45.兄弟喧嘩
「全く、最近は素行が良くなったと思っていたら、とんでもない……本当にお前は何を考えているんだ! これは我が一族の恥だ! 恥!」
頭に血管を浮かせる勢いで、ミカエルは怒り狂っている。
「現場となった伯爵家には、早急にお詫びに行かないと行けませんね。それでも、まぁ、相手がよその家の方ではなくて本当に良かった。せめて、それだけが救いです」
ラファエルはやれやれ……と困り顔だ。
「いつかやるなとは思ったが、本当にやらかすとはな。くくく……」
ある意味期待通りだという風に、ザラキエルは笑いを堪えていた。
そんな彼らとは違い、アーロンは黙ったままだ。だが、エルの事をギロリと鋭い視線で見ている。言葉にはしていないが、彼も怒っているのだろう。
エルは今、屋敷のサロンにいるが、暴れないよう、手元は白い布で縛られた状態で椅子に座らされていた。
事の起こりは数時間前。
ある伯爵の舞踏会で、エルは兄であるユリエルとその愛人に出くわした。兼ねてからクリスティーヌに対して無関心な兄に、エルは苦言を呈する。
すると、ユリエルはエルの事を挑発した。そして、エルは怒りが頂点に達し、ユリエルに対して飛び蹴りを食らわしたのだ。
だが、もちろん、攻撃されたユリエルだって黙っていない。彼は運動神経が良かったので、エルに対して即座に反撃に出た。
一方、エルもエルの方で小さい頃から喧嘩に慣れていたので、負けじとユリエルを殴った。
地面に転がってもなお、揉みくちゃになりながらお互いに殴る、蹴るを繰り返す。せっかくの二人の高価な衣装も泥だらけだ。
さらに、二人の喧嘩を聞きつけた野次馬からは、いいぞ! もっとやれ! と囃し立てる者までいた。
心配そうに様子を伺っている貴婦人たちも、キャーと悲鳴を上げているが、どこか楽しそうだ。
二人の兄弟喧嘩がようやく収まったのは、騒ぎを聞いた伯爵が使用人を呼び、彼らが止めに入ってからだった。
「でも、悪いのは向こうだろ! クリスティーヌを侮辱するような事を言ってきたんだから! ……っいてて」
怒られる事が納得いかないエルはそう叫んだ。強いパンチを左の口元に受けたため、叫ぶと痛みを感じているようだ。
「だからと言って、蹴り倒した上に殴ってはいい事にはならないだろう! もう子供ではあるまいし!」
エルに負けないくらいの声で、ミカエルが叫ぶ。
そんなミカエルを宥めるように、アーロンは片手をあげるとこう言った。
「確かにミカエルの言う通り、いくら挑発されたといえ、暴力に頼るのはやり過ぎだ」
「でも……」
「でもじゃない。それに、ユリエルの言い分も聞かないと不公平だ。今日は取り敢えず、そのキズをどうにかしなさい。もちろん、明日の取引先に会う予定は中止だ。お前の処遇については後日言い渡す。それまで部屋で大人しくしていること」
これにて閉廷! とでも言うように、アーロンはその場を解散させた。
キースに連れられて部屋を出るときのエルは、手を縛られていることもあって、まるで本物の被告人のようだった。
◆◆◆
一方、自室にてクリスティーヌはエルの事を心配していた。
家に帰ってきたときの彼は泥だらけで、顔も怪我をしていたため、強盗にでもあったのかと最初は皆が心配した。
しかし、後々の事もあるので黙っている訳にもいかず、キースが本当の事をアーロンたちに話したのだ。
すると、先程のサロンに事情を聞くため、エルは連れて行かれた。
もちろん、クリスティーヌはエルは悪くないと弁明した。挑発したユリエルの方が悪いのだと。
しかし、ユリエルの方の言い分も聞かない訳にはいかないし、今はエルだけから話を聞きたいと彼女はサロンに入れて貰えなかったのだ。
……あれから一時間近く経つけど、エルは大丈夫なのかしら。ユリエルも手加減なしでエルの事を殴っていたようだし、彼の体調が心配だわ……
クリスティーヌはそう思うと、彼の様子をこっそり確認しにサロンへ行くことにした。
しかし、サロンに来たものの、そこはすでに人は居なかった。正確に言うと、後片付けをしている女中が一人いるだけだった。
彼女にどこにエルは言ったのかと聞くと、自室に戻されたという。
そして、クリスティーヌはエルの部屋へと向かった。
彼の部屋の前に行くと、少し開いた扉から光が漏れていた。中からは楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「痛いって。もう少し優しくしてよ」
「動いちゃダメ。ダメですったら……それにもう、うふふふ、そこは触っちゃだめです」
「えー、いいでしょ。俺は今弱ってるんだから」
「イヤ! いけません! ほら、もっとキズを良く見せてください」
……コホン。
クリスティーヌがワザと咳払いすると、長椅子に座っていたエルと、傷の手当てを行なっていた若い女中は気まずそうにした。
「ご苦労様。道具はそのままで構わないわ。後は私がやります。もう休んでちょうだい」
クリスティーヌが女中にそう言うと、女中は失礼しますと言って、足早にエルの部屋を出て行った。
ふぅと一呼吸すると、クリスティーヌはエルの横に座わり、女中が途中まで行っていた傷の手当てをしようと布を手に取った。
だが、エルは彼女の手を押さえ、首を横に振る。
「そんな事しなくていいよ! 自分でも出来るし。それに……クリスティーヌの手が汚れる」
「いいえ。だめよ。私の夫があなたに怪我をさせたんだもの。これくらいやらせてちょうだい」
そう言って、彼女はエルの制止を振り切り、彼の口元の傷に布を当てた。
「せっかく綺麗な顔なのに。傷あとになってしまったら台無しだわ」
「このくらいだったら、かすり傷みたいなもんだよ」
「そんな事ないわよ、きちんと手当てしないと。あとで酷くなったら大変。それに、私は感謝してるから、あなたにそれを伝えたかったの」
彼女はクスリと笑う。
感謝してる……? エルはキョトンとした顔をした。
「彼の背中に蹴りを入れてくれたとき、正直凄くすっきりしたの。私があの人に言えなかったぶんの代わりとでもいうのかしらね。バカにするのもいい加減にしてって。それにしても、普段はクールぶってる彼のあの時の顔ったら……ふふふ」
クリスティーヌは、蹴られた時に何が起きたんだと驚いていたユリエルの顔を浮かべ、思い出し笑いをした。エルもつられて笑い出す。
「あぁ、可笑しい。ところで明日、お義父様はあの人に事情を聞かれると思うの。あの人が何を言うかわからないけど、私も負けないように貴方の弁護に努めるわ」
クリスティーヌは自分の士気を高めるようにコクコクと頷く。そして、手当てに使った用具を片付けると、部屋の扉の方へと向かった。
「……なんか、心配かけた上に傷の手当てまでして貰って悪かったな」
エルはクリスティーヌを部屋の外まで見送ると、少し照れているようにそう言った。
「いいえ。本当に気にしないで。それより、痛みもあるだろうし、今日はゆっくり休んでちょうだい」
「わかった。おやすみ」
心配してくれてありがとうという意味も込めて、エルは微笑む。
「おやすみなさい」
彼に軽く手を振ると、クリスティーヌはパタンと静かに扉を閉めた。




