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38.baptism of red

 聴き覚えのあるバイオリンやチェロの音色が耳の中に届く。時に早く、時に遅く、調和のとれた音色だ。それに続く、人々の話し声と衣擦れの音……


 彼が目を開けると、ぼんやりとだが明るい光とさまざまな色合いの動く何かが見えた。さらに目を凝らしてよく見ると、その動く何かは沢山の着飾った人々だとわかった。

 ある者たちは優雅に舞い、ある者たちは楽しそうに談笑している。そしてまたある者達は、そちらの方が楽しみだったのか、テーブルに並べられた料理をせっせと摘み、舌鼓を打っている。


 さらに、上を見れば大きなシャンデリアが飾られており、先程から聴こえてくる優雅な弦楽器の音色は室内楽団のものだとわかった。

 見慣れたホールの光景。ここが何処だか彼もようやく理解したようだ。


 ……あぁ、何時もの舞踏会か……

 ラウルは退屈そうにふわぁと大きなあくびをした。今日は特につまらなかったようで、壁に寄りかかったまま、本当に居眠りをしてしまったらしい。

 彼は今日も誰も誘う事はなく、白い壁に飾られたオブジェと化していた。

 きっと今日も立ちっぱなしのまま、宴が終わるのを待つのだろう。ラウルがそう思って石松模様の床に目を落とした時だった。


 フッと煌々と照らされていた明かりが突如消された。何が起こったんだ? と彼が驚いた矢先、ある女性を一筋の光が照らし始めた。

 光は彼女の豊かなブロンドの髪にあたり、キラキラと輝かせることで彼女の顔をより白く、そして美しくみせている。

 そして彼女はラウルの方に向かってゆっくりと人の中を歩き始めると、彼の前で立ち止まり、貴婦人らしく上品に微笑んでこう言った。

「私と踊っていただけますか」


 その提案に、ラウルは心臓がはち切るのではないかと心配になるくらい鼓動が早まった。あぁ、こんな日が来るなんて。なんて今日は素晴らしい日なのだろう! 照明が落とされたホールもいつのまにか明るくなっている。

 彼は歩んできた人生の中で、一番恵まれた瞬間だと感じていた。

「もちろんだよ! ようやく許してくれたんだね……あぁ、僕はなんて幸せ者なんだろう。ぜひお相手をクリスティーヌ……」


 そう言って、ラウルが彼女の手を取ろうとした時だった。

 サッと一人の男が現れ、ラウルの視界を遮った。

 その男はラウルよりも背丈が高く、体もがっちりとしており、カラスの羽の様に黒く艶やかな髪は、大人の男の色香を漂わせている。

 そして、彼は貴婦人達を惑わす、いつもの低く落ち着いた声でラウルに向かってこう言った。

「私の妻に何か用か? ラウル」


 目の前に立ちはだかった男。それはラウルにとって尊敬する兄、ユリエルだった。

 ユリエルはその言葉の後、堂々とクリスティーヌの手を取ると、サッと彼女を自分の身体によせて華奢な肩を抱きしめた。

「えっ……」

 思わずラウルはそう言葉を漏らした。すると、ユリエルの腕に抱かれているクリスティーヌがクスクスと彼に向かって笑い始めた。

「ふふっ、嫌ね。何を勘違いしていたのかしら。私が愛しているのは紛れもなく、夫のユリエルだと言うのに」

 彼女はユリエルの厚い胸に手をおくと、うっとりと熱のこもった目で彼の事を見つめた。

「まさか、私があなたと踊りたいとお思いになったの?」

 そんなことはありえないという言葉を続けるように、彼女は再びクスクスと笑い始めた。


「そ、そんな……」

 ラウルは嘲笑う彼女を目の前に落胆の色を隠せなかった。さらに、ユリエルが追い打ちを掛けるようにこう言った。

「まさか、私の妻を弟が寝取ろうと思うなんて恐れいった。だが残念ながら、彼女が愛してるのはこの私なのだ。まぁ、臆病なお前が大胆な行動に出たんだ。その勇気に免じてお前の事は許そう。そして、従順な妻よ。君のことを見直した。やはり君は私の妻に相応しい」

