42.楽しい時間
エルがパリの屋敷に来てから、早くも数週間が過ぎようとしていた。
彼の目的はクリスティーヌを励ます事だ。だが、実際出てきたのは良いが、彼は特に何をしようと言うのは決めていなかった。
しかし、何をすべきかとそんな事を考える以前に驚いたのは、到着して早々に差し出された机の上にこんもりと積まれた書類の山だった。
「父上は鬼か! これは手伝うっていうレベルじゃない!」
必死に手を動かしつつも、これを時間内に終わらせろ、なんて本当に何考えてるんだとエルは嘆く。
そんな様子を見ながら、次々と彼に書類を渡すキースはこう言った。
「仕方ないじゃないか。エルが自ら仕事を手伝いたいなんて言うんだもの」
「だからって、配慮ってものがあるだろう! これじゃあ一体いつ終わるか……」
「まぁまぁ。でも、だんな様は喜んでたよ。エルも遂にこっちに興味を持ったのかって」
「そりゃ、多少の興味はあったけどさ! あー、もう! ラチがあかない。ちょっと気分転換」
エルはハァと大きくため息をつくとペンを置いた。そわそわし始め席を立ち、今にもどこかに行ってしまいそうな様子だ。
だが、そんな彼の癖を知っているキースはすかさず
「……期待してるんじゃないかな?」
と軽く微笑みながらボソッと呟いた。
「ん? 何か言ったか?」
「旦那様は君に期待してるんじゃないかなって言ったんだ。以前、君が提案した、田舎の牧場で育ててる羊の毛で作った製品があるでしょ? あれ、なかなかの評判らしいよ。」
「ふーん……」
エルは再び席につき直す。
「だから、一見するとただの事務処理に見えるかもしれないけど、旦那様からするとここから何か読み取ってほしいものがあるのかもしれない。君も近い将来、旦那様の片腕となって活躍してくれるように」
将来的に活躍して欲しい。その言葉を聞くと、エルは再びふーんと言って、無関心そうな素振りをした。
しかし、ぶつくさ言うのはやめ、書類の処理スピードを速めるのだった。
その様な訳で、エルは暫く仕事の手伝いに追われていたのだが、やっと暇になる時間ができたようだ。
屋敷に閉じこもっていたぶん、体を動かそうと今日は馬に乗って庭を走り周っている。すると、やはり小高い場所で絵を描いていると思われるクリスティーヌを発見した。
今日の彼女はいつものドレスとは異なり、首元にフリルだけがついた、シンプルな黒のドレスを着ている。
彼女の背後に回ってみると、スケッチの段階は終わり、今はキャンバスに色を塗っているようだ。
「クリスティーヌ!」
少し離れた場所から彼は彼女に声をかけた。彼女は振り返ると微笑んで彼に手を振った。
エルは馬から降り、彼女の元に近づいて絵の方に目線を送る。
「この前よりも大分進んだね。もうすぐ完成かな?」
この前の駆けっこは、結局エルが勝ったので絵を見せてもらったのだが、その時はまだ色は塗られる前だった。
「うーん、もうちょっとという所ね。これのあとに他の色を重ねて空気感を出していくのよ」
へぇ……とエルは感嘆の声を漏らした。
自分は絵心がないから、クリスティーヌの行なっている作業はまるで魔法のようだと思ったのだ。
「でも、色ばかり塗っていたから、ちょっと飽きてしまったところ。気分転換も兼ねて、次は本でも読もうかしらと思っていたの」
そう言って、彼女が撤収するための準備を始めようとすると、エルはそういえば……と彼女に話しかけた。
「最近、芝居を観に行ってないんじゃないか? 前は結構行っていたと思うんだけど」
すると、彼女は首を振って、ここのところは芝居に全く行かなくなったと返した。
「興味がない訳ではないけれど……仲の良いお友達も最近は子供ができたりして、あまり一緒に行けなくなったのよ。一人で行く訳にもいかないから…」
彼女は笑顔を作っていたものの、やはりどこか寂しそうだ。
そんな彼女の様子を見て、エルはよし! と何か閃いた様子を示した。
「わかった。それじゃあ、久しぶりに芝居を観にいこう! 俺も仕事の手伝いばかりで遊びに行きたかったところだし。手配とかは俺がするから!」
クリスティーヌは目をパチパチと瞬く。
「それは全然構わないけど……いつ?」
「今晩!」
「今晩ですって?! そんな急な……」
「だって、どうせ予定もないんでしょ? それに俺は今すぐにでも行きたい!」
ちょ、ちょっと! と突然の提案に驚くクリスティーヌをよそに、エルは構わず、じゃあよろしく! と言って馬に乗り去っていった。
……もう、相変わらず。なんて強引なのかしら!……
彼女は少し呆れ気味に思った。しかし、芝居なんて久しぶりだと同時に楽しみに思うのだった。
それからも、エルは彼女に対して芝居を観に行こうと度々誘った。反対に、彼女の方もこれを観に行きたいからどうかと誘った。
