54.予兆
「いってらっしゃいませ。だんな様、奥様」
使用人たちに見送られて、エルとクリスティーヌは久しぶりに舞踏会うため馬車へと乗り込んだ。
「仮面舞踏会なんて本当に久しぶりだわ。前に行ったのはいつだったのかしら」
馬車の中で嬉しそうな顔をしたクリスティーヌがエルに向かって言う。前はあまり乗り気ではなかった舞踏会も、久しぶりだと楽しみになってくるらしい。
「そうだなぁ。前はシェリルがお腹にいると気づく前だったから、二年ぶりくらい前じゃないかな」
とエルは微笑んだ。
二人は結婚して一年後、男の子に恵まれた。瞳の色はアイスブルー、髪色はエルのものによく似たその子に、二人はシェリルと名付けた。
本来であれば女性の名前であるが、二人は響が気に入ったため、その名にしたのだ。
そして、彼らにとって意外な反応をしたのがアーロンだ。彼は初めての孫に大喜びすると、この子の馬は何がいいかと、まだ生まれて間もないというのに、真剣に悩んでいるようだった。
また、もう一つ喜ばしいことがあった。それは新大陸に建設中の屋敷が、来年にはとうとう完成するとの知らせだった。
「色々あったけど、来年にはこの地を離れるんですもの。そう考えると、寂しいわね」
「まあ、だから、こうして思い残す事がないよう、遊びに行くんじゃないか」
彼の言葉にクリスティーヌは、そうね。残された時間を楽しく過ごさないと、と笑顔で答えた。
◆◆◆
二人がやってきたのは、ある商人が開いた仮面舞踏会だった。きちんとした格好であれば、誰でも参加できたため、さまざまな人がいるようだ。
彼らが数曲踊り終えると、エルはどうやら知り合いである人物に声をかけられた。何か時間のかかる話があるようだ。
「クリスティーヌ。せっかくだし俺に構わないで、楽しんでおいで」
夫からの許可を得た彼女は、ええ。楽しんでくるわと、夫以外の男性と踊りの列に加わった。
何人かの相手をしたあと、彼女は喉が渇いたので飲み物を飲んでいた。
すると、ある黒衣の男性が彼女に声をかけた。彼は見たことのないデザインの仮面をしている。外国からきた人物だろうか。
しかし、あなたはどちらから来たの? と聞くのは野暮というもの。彼女は何も聞かず、彼の誘いを受けた。
だが、仮面の男と初めてあったというにも関わらず、クリスティーヌはどこか懐かしいような空気を感じ取った。
そして、彼女が男の手に触れた瞬間ーー
クリスティーヌは気がつくと、一糸まとわぬ姿でベッドにいた。相手は彼女の唇やうなじに濃厚な口づけをする。
その行動に答えるかのように、彼女も情熱的に相手の体を愛撫した。
相手の唇がうなじからデコルテ、胸、腰とどんどん唇を下の方へと移動していくと、何という快楽なのだろう! と、彼女は歓喜に沸いた。
そして相手を受け入れようとした瞬間……
その顔を見ると、それは愛する夫ではなく、文字通り"顔のない"誰かであった。
目を開け、はっ! とクリスティーヌは我に返った。蝋燭の柔らかな光がボンヤリと瞳の中に差し込んでくる。
そして、彼女の目の前には先ほどの仮面の男がいた。どうやらまだ彼と踊っている最中だったようだ。
「ご、ごめんなさい。私ったら、ぼうっとしてしまって」
彼女は踊っていたにも関わらず、あんなふしだらな事を考えているなんて、と自分を恥じて俯いた。
先程飲んだシャンパンに、酔ってしまったのだろうかと彼女は思った。
しかし、仮面の男はいや……と首を振りながら言うとこう続けた。
「あれは、君の心の奥に秘めた願望だ」
えっ……! と小さく声を上げて彼女は驚いた。なぜ男は自分の頭の中の事がわかったのだろうか。
だが、顔を上げると仮面の男はいなくなっており、人々が踊るなか、彼女だけがポツンと輪の中に一人で突っ立っていた。
あたりをキョロキョロと見回してもそれらしき人物は見当たらず、優雅に奏でられる室内楽だけが、鮮明に聴こえてくるだけだった。
……今のは一体何……?
そう思った次の瞬間、クリスティーヌはまるで背筋に冷たい水を浴びたような感覚に襲われた。
そして、彼女は踊りの輪から抜け出してエルの姿を探すと、気分が悪くなってしまったと伝えて、早々に切り上げたいと訴えた。
帰りの馬車の中では、心配そうにエルが見つめている。
彼女は、この奇妙な体験を彼に話したかったが、きっと信じて貰えるはずがない思ってと何も言わなかった。
そして、男の手が妙に冷たかったことが、あれが幻のだったのか、現実だったのかをよりわからなくさせた。
◆◆◆
深夜の庭園内で男女が戯れている。
「あぁ、なんてこと! 早く貴方を感じさせて!」
では、僕をもっと楽しませてくれと男は言うと、唇を彼女の首元へ移した。
事を終えると、男は恍惚とした気分にしばらく身を任せていた。だが、それは彼の事を後ろで呼ぶ声によって打ち消された。
「今日は随分と機嫌がいいのね」
女は彼の下でぐったりとしている貴婦人を見てそう言った。
「あぁ、すごく気分がいいよ。ベアトリス。でも、そう言う君だって、愉しんできたんだろ?」
男は自分の唇を指差して、彼女の唇の端に微かに赤い印が残っていると指摘した。
あら……と言いながら彼女はハンカチで口元を拭うと
「ねぇ、何か面白いことがあったの? 教えて頂戴」
ベアトリスと呼ばれた女は、男の下ですでに事切れた貴婦人を地面へどかすと、彼が座っているベンチに腰掛けた。
しかし、彼は内緒と言って、それ以上の事は何も言わなかった。
……それにしても、彼女の驚いた顔はおかしかった……
先程、男は飛び入り参加した舞踏会で、ある女性をからかっていたのだ。他の男との行為に顔を赤らめるなんて、実に貞淑な彼女らしいと。
しかも……と彼は続ける。彼女からはある光が見え始めている。このままいけば、もっと面白い事になりそうだと、彼は声を押し殺して笑った。
「しかし、今日はまだお腹がすくなぁ」
彼はベンチから勢いよく立ち上がった。ベアトリスはそんな彼の事を少し呆れながら見つつも、薄ら笑いを浮かべている。
「すごい食欲だこと。でも、気をつけないとすぐ夜明けを迎えてしまうわよ?」
そう言って、彼女はベンチの下に転がる、首に二つのアザを作った犠牲者を見つめ、彼の名前を呼んだ。
「その呼び名は好きじゃない。前も言ったけど、やめてくれないかな?」
彼は以前そう呼ばれていた名前を否定すると、代わりに新たな名前で呼ぶよう彼女に指示した。
そして、新たな踊りの相手を探そうと言って仮面をつけると、彼女の手を取り、再び舞踏会の会場へと向かうのだった。




