46.最期の夜
ユリエルは腹を立てながら、夜のパリの街を歩いていた。
彼は弟のエルと派手に喧嘩をしたあと、傷だらけな上に格好もボロボロだったため、舞踏会には結局参加をすることなく、愛人のイザベラ宅へ戻ったのだ。
そして、傷の手当てを受けた後、イザベラはこう言った。
「あなたのもう一人の弟さん、凄く威勢がいいのね。驚いたわ。さぁ、傷の手当ては済んだし、もう帰ってちょうだい」
ユリエルはあの家には帰りたくないと言った。あそこにはエルがいるのだからと。しかし、彼女は彼を労わるどころか、ツンとした表情をした。
「だめよ。きっと、今頃あの弟さんはあなたのお父様に言い訳をしてるはず。だから、あなたも自分が悪いと思っていないなら、反論しにいかないと。それに、今夜はせっかくの舞踏会の予定が台無しになって私は機嫌が悪いの。さあ、今すぐにお帰りになって!」
そう言って、彼女はユリエルの事を家から追い出した。
そんな訳で、彼は他の愛人宅に行くのにも決まりが悪く、プライドもあって従者を付けず一人で彷徨っていたのだが、ある通りまで出るとハタと足を止めた。
人の出入りが多く、彼らを照らす灯りもまるで昼間のように明るい。ここはパリの中でも最も活気のある地区だ。
不愉快な気持ちのままでいるのもシャクだと思ったのか、怒りを紛らわせるために酒を飲もうと、彼は回廊が特徴的なこの場所、パレ・ロワイヤルへと立ち寄った。
中に入ってみると、そこはより一層ガヤガヤと賑わっていた。
店の中で歌って、踊っているものもいれば、何やらカフェの一角でコソコソと何かを話し合っている若い男たちもいる。
ユリエルはある酒場のテラス席に着くと、一先ずワインを頼んだ。
注文が来るまでのあいだ、周りの人々をより注意深く見てみると、先ほどの連中に加えて、回廊の柱のそばで何やら妖しい雰囲気の男女が数組いることに彼は気づいた。
というのも、ここは娼婦の溜まり場とも呼ばれており、相手を見つけるのに便利な場所でもあったのだ。
そんな風に暇つぶしをしていると、いつのまにか給仕がワインを置いていった。
グラスにそれを注ぎ、一気に飲み干したあと、彼は以前イザベラが言ったさり気ない言葉をふと思い出した。
パレ・ロワイヤルでエルらしき人物を見かけた者もいると。
エルは体質上、通常の食べ物は受け入れられない。だから、酒場や食堂にくる理由が見当たらない。
もし、ここに来た他の理由があるとするならばそれは……女か。
あんな風に説教をした上、自分に恥をかかせたくせに、そういうアイツはこんな所で女を買っているなんて……と思ったユリエルはますます怒りに震えた。
怒りに任せて酒を飲んでいると、彼は飲みすぎたのか頭がくらくらするのを感じた。酔いが少し回っているようだ。
また、酔ったおかげで怒りも大夫落ち着き、今はベッドで横になりたい気分になっていた。人肌も恋しい。
そして、ちょうどここにはおあつらえ向きの相手が沢山いる。向こうも相手を探しているのか、先ほどから回廊越しにユリエルの事をチラチラと見てくる。
さて、自分の欲を満たすのに相応しいのはどの女だろうか……とユリエルが女たちを品定めしていると、少し離れた柱の間から黒い服を着た一組の男女が出てきた。
彼らはなんの変哲もない男女だったが、男が女の方に顔を向けたとき、ユリエルは男の顔に目が釘付けになった。
そんな、まさか……ユリエルは驚愕した。
ただの見間違えか? いや、自分が間違えるはずがない。
彼の顔をもっとよく確認しなくては! と酔ったことも忘れて代金を支払うと、すぐさま店を飛び出した。
◆◆◆
大通りに出た男女は馬車に乗り込もうとしていた。
「待ってくれ!」
ユリエルは男の方に声をかけた。男は女の方に一言何かをいうと、女だけを馬車にのせて出発させた。
息を切らしながら、ユリエルは男の方に近づく。やはりそうだ。エルとは瓜二つだが、雰囲気でエルではないとわかると彼は思った。
佇んでいる男に対して
「なぜ、どうして急にいなくなったりしたんだ。私がお前の事をどれだけ心配していたと思う? 無事でよかった。ああ、私の大切なラウル!」