というのも、彼も彼女もあまり難しい話より、わかりやすい大衆演劇のほうが好きただったため意見が一致し易かったのだ。
ある時は喜劇で大笑いしたり、冒険活劇でハラハラしたり、またある時は感動する話で二人で涙を流した。
またある時は、彼は舞踏会に行きたいと言い出した。
もちろん、クリスティーヌを誘って。しかし、芝居の時とは打って変わり、彼女は行くことに対して難色を示した。
「踊りが嫌いなの?」
エルはそう思って彼女に聞いた。だが、彼女の本当の理由は違うようだ。
「もともと踊りが得意でないと言うのもあったけど……それよりも、噂好きな人たちが苦手なのよ」
彼女によると、ユリエルと婚約した直後くらいから、彼女の事を見るたびにコソコソしてチラチラ見てくる女達が増えたと言う。
気になって、一度仲の良い女友達に聞いてみたところ、彼女はこのように教えてくれた。
「言いにくいけど……あなたは純粋さをアピールして、まんまとユリエル様の家に取り入ったって。お家のことも引き合いに出して、同情を誘ったんだろうって噂されてるのよ」
もちろん、私はそんな事思ってないし、ユリエル様があなたを気に入られて婚約を決めたと知っているわ、と女友達はフォローをしてくれた。
しかし、裏ではそんな風に思われているのかと、クリスティーヌは大変なショックを受けた。
また、影で言われている分にはまだマシな方で、中でも気が強い女たちはもっと陰湿だった。
彼女がユリエルと一緒にいる時は、さも彼女と仲が良いようにしてくるのだが、彼が離れた途端、彼女のドレスや髪型を嫌みたらしくバカにしてくるのだった。
あなたみたいな地味でダサい女は彼に似合わない。彼の影にずっと隠れてればいいのに。いえ、影にいる事すら図々しいと。
「それはつまり、兄さんに相手されなかった憐れな女達の嫉妬じゃないか」
彼女の話を聞いたあと、エルはそう結論づけた。
「ええ。そう思ってやり過ごすのが大人の女性だと思う。でも、やっぱり、そう言うことをされるのは辛いのよ……」
そういう理由だから私は行かない。誰か別の女性を誘って。と言って彼女はその場を離れようとした。しかし、エルは彼女の手を掴むとこう言った。
「まぁ、待ちなよ。そういう事なら、そんな女達がいない所、いや、クリスティーヌだとわからない所に行こう」
◆◆◆
「なんて素敵なお屋敷なのかしら!」
クリスティーヌは目的地についた途端、その言葉を放った。
エルはクリスティーヌをある屋敷に連れて行った。そこは、アーロンの知り合いでヴェネツィア出身の商人の家だった。
異国情緒ある作りの屋敷ももちろんだが、それ以上に素晴らしかったのは庭の方だ。屋敷の周りをぐるりと囲むように堀が彫られており、所々にアーチ型の橋が架けられている。
また、その堀の中には、ゴンドラが浮かんでおり、船頭が陽気に唄いながら乗っている人々を楽しませていた。
暗闇を煌々と照らすランプの光もその場をよりロマンティックなものへと見せており、ここはまるで運河に浮かぶ街・ヴェネツィアの一角のようだった。
「さあ、ここに入るにはこれをつけて」
エルはクリスティーヌに白い仮面を手渡した。それは普段の仮面舞踏会でつける目を隠すだけのマスクとは異なり、顔を全面覆うタイプのものだった。
目の周りには、何本もの銀の曲線を描いた細工がなされている。
「わぁ! 凄い。本格的ね。ますますヴェネツィアに来たみたい!」
「だろ。それに、この形であれば君だとわかりにくい。さあ、中に入ろう」
そう言って、エルは黄金色の仮面をつけた。彼らの他にも、続々と仮面をつけた人々が集まっている。その様子は、少し不気味にも見えるが、どこか神秘さも感じさせた。
結局、エルたちはその晩、明け方まで踊り明かした。
仮面をつけている事で、誰が誰だと思わなくて済んだし、逆に思われる事もなさそうだったので、クリスティーヌは開放的な気分になった。
そして、彼女はこんな風に楽しく踊れるのは久しぶりだと感じていた。
というのも、エルが来るまではまるで感情が死んだような状態で、楽しい事をしたとしても本気で楽しいとはあまり思えなかったからだ。
だが、今は、何て楽しいのだろう。どうして今までこの事を忘れてしまっていたのだろうか。そして、楽しいと素直に思えること自体に嬉しさを感じていた。
帰りの馬車の中では、すっかり疲れたのかエルは壁にもたれかかるようにして居眠りをしている。
眩しい朝日が彼の美しい顔を照らしているが、そのことにも全く気がついていない様子だ。
その彼の無防備さに、クリスティーヌは可愛らしさを感じた。そして、心の中で素敵な時間をありがとうと呟くと彼女も瞼を閉じるのだった。




