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53.悪夢の始まり

 空は鈍よりとしており、今にも雷が鳴りそうだ。

 高貴なものも、卑しきものも関係なく群衆がその場に押し寄せている。

 男は粗末な荷馬車から荒々しく降ろされると、手を縄で縛られた状態で、犠牲者たちの血を存分に吸った木の台へと登らされた。

 群衆からは、男のことを殺せ! 殺せ! と大きな声が上がっている。男は必死に抵抗しながら、自分は罪を犯していない! と大きな声を上げた。


 だが、それは逆に彼らの怒りを増長させるだけであって、さらに男を罵倒する言葉が叫ばれた。

「人殺し」

「悪魔」

「バケモノ」

 その言葉に、男は深く傷つき涙をながす。

 しかし、死刑執行人は男の名を呼ぶと、無情にも罪状を読みあげた。

「カネにものを言わせ、罪なき人々をだまし、生き血を啜ってきた。そしてさらには……!」 

 執行人が助手たちに何かを運ぶように指示すると、男の横にドサっと音を立てて何かが置かれた。

 男がそれに目を移すと、それは見覚えのある服を着た遺体だった。

 皮膚は完全に腐敗しており、その中には遺体の肉を食らう蛆が蠢いている。

 あまりにグロテスクな光景だったため、男はすぐに目を背けたが、その遺体が一体誰のものなのか男はわかっていた。

 その遺体には不釣り合いな高価な服。そして、首元に刺されたナイフ……男の兄だ。


 執行人は再び男の名を呼ぶと

「遂には、自らの快楽のために肉親まで手をかけるとは。あぁ、忌々しい!」

 その声とともに、男は執行人の助手たちによって、前に藁を敷き詰めた小さな台へ頭を押し付けられた。

「違う! 俺じゃない!」

 男は必死に抵抗して叫ぶ。


 しかし、暴れる男に向かってそっと両手を差し出して、彼の顔をその手で包む女がいた。 

 彼のよく知っている顔だ。

 あぁ、愛する妻。君だけは俺の事を信じてくれるのか。男は涙を流して、彼女の目を見た。

 すると、彼女は天使のように微笑んでこう言った。

「天にいる神へ慈悲を乞いながら、地獄の業火に焼かれるがいい。血塗られた怪物よ」

 そんな……君すらも信じてくれないなのか。どうして……と男の表情が絶望へと変わった瞬間、死刑執行人が太く冷たい剣を容赦なく彼に振り下ろした。


◆◆◆


「うわぁぁ!!」

 エルは自分の叫び声で目を覚ました。暑い季節でもないのに、身体はぐっしょりと嫌な汗で濡れている。

 心臓はバクバクと鳴り、息ははぁはぁと切れ、まるでどこかから全速力で走ってきたような状態に彼は陥っていた。

 額にとめどなく溢れ出てくる汗を手の甲で拭う。その弾みで横を見れば、隣で気持ちよさそうに眠っている妻がいる。

「はぁ……なんだ夢か」

 今が現実だと知ったエルは、ふぅと一息をついて安堵した。


 冷静に考えてみれば、もうユリエルの死から四年近くが経過している。未だに犯人は不明だが、今はもう誰も事件の事を口にしていなかった。

 さらに、エルは貴族以上の豪奢な生活をしているとはいえ、階級は平民だ。

 ()()()()()()()()()()()()なんていうことはあり得なかった。

 そんなあり得ない所が、まさに夢だという証拠なのだが。


 ではなぜ、エルはこんな恐ろしい夢を見たのか。それは、昼間に出かけた事が原因だった。


◆◆◆


 空は晴れ、心地よい風が吹く中、エルは普段は寄らない通りに来ていた。今日はクリスティーヌの23回目の誕生日だ。

 彼はパリにある靴職人の店を訪ねていた。


 それより数週間前の事だ。

 今年の彼女へのプレゼントは流行りの帽子にしようか、と彼はそれまで思っていた。

 しかし、所用でたまたまここの道を通りがかった時、一瞬でその考えは変えられた。

 というのも、この店のショーウィンドウには靴が並べられていたのだが、女性ものや男性ものの他に小さな靴が置かれていた。

 その靴は女性ものの靴と同じデザインとなっており、お揃いで楽しむことができそうだった。

 彼は一目でこれこそ、彼女のプレゼントにぴったりじゃないか! と閃くと、足早にその店のドアを開いた。


 エルは頼んでいた品を受け取り馬車へと乗った。当初は彼女だけのプレゼントだったはずだが、彼の手には二人分が握られている。

 どんな顔をして喜んでくれるだろうかと、この後の展開を嬉しそうに想像していると、急に馬車のスピードが落ち、とうとう止まってしまった。


 ……早く家に帰りたいのに。どうしたというのだろう……

 焦る気持ちの中、エルは馬車の外を見ると沢山の人が道にあふれており、いつの間にか馬車は動けなくなってしまっていたのだ。

 確かに、行く時もやけに人が多いような気がしていたが、この騒ぎは一体なんだ? と彼は御者に聞く……よりも前に察した。



 ここは、ある広場に近い通りだった。

 普段であれば、この道に人が溢れるという事はそうそうないのだが、今日は観覧者が殺到したため、あいにくこの道も塞がれてしまったのだ。

 

