べたにそっとその男の子を降ろした。年頃はシェリルよりも2、3歳くらい上だろうか。

 だが、少年はぐったりとした様子で、その場から動こうとしない。顔が赤く、はぁはぁと少し呼吸も早いようだ。

 クリスティーヌはその子の様子を見て、駆け寄るとすぐに額に手を当てた。

「大変! すごい熱じゃない。早くお医者様を呼ばないと!」

 まるで、自分の息子のように、彼女は少年の事を心配するが、ラウルはただ彼女を見つめるだけで何もしない。

「ねぇ、こんな病気の子供を連れてきて、何するつもりなの? 早く、お医者様を……」


 すると、ラウルは腹を抱えるようにして、突然ハハハと笑い声を上げた。

「何? 何がそんなに可笑しい事なの? 早くしないと、この子の命が危ないのよ?!」

 彼女はその場でなぜか笑うラウルに向かい必死に訴えるが、彼はその場に立ったまま笑い続けた。

「あぁ、可笑しい。せっかく、君は変わったというのに……他人を心配するだなんて」

 彼は一瞬だけチラリと苦しんでいる少年を見ると、こう続けた。

「いいかい、この子はね、病気で捨てられた子なんだよ」

 そして、再び声を上げて笑った。


「そんな……だからと言って、放って置けないわ」

 彼女は少年を抱え上げると、自分の寝ていた寝床に寝かせようとした。

 しかし、彼女の腕を掴むと、ラウルはその腕から無理やり少年を奪い、脇に抱えるようにして片腕で抱きあげた。

「何するの?! そんな体勢じゃ辛いわ。寝かせてあげないと……」

「クリスティーヌ。言ったでしょ? 僕は君のためにご馳走を持ってくるって。そのご馳走がここにいるこの男の子なんだよ」

 ラウルは、不気味により一層の笑顔を作った。そんな彼に対して、クリスティーヌは絶句した。この場面で、不釣り合いにも嬉しそうに笑う彼は、一体何を言っているのだろうかと。


「そうか……でも、変化したばかりなら、わからないのかもしれないね。じゃあ、僕がお手本を見せてあげよう」

 ラウルはそう言うと、その男の子を抱き直してシャツのボタンを外し、首元を露わにした。

 さらに、少年をもっと彼の顔近くに引き寄せると、口を開いて二本の鋭く尖った歯を軽く見せた。

 そして……なんの躊躇いもなく、彼の喉元に噛み付いた。少年からはうぅという声が漏れ、傷口からは少し血が見えている。

「ひっ……!」

 その光景を目の当たりにしたクリスティーヌは小さな悲鳴をあげ、思わず壁の方へ後ずさりした。

 襲われた少年は始め、手足を少しバダバタさせていたが、次第にそれは収まった。


 事が終わったと同時に、ドサッと無造作に少年の亡骸を床に落とすと、ラウルは少し血で汚れてしまった口を手の甲で拭い、彼女の方へと向いた。

「……ふふっ。クリスティーヌ。叫んだ割には君も顔が恍惚としているよ」

 その言葉に彼女はハッと我に返った。

 確かに、彼が少年を襲った瞬間は、確かに彼女は恐怖を感じた。

 だが、奇妙なことにいつのまにかそれは、目の前に美味しそうなご馳走が並べられているかのような感覚へと変化していたのだ。

 さらに、無意識のうちに、彼女は違和感の一部である口元へ手を当てていた。

 その流れで、首元の方に手をやると……脈を感じなかった。胸元に手を当てるも同じことだった。

「一体……これは……どういうことなの?」

 自分自身に起きた変化に、両手を見つめながら彼女は思わずそう漏らした。


 君は生まれ変わったんだよ! とラウルは声高らかに宣言をした。

「僕が君に新しい命を授けた。言ったでしょ? 痛みも、老いも、寿命からも免れられると。ただ……それには、多少の犠牲が必要だけど」

 ラウルはそう言うと、下に横たわる少年を指差した。

「趣味の悪い冗談はやめて! あなたはこんな事して、恐ろしくないの? ……人の血を飲んでいるのよ?! そして、終いには命を奪うなんて……!」

 クリスティーヌは首を横に振り、顔を青ざめさせてそう叫んだ。しかし、君こそ、何をいっているの? とでもいうような表情をしながら

「冗談でもないし、恐ろしくなんかないよ」

と彼は言った。

「いわゆる、罪悪感と言うのかなぁ。そんなもの、とっくの昔に捨てた。いや、そもそも感じてないのかもね」

 そして、ラウルはしゃがみこむと、人形のように動かなくなった男の子の頬を指で突いた。


「そんな……あなたは、なんて人なの! これはれっきとした人殺しよ!」

 クリスティーヌはラウルをそう強く非難した。だが、またしても彼は笑い声をあげた。

「今はそう"正論"を言っているけど、果たして、いつまでそうもつかな? 君の飢えはまだ始まったばかりだけど、こうして犠牲者から血を貰わないと、もっと酷くなるよ?」

 彼女は首を横に振り、ラウルを睨みつけた。

「いいえ! 私は誰も傷つけたりしないわ。あなたのように、人殺しなんか……!」


 そんな彼女に対して、ラウルは嘆くように、残念そうな顔をした。

「そっ! まあ、別にいいけど。じゃあ、今夜のご馳走は無しのようだね。でも、夜はまだまだ長い。だから、退屈凌ぎに僕の話を聞いてよ」

 彼は牢屋内にあった木箱に腰掛けると、頼まれてもいないのに、家を出た以降の話を語り始めるのだった。

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