36.君に逢いたくて
コンコンと誰かが部屋のドアをノックする。どうぞとラウルがいうと、一人の使用人が入ってきた。彼はお届けものですと一言言って、ラウルにあるものを手渡した。
ラウルは受け取ったものが何であるかを悟ると、表情は固まり呆然とした。
彼が受け取ったもの。それはつまり、仲直りのためにクリスティーヌへ送った本だった。
どうして……? と状況が読めないでいると、男は静かにこう告げた。
「こういうものは困るとのことです。今後一切、受け取ることはないと言われました……では」
男は気まずそうにして、彼の部屋からサッと出て行った。
ラウルはがっくりと脚の力が抜け、そのまま崩れるように長椅子に座りこんだ。
口も聞いて貰えない。贈り物すら受け取って貰えない。どうして。どうしてなんだ……目からはボロボロと涙がとめどなく溢れる。
そして、座っている事さえ辛くなり、しまいには長椅子に仰向けになって横たわった。
自制しても止まらない涙をシャツの袖で拭う。
あぁ、本当に自分は何て惨めなんだろう。家族は何も言わなかったが、周りの人間からは嫌でも自分と優秀な兄を比べられる。
社交的な彼に対して、内向的な自分。堂々としている彼に対して、いつも彼の影に隠れるようにして後ろにいる自分。
だが、自分も兄の事は尊敬していたし、誇らしい彼の事が好きだった。もちろん、全く敵う相手ではないということも知っている。
それなのに、それなのに、無謀にも彼の妻である女性を好きになってしまった。なんて、愚かだったんだろう。
願わくば、自分が過ちを犯してしまったあの日に戻りたい……一瞬にして全てを壊してしまった、あの時よりも前に。
ラウルの頭の中では、今までの彼の人生と、もう取り返しのつかない過去が駆け巡っていた。
果たして、この世界に自分が生まれてきた意味はあったのだろうか……とまで思い詰めた矢先、はっとある人物の存在を思い出した。
彼といた時は本当に楽しかった。自分に足りないものを彼は与えてくれた。まさに自分の片割れ……
もし、この場に居たら、振られたなら潔く諦めろと叱りつけてくれたかもしれない。そして、きっとバカげた事をして自分を笑わせ、励ましてくれたに違いない。
……そうだ。彼に会いたい。手紙じゃだめだ。直接会って、話しがしたい。声が聞きたい!
そう思ったラウルは、いてもたってもいられなくなり、長椅子からガバッと起き上がると彼の住所を記したものと、いくつかの荷物を手に取ってカバンへと押し込んだ。
いつもはそんな俊敏な動きを見せないラウルが、階段を駆け下り屋敷を飛び出す様子をみて、異常を察知したのか
「ラウル様、どこへ?!」
と執事から声が上がった。だが、馬で街に出かけてくるとだけ彼に伝えた。
きっと、本当の事を言えば、すぐにでもおじたちが飛んできて、自分のことを捕まえにかかっただろう。
それに、考えてみれば、彼が本当に体調を崩しているのかも怪しかった。もしかしたら、自分の知らないところで彼が何かやらかして、実は監禁されているんじゃないかとすらラウルは思った。
だが、父やおじたちの言う通り、本当に彼は体調を崩していたとしたら。何の連絡もなく突然自分が現れたら、さぞかしビックリするだろう。そして、喜んでくれる筈だ。
そう思うと、ラウルは一瞬、悲しかった事は忘れ、エルとの久しぶりの再会に胸を熱くした。
◆◆◆
華やかなパリの街を抜け、人を頼りに馬を走らせていくと、ようやくラウルの見慣れた田園風景が広がる。
数年ぶりだったが、あまり変わっていない。まるで、自分の事をお帰りとでも言ってくれているかのようだと彼は感じた。
それに、初めて一人で来たとはいえ、特徴的な彼の家はすぐにわかった。心を踊せて、その家の門をラウルは開ける。
◆◆◆
キイっと門が開く音が聞こえた。庭で仕事をしていたキースは、はて、この時間に門が開くなんてなんだろう。届け物だろうかと門の所に駆け寄る。
だが、そんな彼の予想に反して、そこにいたのは自分の主人である人物と瓜二つの人間がだった。しかし、服装や仕草からして、主人ではない事にすぐに気がついた。
「どうされたんですか、ラウル様!!」
突然の思いもよらぬ来客に、キースは大きな声を上げた。
彼が驚くのも無理はない。きっとそう反応されるだろうと踏んでいたラウルは、キースに不信感を抱かせないようにするため
「久しぶりだね、キース。実はちょっとこの辺りに用があってね。エルの家も近かったし、そのついででここに寄ってみたんだ」