 ユリエルも愛おしそうにクリスティーヌへ目線を合わせると、二人はラウルに見せつけるかの様に口づけを交わした。あたりからは二人に祝福をあげる声が上がる。

 だが祝福と同時に、微かな笑い声と共にこんな声も聞こえてきた。

「こんなにも仲睦まじいお二人の邪魔をしようとするなんて!」

「しかも、同じご兄弟でしょう。あぁ、恐ろしい!」

「身の程知らずにも程がある!」

「壁の花らしく、一生二人の陰に隠れてればいいんだ!」

 そしてその声は次第に大きくなり、クスクスとした笑いも、まるで喜劇を観劇している客達の様に大きな笑いへと変わっていった。

 貴婦人達は扇子で口元を隠しているが肩を震わせ、男達は腹を抱えるか、酷いものに至ってはラウルの事を直接指さしていた。


 居たたまれなくなったラウルは彼らに背を向けると、脱兎のごとく出口へと走り去った。


◆◆◆


 ラウルは屋敷から逃げ去ると、森の中を走っていた。両耳を手で塞ぎ遮断しようとしても、彼らの笑い声が後を追うようにまだ耳の中でこだましている。 

 やめて! やめて! お願いだから! そう必死に願いながら駆けずり回っていると、突然体が大地へと叩きつけられた。

 目の前をよく見ていなかったせいで、彼は木の根に躓き転んでしまったのだ。


「痛ったぁ……」

 両手で地面に着いたものの、バランスを崩した彼は顔を地面に擦らせていた。土の鉄臭い臭いが彼の鼻腔に漂ってくる。

 うぅ……と彼がうめき声を上げていると、今度は聞き覚えのある声で、あははと笑う声が聞こえてきた。

 一体、笑い声を上げているのは誰なのだろうか。そう思いながらラウルが顔を上げると、光差す小川の淵で、擦り切れた帽子に洗いざらしたシャツを着た少年が岩に腰を下ろし、魚釣りをしているではないか。


「エル!」

 ラウルは大きな声を上げると、先程転んだ事を忘れて、彼の元へと駆け寄った。だが、エルはラウルと顔を合わせようとせず、そのまま魚釣りを楽しんでいる。

「本当、お前はバカだし情けないよなぁ」

 エルはそう言うと、またしてもあははと声を上げて笑った。その言葉に、ラウルはムッとしつつも、自分自身に嫌気がさしているのか

「あぁ! 愚かだとも! 兄の妻に惚れた上、こっ酷く振られたんだから。さぁ、君ももっと笑えばいい!」

と投げやり気味にエルに向かって毒づいた。しかし、エルはぷっと軽く吹き出すとこう言った。

「いや、俺が情けないと思ってるのは、結局、辛い事があっても自分自身だけで乗り越えようとしないお前の弱さだよ。振られたからって俺の所に逃げてきたみたいだけど、慰めてもらえると思ったの? あー、相変わらず情けない!」


 うっ、と言葉を詰まらせるラウルに対し、エルは気に留めることなくにさらに続ける。

「俺がお前の前から消えた理由、それは自分の双子の弟がこんな女々しい奴だったなんてって心底がっかりしたからだ。しばらく一緒に過ごしてたのも、お前を可哀想に思ったからの情けだよ、情け!」

 エルはスクッと立ち上がると、手に釣竿とバケツを持ち、ラウルの方へと顔を向けた。だが、彼は笑みを浮かべるどころか、侮蔑するように冷たい目でラウルを見つめている。

「そう言う事だから、もう金輪際、俺の側には寄らないでくれ。クヨクヨした性格の自分そっくりの奴なんて気持ち悪くて仕方ない。そりゃ、父上も母さまも俺にお前を会わせたくないと思うはずだ!」


 彼の辛辣な言葉は、ラウルの心を深く抉った。意識するまもなく、自然と生暖かい涙がラウルの頬を伝う。

 だが、ここまで言って怒りを見せるどころか泣き出してしまったラウルに対し、余計に失望したのかエルはハァと深いため息を吐くと、さらに突き放すようにこう言った。

「そうやって、またすぐ泣く。打たれ弱いお前だ。そんな頼りない奴の側に誰が一緒にいたい? それに社交的でもないんだから、商売の手伝いなんて出来るはずがない。なんの役にも立てないんだから誰が必要だと思う? つまり、お前は一生、あの兄さんの庇護のもと、隠居した老人のようにひっそり生きていくしかないんだよ。運命だと思って受け入れろよ。死ぬまでな!」


 そしてエルはラウルに背を向け、何処かへと歩き出し去っていった。一方、ラウルはその場に固まり、うぅっと泣き声を上げると、立っていられなくなったのか、その場に膝をついた。