彼はそう言って愛する弟を力強くギュッと抱きしめた。夜のせいか彼の体は少し冷たく感じた。
「……久しぶりだね、兄様。僕はこの通り元気だから大丈夫だよ。ところで、その格好はどうしたの?」
ラウルはいきなり抱きしめられた事に驚きつつも、彼のボロボロになった服装を指した。
「あぁ、これか。これはちょっとしたトラブルがあっただけだ。それよりも、今までどこでどうしていたのか話を聞かせてくれ」
さっきまであった嫌な事は忘れ、上機嫌になったユリエルは、抱きしめていた体制から片手を離すと、代わりに彼の肩をガシッと抱いた。
パレ・ロワイヤル周辺は、久しぶりの再会を喜ぶにはうるさかったので、彼らはあまり人気のないセーヌ川沿いの方へと移動した。
ちょうど満月の日だったこともあり、ゆらゆらと揺られる水面に月光が反射し、夜のパリを美しく見せている。
「少し、雰囲気が変わったんじゃないか?」
ユリエルはラウルにそう尋ねた。以前のラウルはおどおどした気の弱そうな少年だった。
だが、今の彼は大人しい雰囲気はありつつも、気が弱そうという感じではない。どちらかと言うと、落ち着いているという言葉の方が相応しかった。
「まぁ、あの頃から年月がある程度経ったからじゃないかな」
そう言うと、ラウルは少し微笑んだ。
「それで、今まで一体どうやって暮らして居たんだ。その様子だと、食うには困って居ないようだが……」
ラウルを見る限り、体型もやせ細っている訳でもないし、服も粗末なものを着ているようにも思えなかった。
ただ、以前は黒い服をあまり着なかったのに、今はそれを選んでいることに、ユリエルは少し不思議に思った。
「そうだね。まず、何から話そうかな」
何かを思い出すようにして、ラウルは上を向いた。
ラウルによればエルの家を出た後、どこかの村へ彷徨い出たらしい。
そして、その村で彼は病気にかかってしまったのだが、親切な女性が彼を助けてくれた。
彼女は大変な資産家で、女ではあるが世界中を旅しているという。彼女から旅の話を聞き、一緒について行きたくなったのだと語った。
「色んな人に恵まれている兄様にはわからないだろうけど、僕は今までいた世界が僕のことを歓迎していないと感じていたんだ。誰も僕の事を必要としていないって。だから、僕がまだ知らない、向こうも僕を知らないところへ行ってみたくなった」
お陰で今は楽しいよとでも言うように、ラウルは微笑んだ。
そんな……とユリエルは呟く。
彼はラウルの事をとても切なく思えた。
どうして、同じ兄弟なのにお前はそんなに苦悩するのだろうか。そして、世間は知らなくても、お前の良いところを私は沢山知っているのに。
「だから、お前を歓迎していないと思う世界の中にも、お前を必要としている者は必ずいる。その哀れな必要としている者のために、どうか戻って来て欲しい」
そう言うと、彼は再びラウルをギュッと抱きしめた。
「ところで兄様。クリスティーヌやエルはどうしてるの?」
ユリエルに抱きしめられたまま、ラウルは尋ねた。するとユリエルは彼から離れて
「あぁ、彼女たちは……」
と伯爵家であった事を話した。
「ふふっ、エルらしいね」
ラウルは懐かしそうな顔をした。
「全くだ。どうして、お前とアイツはあんなに性格が違うのか不思議で仕方がない」
そして、私の弟はラウルお前一人だけだと思う事にしたとユリエルは続けて言った。
「事情はわかったよ。兄様も相変わらずといったところかな。ところで、お願いなんだけど、僕の目をよく見てくれないかな?」
ラウルは指で自分の目をさしながら微笑むと、ユリエルにそうするよう指示をした。
不思議な事を言うなと思いながら、ユリエルは言われた通り彼の目を見る。
すると、突然、目の前から明かりが消されたように、ユリエルの視界は真っ暗になった。
◆◆◆
ユリエルは気がつくと夜の庭園にいた。目の前には女が立っている。
「嘘だろう。嘘だって言ってくれ!」
ユリエルは女に対して叫んだ。
「嘘じゃないわ。私とあなたの関係はここでもうお終い。それに、アーロンにあなたの縁談を早く進めて貰うよう頼んだのは、何を隠そうこの私。安心して。彼はあなたが気にいるように、見目麗しい女性を中心に選んでくれるはずよ」
