41.わがまま
エルは部屋で何やらガサゴソしているようだ。服やら小物やらを床に置いた大きな箱へ詰めている。その様子を見て、キースは嫌な予感がした。
コンコンと開きっぱなしのドアをノックすると
「エル、さっきから何してるの?」
若干渋い顔をしながら、キースは彼に向かってそう声をかけた。すると、彼の声に気がついたエルは手を動かすのを止めこう言った。
「あぁ、キース。ちょうど良いところに来た。お前も準備しろ」
そして、止めていた手を再び動かすと、持っていた物を箱の中に詰め始めた。
「いや、準備って言われても……一体何を?」
「服とか、日用品とか……当分向こうにいるのに必要なものを揃える! 準備が終わったら馬車の用意を」
「え、ちょっと待って。当分向こうって……どこに行くつもりなの?」
「屋敷だよ。パリの! ついでに向かう事を今すぐ連絡してくれ」
まくし立てるようにエルがそう依頼すると、はぁ?! と大きな声をキースは上げた。
◆◆◆
一通りの準備を終えたあと、キース、ローズ、そしてフランクを居間に集めたエルは、テーブルを囲む彼らにパリの屋敷へ向かう理由を話し始めた。
「この前、クリスティーヌがここへ来たけれど……元気が無さそうだったから、励ましに行きたいんだ」
彼からこの言葉を聞いたローズとフランクは、どことなく予想していたのかやっぱりなという表情をした。しかし、キースだけは異論を唱える。
「あのさ、エル。君は体質の事もあって、ラウル様に会わなかったじゃないか。それに、パリの屋敷に戻っても、あの事を思い出してパニックにならない? 大丈夫?」
彼は不安そうにエルの事を見つめた。その問いに対して
「根拠を求められると困るけど、もう大丈夫だと思う。だいぶ時間も経ってるし。それにさ、一番気にしてるのは……また、誰かを襲わないかってことだろ?」
とエルは言って、チラリとキースを見つめ返す。口にはしなかったが、キースはああ、その通りだという顔をした。
「その点に関しては、みんなと暮らしてるけど、未だに誰も襲ってないじゃないか。というか、襲いたいっていう衝動すら駆られたことがない。だから、心配はないと思う」
また、エルはこの事は彼らに話さなかったが、女性と一晩を過ごしているときも、いくら興奮が達したと言っても、彼女たちの血を飲みたいという欲には全く駆られなかったのだ。
それに……と彼は続ける。
「俺は母様の最期のお願いも、ラウルのお願いも聞いてあげられなかった。だから、クリスティーヌからは別に何も言われていないけど、ここで何もしなかったら、また後悔するような気がして仕方がないんだ。だから、今は自分の直感を信じて行動したい……自分勝手でごめんなさい」
そう言って、エルは深く頭を下げた。こんな謝り方をしたのは初めてだった。
エルは本気なのだと、キースらは顔を見合わせた。そして、三人とも頷くと、フランクがエルに頭をあげるように言った。
「わかったよ、エル。ただし、これは我々からのお願いだ。だんな様たちの言うことは、きちんと守ってほしい。そして、どうか、クリスティーヌ様を元気付けてあげてくれ」
彼の言葉に従ってエルは頭をあげると、ありがとうと言って三人を抱きしめた。
◆◆◆
明るい青色が広がる空の下。クリスティーヌはその日も庭の一角で模写をしていた。
数年前、ザラキエルに絵を教えてもらってから、現在では絵を描く事が彼女の日課の一部となっていたのだ。
今は、屋敷が全体的に見える位置から、椅子に座ってスケッチを取っている。
もちろん、プロの画家に比べたら素人然としていたが、経験が浅いものにしては上手な方だった。
だが、それは彼女がセンスがあったというよりも、絵画に裂ける時間が多いことの賜物だった。つまり、孤独な時間が多い事を意味していた。
熱心にキャンバスに集中していると、ふと、屋敷の玄関口にむかって馬車がやってくるのが見えた。御者がドアをノックすると、男の使用人がドアを開けて出迎えの準備をしている。
こんな時間に誰だろう。お義父様かおじ様たちの来客だろうか。しかし、彼女は自分には関係のない事だと、すぐにキャンバスへ目を戻すとそのまま模写を続けた。
◆◆◆
玄関のホールでは、大勢の使用人たちが到着した彼の事を出迎えていた。
使用人たちを代表して、いつも通りばあやが一番に出迎える。
「お帰りなさいませ……あらあら、なんとまぁ!」
彼女は馬車から降りて来た彼の姿を見て、驚いて腰を抜かしそうになっていた。他の女中たち、特に若い女中たちは口に手を当てたり、頬を赤らめたりしている。
「久しぶりだね。ばあやさん」
そう言って、彼は羽のついた豪華な黒い帽子を脱いだ。