 エルはしまった……という顔をした。なぜならば、彼は自分の"欲"が誘発されるかもしれないからと、父親たちからはこのイベントに行くなと言われていたのだ。

 もちろん、彼自身もそれを防ぎたかったのでいつもは避けていた。

 しかし、今日は日が悪く、例のイベントに当たってしまった。さらに、平民だけではなく、大勢の貴族達も駆けつけている盛り上がりようだった。


 周りがざわついている中、堂々とした風体の男が壇上に上がると、周囲からは歓声が上がった。

 人々は彼の事をムシュー・ド・パリと呼ぶ。彼の家では代々この職が継がれており、中でも4代目にあたる彼の腕は、特に素晴らしいともっぱらの噂だった。

 しかも、今日はイベントの中でももっとも人気のあるショーを行い、かつ主役となるのは元軍人の貴族である男だそうだ。


 観衆が今か、今かと待ち望むなか、ムシュー・ド・パリの助手たちが貴族の男を壇上へと連れて行く。しかし、彼は貴族という割には粗末な服を着せられていた。

 彼の姿を見た彼らは、また大きな声を上げた。だが、先程の歓声とは違って、今度は聞くに耐えない罵詈雑言が飛んでいる。

 そのような中、男の名を呼んだ後、ムシュー・ド・パリは冷静にこう言った。

「幼い少女たちへの暴行と殺人、並びにその証拠隠滅のため家に火をつけたとして、斬首に処する」


 ムシュー・ド・パリ、つまり彼はこのパリの死刑執行人だった。彼が罪状を読み上げると、またしても大きな声が上がる。

「早く殺せ!」

「生かしておくな!」

「地獄へ落ちろ!」

 男は一言、二言、なにかを呟くと、観念したのか大人しく死刑執行人に首をだした。


 そして……

 手早く死刑執行人が男を処理すると、やったぁ! ざまあみろ! など、またしても観衆は湧き上がっていた。


 しかし、歓喜する彼らとは裏腹に、エルは口元を押さえながら勢いよく馬車から飛び出すと、道の端で吐瀉物を撒き散らした。

 そんな彼の姿を見た観衆の一部は、だらしがねぇな! と言って、彼の事を指差して笑っている。

 エルはレースのハンカチで汚れた口を拭うと、次に行われる絞首刑が始まるのを首を伸ばして見ようとする御者に対して、道が少し空いたから早く馬車を出してくれ! と強い口調で言って、その場を離れさせた。



 ……好奇心に駆られて、アレをみた自分はバカだった……

とエルは己の愚かさを呪った。

 本来は見せしめのためだったにも関わらず、まるで日頃の鬱憤を晴らすかのように、公開処刑はパリで大人気であるという。

 しかも、娯楽のない庶民であるならまだしも、ただ退屈さを紛らわせたいからとの理由で、処刑場の前に立つアパルトマンを貸し切る貴族もいると聞くから驚きだ。


 彼が恐ろしい悪夢から、ようやく冷静さを取り戻していると、いつの間にかクリスティーヌが目を覚ましていた。

「どうかしたの? こんな夜中に」

 彼女は起き上がり、眠たそうに目をこすっている。

「起こしてごめん。怖い夢をみたんだ」

 

 エルがそう答えると、あら、可哀想に……と言って、クリスティーヌは彼の事を抱きしめた。

 すると、彼は彼女の腕をゆっくりと解き、抱きしめられるならこうしていたいと、彼女の柔らかな胸に顔を埋めた。

「ふふっ。甘えん坊さん。シェリルだって、とっくにお乳を離れたと言うのに」

 彼女は息子の髪と同じ色をした、夫の髪を愛おしそうに撫でる。


 しかし、彼女の優しい温もりを感じつつも、エルの心はなかなか落ち着かなかった。

 夫婦となって数年が経つが、例の"本当の体質"については、未だ彼女には打ち明けていない。

 というのも、幸せな生活であると感じれば感じるほど、いつか本当の自分が知られてしまうのではないだろうか。その時、彼女は離れていってはしまわないだろうか……という不安にしばしば苛まれていたのだ。

 そして、不安を感じるたびに、この秘密は絶対に守らなければならない。と彼は心を固くしていった。


 あぁ、どうか、これは単なる杞憂でありますように……とエルは目を閉じながらそう願うのだった。

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