 もちろん、エルを追いかけようとする気力は彼に残ってはいなかった。


 ……そうだ、僕は誰からも必要とされていない存在なんだ……

 自分にまるで言い聞かせるように、何度もラウルはその言葉を心の中で繰り返し、ひたすら声をあげ泣き続けた。


◆◆◆


 どのくらい泣いたのだろう。まるで全身の水分が抜け出てしまったのように目がヒリヒリとする。

 ようやく涙と嗚咽が落ち着いてきたので、腫れた目をよく開け、ふと周りを見渡してみると、ラウルはなぜか膝まで水位がある湖のような所の中に佇んでいた。

 いつの間にこんな所へ移動していたのか。自分自身で無意識の内にとっていた行動に、彼は驚きを隠せないでいた。

 しかし、奇妙だったのはここが自分の知っている、明るくて小鳥たちの声が響き渡る、美しい湖ではなかったということだ。


 目の前に広がる空に晴れ間はなく、どんよりとした雲だかけがかかっている。湖のほとりには青々とした木々もなく、あるとしても、それは葉すらつけていない枯れ果てた木だった。

 そして、膝まで浸かっている湖の色は血のように赤い。だが、ラウルは不思議とこの光景を恐ろしいとは感じなかった。



 すると突然、ヒュッと冷たい風が彼の頬を掠めた。

 そしてそれが過ぎ去った直後……



 ……ル……

 一瞬、彼の耳の中に何か聞こえた。


 ……ラ……ル

 空耳ではない。やはり、何か聞こえる。


 ……ラ……ウル……

 彼はもっと良く耳を済ます。


 ……ラウル……

 はっきりと、彼の名前が聞こえた。



 どこからか、まるで金属のパイプを伝うような、掠れた声が彼を呼んでいる。

 どこ? 僕はここだよ? と辺りを見回しながら返事をするも、ずっとそれは彼を呼び続けるが、声の主はわからない。

 しかし、耳を赤い湖に向けたとき、一番良くはっきりと聞こえた。どうやら声の元は湖の中からのようだ。


 なぜこんな所から……と訝りながらラウルが水面を見つめていると、ゆらゆら水面で揺れている自分の顔が、突如、にやっと薄ら笑いを浮かべた。

「!?」

 ありえない光景に、ラウルは言葉を失った。自分は笑ってもいないのに、水面に映る自分が笑いかけてくるなんてと。

 ところが、もう一人の自分は驚くラウルに対して御構い無しに語り始めた。


「可哀想なラウル……誰も君の味方をしてくれない」

 その言葉にラウルは再び泣き出しそうになった。あぁ、そうだ。自分の周りの人間は小馬鹿にするか、弱く情けないことに嫌気がさすかのどちらかしかいないのだ。

 すると、そんなラウルの心を読み取ったのかのように、もう一人の自分はにっこりと優しく彼に微笑んでみせた。

「大丈夫だよ。周りは敵だらけでも僕だけは君の味方だ」

「味方って……どう見ても君は僕なのに? 君は何者なんだ……?」

「ふふふ、確かに僕は君自身でもあるけれど、君とは違う君自身でもあるんだよ」


 自分とは違う自分……一体どういう意味だ? とラウルは困惑した。

「人って言うのはね、一面しか自分自身として把握していないのだけど、実は自分も知らないうちに、気がつくことなく多くの面を持っているんだよ。だから僕は君の知らない面の一部なんだ」

「自分の知らない面だって? 僕は弱虫で何にも出来ない存在だ。他の面があるなんて僕には信じられないよ!」

 ラウルはそう言うと、もう一人の自分に向かって首を振った。しかし、彼がそう答えるだろうと予想していたのか、もう一人の自分は再びにっこりと微笑んだ。

「そう、信じられないよね。だから、君に見せてあげるよ。別の面のラウルを……」

 そうして水面に映るラウルはスゥっと手を伸ばした。すると、その手はなんと赤い湖を超え、ラウルの目の前に立体的な白い手となって現れた。


「さぁ、君自身の別の一面を知りたいなら、僕の手をとって。新しい世界に連れて行ってあげるから」

 彼はラウルに向かって、そこは楽しい所だよとでも言いたげに微笑み続けている。

「新しい世界……」

 ラウルはポツリと呟いた。果たしてそこがどんな場所であるか、彼にとっては全く想像がつかなかった。

「自分の知らない所に行くのは怖いかもしれない。でも安心して。僕がいる。君に必要なのはほんの少しの勇気だけだ」

 ほんの少しの勇気だけ……そう背中を押されたラウルはごくりと息を飲み、そしてその数秒後、意を決したのかもう一人の自分の手を勢いよく握った。

「ふふっ、よく覚悟を決めたね。さあ、一緒に行こうか」

 水面下のもう一人の自分は嬉しそうに首を縦に振って頷くと、ラウルに握られた手を一瞬だけ強く握りしめて、ゆっくりと赤い湖の中へと引き込むのだった。

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