とあくまでも他の用事で来ただけだと、さりげなさを演出する嘘をついた。
しかし。
……だんな様もおじ上様たちもつけないで?……
キースはラウルの言い方に、少々違和感を抱いた。
他の用事だとしても、こんな所に来る用事とはなんだろう。それに、ここに来るならだんな様やおじ上様たちも来るはずだと。
だが、ラウルの性格上、エルのように黙ってくるはずがない。きっと、だんな様たちは近くに来ていて、後から合流するつもりなのだろうと彼は自分を納得させた。
「それで、エルは元気かな? 彼に会いたいんだけど……」
主人の弟が来たなら、追い返す訳にはいかない。キースは自分が連絡を聞いていないだけかもしれないと思って、エルの所へラウルが来たと知らせに走った。
◆◆◆
エルはちょうど自室にこもっていた。
というのも、彼は試しに計算してみるか? とアーロンから渡された去年の決算書と睨めっこをしていたのだ。
この数字を振替えようかとしたところ、突然ドアがバタン! と開けられて、少し息を切らしたキースが飛び込んで来た。
「エル、喜べ。ラウル様がうちに来たぞ!」
エルは驚いて、握っていたペンをポロリと落とした。
「……冗談だろ。何寝ぼけたことを……」
「いや、嘘じゃないって! ほら、そこの窓から外を見てみてよ!」
キースは一体何を言っているんだと思いつつ、エルは窓辺から外の様子を伺った。
するとそこには、彼の部屋の方向を見つめる、ニコニコしたラウルが馬の側で立っているではないか。
「本当だ。でも何で?」
まるで説明をしてくれとでも言うように、エルはキースの方へ振り返った。
「何でってエルも何も聞いてないの? てっきり、だんな様かおじ上様たちと君との間で、ラウル様が来る事を連絡していると思ったんだけど」
「いや、俺は全く何も聞いてない。それに、父上たちが黙ってラウルを寄越すはずがない」
「それじゃあ……」
二人は悟った。きっと、ラウルは黙って家を出て来たのだろうと。
「どうする? 家に上がってもらう?」
キースは外で立たせたままのラウルに目をやる。
エルはもちろん! すぐにでも上げてくれ! と言おうとした。しかし、その言葉を言おうとした瞬間、エルは言葉を詰まらせた。
もし、彼をこのまま家に入れ
「ラウル、どれだけ俺もお前に会いたかったか!」
そう言って彼を抱きしめ、その身体の温もりを感じた瞬間、興奮のあまり自制の心を忘れ、彼の首筋に自分の歯を押し当てたりでもしたら……
エルは例のおぞましい事件を思い出していた。ぐったりと自ら手からずり落ちるラウル。あの時は運良く一命を取り留めたものの、もしまた同じ事をしたら……
それに、キースたちが止めに入ってくれたとしても、彼らに危害を絶対加えないと言える自信もない。
エルは喜んでいた表情を一転して曇らせ、首を横に振るとキースに対してこう言った。
「キース。悪いけど、ラウルには会えないと言ってくれないか」
◆◆◆
ラウルは、エルはまだかなまだかなとソワソワしていた。
玄関のドアが開けられる。エルだ! と思ったのは束の間、そこにいたのはキースただ一人だけだった。
「あれ……エルは?」
「ラウル様。エル様はラウル様がいらした事を大変喜んだのですが、興奮しすぎて、またご気分が悪くなってしまいました……残念ですが、とてもお会い出来る状態ではないのです。申し訳ありません」
笑顔は一切なく、真剣な表情でキースは深々と頭を下げた。ところが、ラウルはそんな態度をとる彼に対して微笑みながらこう言った。
「またまた、どうせ、エルにそう言えっていわれたんでしょ? 本当にいたずら好きなんだから。僕にはもう、そんな冗談通じないよ?」
エルはきっと、わざとキースに会えないと言わせているのだろう。がっかりした所を驚かすつもりなんだ。そうラウルは推測していたのだ。
「いえ、冗談ではありません! 本当に具合が悪くて……」
キースは納得してくれないラウルに対し、ますます表情を強張らせてそう言った。
「いや、そうは言うけど、それなら尚更ベッド越しでも良いから合わせてくれないかな。僕だって、ずっとエルの事は心配しているんだよ?」
そんなやり取りがしばらく続き、キースも思いの外食い下がらないラウルに、うんざりしてる表情を見せるようになったその時だった。
「ラウル!」
と玄関の奥からエルが呼びかけた。
その声に表情を明るくしたラウルもエル! と言って、目の前のキースを制しながら中に入ろうとした。