「本当、なんてことでございましょう! あんなに小さかったのに……あまりに、見違えてしまったので、てっきりどこかの二枚目俳優でもいらしたのではないかと思いましたよ!」
彼はそんな大袈裟なと、少し苦笑いを浮かべたが、悪い気はしていないようだ。
「思っていたよりも、早く到着したようだな」
そう言いながら、上階よりアーロンが降りてきた。
「それにしても、なかなか様になっているじゃないか、エル」
アーロンは、馬車から降りてきた息子の姿を見て珍しく褒めた。
今日のエルは、先程の豪華な帽子に加え、ビロードで仕立てられた深緑のコートとキュロットを着用している。
長い髪の毛も同色のリボンでまとめていた。
コートの中のジレは金の刺繍が施されており、そのデザインは東洋からインスピレーションを受けた精緻な柄のようだ。
ジャボ付きのシャツも、繊細なレースがアクセントとなっている。詳しいものが見れば、そのレースには上質な絹糸が使われているのがわかった。
「父上。ご無沙汰しております」
エルはワザとそのように畏まって言ってみせた。
というのも、今回帰って来た一番の目的はクリスティーヌを励ます事だが、それだと少々理由に欠けると思ったので、アーロンにはもっと間近で彼の仕事を見たくなった。だから、パリの屋敷にしばらく居させて欲しいと伝えたのだ。
軽く会話を交わした後
「ところで、クリスティーヌはどこへ?」
とエルはアーロンに訪ねた。
彼がホールの隅々を見回しても、彼女はいない事に気付いたのだ。驚かせたかったので、あえて自分が来る事を伝えていなかったというのもあるが。
「彼女だったらあそこだ」
そう言ってアーロンは、窓ごしに庭の少し小高くなっている場所を指し示した。
◆◆◆
キリも良いからそろそろ休憩しようかと、クリスティーヌはスケッチを止め、椅子の横に置いておいたバスケットを開けた。
彼女は汚れてしまった手を布巾で綺麗にすると、紙に包まれたものを取り出した。
紙を開くと、葉物とチーズ、そしてハムが挟まったバケットが入っている。これは彼女のお気に入りの組み合わせだ。
彼女は最近、ここで昼食を取る事を好んでいた。
一人ぼっちで広々とした食堂で豪華な食事を取るよりも、開放感のあるここの方が変に気が重いと感じなくて済むし、素晴らしい景色も相まってずっと贅沢に感じられたのだ。
それに、このフォークとナイフを使わない簡素な食事も好きだった。側からみれば、はしたないと思われるかもしれないが、煩わしさを感じさせないため、とても気が楽だったからだ。
一口含んでその味を堪能していると、キャンバスに自分ではない誰かの影が写り込んだ。
「へぇ。話に聞いてたけど、本当に絵を描いてたんだ」
その声に彼女は驚いて、後ろを振り返る。そこには農作作業着ではなく、着飾ったエルがいた。
「っん! やだ、エルじゃない! どうしてここに?!」
思わずそう声が出てしまった彼女は、口元に手を添えると口に含んでいたものを勢いよく飲み込み、食べかけのバケットをバスケットの中へと戻した。
「いやぁ、この前クリスティーヌに会ったら、久しぶりにパリの街を見たくなってしまって。父上の仕事を手伝う代わりに、しばらくここにいる事にしたんだ」
ははっと笑いながらそう言うと、彼は片方の手で軽く頭をかいた。
「そう。でも、体調は大丈夫なの? ずっとこちらに戻って来ていなかったのに……」
彼女が彼の事を心配するのは最もだ。
一瞬、彼は言葉に詰まったが、最近はだいぶ安定してるから大丈夫だと彼女に伝えた。
「それより、最近はずっとこうしているの?」
エルは彼女が外で模写をしている事に、内心驚きを感じていた。彼女もラウル同様、外よりも内が好きな性格のため、自室にいると思ったからだ。
「ええ、そうよ。前はお部屋に篭っていることが多かったけど、最近は絵を描くために、庭に出ている事が多いの」
そうなんだと言って、エルはクリスティーヌの絵をもっと見ようとキャンバスに目を近づけた。
だが、彼女はイーゼルから絵を取ると、裏返しにして自分の胸元で隠した。
「何で隠すんだよ。見せてくれたっていいじゃないか」
エルは軽く笑いながらそう言った。
「ふふっ、だめ! あなたのおじ様に比べたら、私の絵なんてまだまだよ。恥ずかしい!」
彼女は絵を持ちながら、少し走ってその場を離れた。
「わかったよ。じゃあ、あそこの木まで競争だ」
エルはクリスティーヌの背後にある、一本の大きな木を指差す。
「俺が先に着いたら、その絵を見せてもらう。じゃあ始め!」
「え、え、ちょっと! んもうっ!」
そう言いつつも、クリスティーヌも木を目指して走り始めた。そして、楽しそうな二人の笑い声がその場にこだました。




