37.黒衣の女
唯一の希望、エルにすら会うことを拒否されたラウルは、目の前の明るい世界から急に自分だけ灰色の壁で遮断された……そんな思いに駆られていた。
ここにすら自分の居場所はなかった。どうしてみんな自分の事を拒絶するのだろうと。
涙を目に溢れさせながら、彼は行くあてもなく、ただただひたすらに馬を走らせた。
気がつけば日はどっぷりと暮れている。どこまで馬を走らせたのか、感情任せに進んだのでさっぱりわからない。
だが、不安を感じながらも少し行った先に、暗闇に浮かぶ明かりが見えた。近づくほどに賑やかな音も聞こえてくる。
その明かりが村からのものだと彼が認識した丁度その時、悲しむ心とは不釣り合いにぐーっと腹の音が鳴った。
そう言えば、馬を走らせるのに夢中で、ろくに食事をとって居なかった事を彼は思い出した。
どうせ家に帰ったって、誰も心配しやしないだろう。いや、存在すら忘れられているのかもしれない。だったら、あの村で暖かい食事と宿を探そう。なに、無断外泊なんてどうってことないじゃないかと、半ば自嘲気味にラウルはその村へと向かうのだった。
◆◆◆
そこはラウルにとって初めて来た村だった。エルたちに、近くの村へ連れて行ってもらった事はあったが、こんな所もあったなんてと彼は少し驚いた。
というのも、彼は夢中で馬を走らせていたので気づいていなかったが、実は、彼は自分で思っていたよりも、ずっと遥か遠くの村へと来ていたのだ。
馬から降りて村の中を散策すると、その道中、肉の焼ける香ばしい匂いが彼の鼻孔をくすぐった。
どこから漂っているのだろうか。気になりその匂いを辿っていくと、人びとが楽しそうに談笑し、カードゲームに興じたり、歌を歌ったりしている。
赤い顔をした彼らの手元にはグラスが握られ、決して上品とは言えないテーブル代わりにされた樽の上には、料理が盛られた大皿が並べられていた。
つまりそこは、彼が人生で初めて訪れた酒場だった。
見よう見まねで、ラウルも空いていたその粗末な席に着いてみる。
だがその途端、注文も聞かれていないのに、ドスン! と大きく音を立てて、無愛想な男の店員が、グラスの中で泡立つ黄金色の飲み物を彼の目の前に置いた。
ラウルはこんなのは注文してないと言おうとしたが、男なら黙って飲めと言わんばかりに、店員は鼻息を荒げると何処かに行ってしまった。
目の前に置かれたものは一体。でも、周りの人たちも飲んでいるし……と彼は恐る恐るそれに口を含んだ。
すると……
なんて美味しいのだろう! 一体、これは何だろうか。ワインしか飲んだ事のなかったラウルは驚いた。
実は、彼が飲んだのはシードルという林檎をベースにした酒だった。水の代わりとして飲まれていた事もあるその酒は、甘さは程よくさっぱりとしていた。
乾いた喉に丁度いいと、まるで砂漠に水が染み込むように、彼はぐびぐびとそれを飲み干した。
◆◆◆
数時間も経つと、彼の周りには空のグラスが転がりまくっていた。
ラウルはこんな泥酔状態になるまで酒を飲んだ事は無かった。いつもであれば飲んだとしても、せいぜい顔が少し赤くなる程度だ。それすらも普段の彼ならば、みっともない事だと思っただろう。
しかし、今の彼にとってはもう、そんな事はどうでも良かった。
あぁ、なんていい気分なんだろうか。いっそ、このまま永遠に眠りにつきたい……頼むから誰も起こさないでくれと彼が思った矢先、周りの酒と汗臭い男たちの匂いとは全く違う、甘く優しい香りが急に辺りに漂った。
「飲み過ぎよ」
艶っぽい女の声が耳の中に届く。ラウルは条件反射的に真っ赤になった自分の顔を、声の主である女の方へと向ける。
すると、視界に入ってきたその女はこの酒場で働く下女らしい姿の女たちとは異なり、上流階級の女性が身につけるような、質のいい黒のドレスを身に纏っていた。
……娼婦だろうか。
ラウルはその職業の女性を間近で見た事はなかったが、話には聞いていたのですぐにピンときたのだ。
「悪いけど、僕にはそんな度胸はないよ」
そう言うと、彼はそのまま顔を樽のテーブルに伏した。しかし、彼女は彼を見つめた微かに笑みを浮かべたままこう言った。
「ふふっ。可愛らしいわね。その様子だと、女をまだ知らないのでしょう。さぁ、いいところに連れて行ってあげる」
いいよ、ここにいさせてくれとラウルは言ったものの不思議と力が入らない。
そして、彼女に無理矢理立たせられると、そのままある場所へと連れて行かれた。
◆◆◆
ハッと気がつくと、ラウルはふかふかしたベッドに寝かされていた。
目をぐるりと動かして部屋の様子を伺うと、暗い色の壁と天井、白枠の暖炉、そして年代物の家具や花瓶が置かれている。
それらで必死に高級感を出そうとしているつもりのようだが、それらが模倣の手本にしている本物に常に囲まれて育ったラウルは、単なる安物であることをすぐに見破った。
特に、雨戸を閉じた窓の脇で縛られている赤いカーテンは、色合いが下品なせいか、変にいやらしさを感じさせると彼は思った。
……うぅっ、少し頭が痛い。いつのまにか連れられてこの部屋に来てしまったようだけど、ここは彼女の家なのか……? それにしても、泥酔した上、女性の家で介抱を受けるなんて恥ずかしい……