女はその場を去ろうとするが、ユリエルは彼女の華奢な腕をつかみ、なお食い下がった。
「待て! 私は本気であなたの事を愛している。だから……」
手に持っている小箱をギュッと彼は握りしめた。だが、彼女の方はふっと笑ってこう言った。
「やめてよ。ここまで言わせないとわからないの? あなたとは単なる遊び。第一に、あなたよりもずっと年上の女が本気になるはずがないでしょう。私の事はさっさと忘れて、その情熱的な愛を注ぐのは他の女にしなさい!」
彼女が去った後、ユリエルは声にならない声を上げて叫んだ。
どうしてだ、なぜだ。自分はあなた以外の女性は考えられないのに。嘘だと言ってくれ、ミシュリーヌ……と。
◆◆◆
ユリエルがハッと目を覚すと、彼は気持ちの悪い汗をかきながら地面に座り込んでいた。
そして、ここはどこだ? と思いながら目を動かすと、自分は橋の下にいるのだということがわかった。
「気分はどう?」
なぜかニヤニヤした表情をしながら、彼の側で立っている状態のラウルがそう聞いてきた。
「最悪だ……」
ユリエルは酔いが後から効いてきたせいで、この場で夢をみていたのだろうかと思っていた。
彼は立ち上がろうとするが、不思議と力が入らない。むしろ、強い力で押さえつけられているような感覚だった。
「てっきりクリスティーヌとは仲直りしたのかと思ったけど……相変わらず、彼女の事を軽んじてるんだね、兄様」
ラウルはニヤニヤし続けながらそう言った。
ユリエルは彼が皮肉を言うなんて、まるで別人のようだと驚いた表情で彼を見つめる。
「今ね、兄様に僕から最期のプレゼントをあげたんだ。兄様が心の中で一番恐れている事を夢にしてね!」
まるで子供がはしゃぐように、ラウルはとびっきりの笑顔を作った。
「ラウルお前は一体……? どういうつもりだ?!」
すると、ラウルは一本の太いナイフを取り出して彼に近づいた。
「何を考えているんだ?!」
その場を逃げようとしても、ユリエルの手足はピクリとも動かない。ラウルはユリエルの顔にジリジリと近づいてこう言った。
「今更僕に話しかけた事を後悔しても遅いよ。ちょうど腹ペコだったんだ。それに、少し興味があったんだよね。肉親の味っていうのを」
「……肉親の味だと? 何を言ってるんだ?! 正気なのか!」
正気だよとラウルは笑顔のまま答えた。
「大丈夫、すぐ済ますから。少し痛みは感じるかもしれないけど。でも、それさえ終われば、兄様はずっと抱えていた苦しみから解放される」
「苦しみからの解放だと……お前に私の何が分かるというんだ!」
「ふふっ、確かに昔の僕ならわからなかった。でも、今の僕には、兄様が本当は虚無を抱えて生きていたことが手に取るようにわかるんだ。自分の弱さを隠すために、女性達を慰みものにしていることもね」
「……!!」
ずっと奥深くに隠していた本心に触れられ、ユリエルは絶句した。
「さあ。僕を受け入れるんだ。そうすれば、もう僕の見せた悪夢に囚われることなく、安らかに永遠の眠りにつけるよ」
そう言って、ラウルはナイフの先をユリエルの頬から首筋へとなぞらせる。
彼がこの後、何をするのか想像が浮かんだユリエルは顔色を真っ青にしながら、次の声を叫ぼうとした。
やめろ! やめてくれ!
だが、ユリエルがその言葉を発するよりも前に、ラウルは何のためらいもなく太いナイフを彼の首に突き立てた。
そして、首からゆっくりとナイフを引き離すと、まるで亀裂から湧き出る水のように、彼の首から暖かい血が流れ始め、ヒュー、ヒューとユリエルの声にならない声が橋の下で響いた。
その様子に、ラウルは美しい宝石でも見つめるかのように、うっとりとした表情を浮かべている。
……あぁ、何度見てもこの光景は素晴らしい。だが、この命の泉が枯れ果てる前に事を為さなくては……
と彼は心の中で呟くと、抵抗しない兄の体を片腕で支え、もう片方の腕で首元を倒して傷口を彼の前に晒した。
それからそこに自らの"歯"を立てないよう慎重深く口を当てると、美味しいご馳走を堪能するかのように、ゆっくりと兄の味を確かめはじめた。