しかし。
「キースが言うように、俺は体調があんまり良くないんだ。それに、お前、父上たちに黙ってここまで来たんだろ?」
エルの鋭い指摘にラウルはどきりとした。
「そ、それは……でも、だからってそれがなんだ! 君だって、昔、黙ってこの家を出てきたじゃないか! 僕だって、君に会いたくてここまで来たんだ!」
「だからって、あの時みたいに俺たちだってもうガキじゃない。俺みたいな真似をして、みんなに心配かけるなよ!」
「だけど……」
「だけどじゃない。悪いけど帰ってくれ!」
「嫌だよ! せっかく君のためにここまで来たっていうのに……」
「はぁ〜……お前は昔からハッキリ言わないとわかんない奴だな。じゃあ、ハッキリ言わせてもらうけど、こっちの事情も汲み取れないお前なんかに、俺は会いたくない!」
俺は会いたくない。その言葉がよほど応えたのだろう。そんな……とラウルは落胆した。
それに、声を張り上げて応対するエルは、皆が話すように、とても病弱そうには感じられなかった。
……エルも僕の事を否定するんだ……
自分が会いたいと思ってるんだから、エルだってそうに違いない。だが、現実はエルは自分に会いたいなんてこれっぽっちも思っていなかった。
この屋敷に戻ってしまったのも、姿は自分そっくりでも、中身は情けない人間と一緒にいたくないと思ったのかもしれない。
唯一の希望を粉々に砕かれ、そんな考えに支配されたラウルはその場に立ち尽くした。
「す、すみません。相変わらず口が悪くて……」
とキースがフォローに回ろうとした時だった。先ほどの食い下がる様子とはうってかわって
「わかったよ。じゃあね!」
とラウルはエルに聞こえるように大きな声で返事を返すと、顔を下に向けたまま馬に飛び乗りその場を走り去っていった。
◆◆◆
「上手くラウル様を説得出来なかった僕もいけなかったけど、いくら何でもあれは言い過ぎだよ!」
自室に戻り、窓辺で外を見つめていたエルに対し、キースは背中越しから先ほどの件を咎めた。
「ああ。確かに、キツく当たったと思う。でも、そう言わないとあいつもわかってくれなさそうだったし」
そう言いながら、エルも反省しているのか頭をボリボリとかいた。
「けどまあ、ラウル様の事だから、いくら君の言い方に頭にきてもそんなに無茶な事はしないと思うけど。でも、何で急にウチにやってきたんだろうね。何か心当たりはあるの?」
「さあ……」
確かに、キースが尋ねるように、ラウルがここにきた理由の思い当たる節はエルにはなかった。
……最近、手紙にも特に変わった様子はなかったのに。けれど、どこか引っかかる。何も起こらないといいけど……
なぜそうなるのかと確信はない。だがエルは何とも表現しにくいモヤモヤした気分に包まれていた。そして少しの沈黙のあと
「……あのさ。すまないけど、明日、ちゃんとパリの屋敷にラウルが戻っているか、こっそり確認しに行ってくれないか?」
キースの方へと振り返り、少し照れくさそうにエルは彼へそう依頼をした。
その依頼に対してキースは
「ご主人様、かしこまりました!」
とわざと大きな声でうやうやしく返事をすると
「ふふっ、それにしてもやっぱり心配なんだね」
と言って、なんだかんだ言ってラウルを気遣うエルに安心したというような表情を浮かべた。
「それは、そうだよ! 兄弟なんだし」
エルはそう指摘されて顔を赤くする。しかし、急に声のトーンを落とすと
「だけど、今まではこうやって誤魔化して来れたけど……やっぱりこんなのおかしいって、ラウルも余計強く思って誤魔化しきれなくなるのも時間の問題だ」
と言って、腕を組み顔を下に向けた。
その様子を見ながら、確かにとでも言うようにキースは軽く鼻をフゥと鳴らすと
「今はまだ君がラウル様の前から消した本当の理由をご本人には話せないけど、いつかは話さなきゃいけない時が来るのかもね」
とエルの意見に同調した。
「ああ。でも、とりあえず今回の件は父上たちには内緒にしておこう。話したら余計にラウルを傷つけることになると思うから」
「了解。それじゃあ、明日、僕はラウル様の様子を確認しつつ、君が言い過ぎた事を反省してたって伝えておくよ」
「うん、よろしく頼む」
そう言って、二人は互いに拳を合わせた。
だが、無情にもエルの悪い予感は的中し、これが彼らの最期の別れになるとは、この時は誰も想像すらしていなかったのだった。