先程の女性は何処だろう。彼女を探さなければとラウル起き上がった矢先、失礼しますという声と共にガチャリとドアが開けられると、彼のいる部屋に寝巻き姿の女が入ってきた。
彼女は手に持っていた、ポットと白い布が入った洗面器をベッド脇の小テーブルに置くと、慣れた手つきで淡々と何かの準備をし始めている。
そして、ベッドの上でキョトンとしているラウルに対して一瞬だけニコリと微笑むと、ポットの湯を洗面器に注ぎ、そこへ白い布を浸して彼の手を拭った。
だが、そうしている間、妙に女は体をラウルに寄せてくる。そして、彼はある事に気がついた。
寝巻き姿というのがまずおかしかったが、彼女の着ているその服はよく見ると薄く、ろうそくの明かりに当たるとチラチラと中が透けて見えるのだ。
豊かな胸、くびれた腰、丸々とした臀部……
自分が彼女の身体を目で追っている事に気がついたラウルは、なんて事だ! とすぐさま彼女から目線を外した。
しかし、彼女は顔を赤くしているラウルに御構い無しの様子で、彼のシャツのボタンを外し始め、再度白い布をお湯に浸すと、今度は彼の上半身を拭い始めた。
その絶妙な触れ方にラウルはたじろいだ。
だが、拒絶しようにも自分の男としての本能が疼いて、彼女の柔らかな両腕を掴んだのは良いものの、彼女の身体を引き離すことはできなかった。
すると、女は悟ったのか
「いいのよ」
と優しく言うと、寝間着の衿の紐を緩めてはらりと脱ぎ去ると、一糸まとわぬ姿のままその柔らかな腕をラウルに巻きつけ、自分の唇を彼の唇に押し当てた。
◆◆◆
事が終わった後、女は着替えを済ませて手早く後処理を済ますと、甘い会話もする事なくそそくさと部屋を出て行った。
ベッドにはポツンと裸のままのラウルだけが残された。
彼は疲れ果てていたのと同時に、一体自分は何をやっているんだという虚しさと、好きでもない女性と寝られるなんてまるで獣のようじゃないかと、両手で顔を覆い自己嫌悪に襲われていた。
怠い体を起こしながら、とにかくここを出なければと彼は着替えをする。
しかし、ベッドに座りながら、なんとか最後にブーツを履こうとしていると、いつの間にか、彼をここに連れてきた黒い服の女がベッドの側に立っていた。
女の存在に気がつきラウルは驚いた。だが、妙に頭の中は冷静で、きっと彼女はこの売春宿の女将で、先程の代金を取り立てに来たのだと彼は察した。
「ええと……ちょっと待って、今鞄から財布を出すから」
そう言ってラウルがベッドから鞄に手を伸ばそうとすると、女はふふっと軽い笑い声を上げた。
「とても気持ちが良かったでしょう。でも、お代は結構よ」
「えっ、でも……」
代金はいらない。思いもよらぬ彼女の言葉にラウルは少し困惑した。
すると、微かに笑みを浮かべながら、彼女は彼の隣に腰掛けると、白い手で彼の頬をなぞった。その手はまるで陶器のように冷んやりとしている。
「その代わり、あなたを味あわせて欲しいの」
味合わせて欲しい? どう言う意味だ? と彼がそう思ったのを読み取るようにして彼女は言った。
「あなたからは絶望が溢れてる。言ったでしょう。良いところに連れていってあげると……天国ではないかもしれないけど」
そして彼女は、なんと先程の女と同じようにラウルのシャツのボタンを外し始めた。
顔を近づけ、ゆっくりとラウルの首筋に唇を押し当てる。酒場で感じた彼女の甘い香りをより一層強く彼は感じとった。
「僕にはもう、そんな体力は残っていない」
その言葉を言おうとした矢先だった。
ふわっとした不思議な感じと共に、ベッドに押し倒されるとそのままラウルは気を失った。
◆◆◆
気がつくと、ラウルはまた同じベッドの上にいた。二日酔いなのか、また頭が痛い。いや、全身が怠い上にぼうっとする……これは熱があると彼は認識した。
売春宿につれ込まれてしまった上、病気にかかってしまったのか。ならば、一刻も早く、ここを出なければと彼は無理に身体を起こし、部屋の入り口へと向かった。
しかし、ドアのノブをいくらガチャガチャと回して開けようとするも、鍵を掛けられているせいか開かない。
誰か、誰かと声を上げるが、辺りは静まりかえったままだ。必死にドアを拳で叩きつけるも、手にだんだんと力が入らなくなってきた。
踏ん張って立っていた足も感覚がなくなっていく。そして、とうとう彼はその場に座り込んでしまった。
はぁはぁと呼吸が浅くなり、だんだんと視界も掠れてきた。だめだ、ここで意識を失ってはいけないと、自分を奮い立たせようとするも、それはすでに限界だった。自分の意思に反して瞼も閉じようとする。
……だから、だめだ、だめだ、だめだ、だめなんだ! ここで意識を失ったら、今度こそ自分は目覚めない気がする。だったら無理やりにでも……
ラウルは痛みによって目を覚まさせようと、這いずりながら硬そうな花瓶に手を伸ばそうとした。
だが、あと一歩というところで、何処から湧き出てきたのか、まるで霧のような黒い靄が彼の足元に漂い始めた。
次第にそれは膝、腰、胸と上へ上へと登っていき、とうとう彼の頭までを包み込んだ。
そして、必死に抵抗するのも虚しく、ラウルはそれによって自らの呼吸を止められるのを感じると、暗い闇へと堕ちていった。




