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35.初恋の定め

 クリスティーヌの華奢な体は突然、何かによって強い力で押さえつけられた。自分とは違う、筋肉質なこの感触。

 ……これは男の腕、ラウルの両腕だ。


 いきなりの事に彼女は驚いているようで、涙を流す事を水流を堰で止めたようにピタリとやめた。

「お願いだ。もう、泣かないでほしい」

 ラウルは彼女の方に視線を向け、涙に濡れた目をじっと見つめる。

「兄様の事は忘れて、僕の事だけを見てよ、クリスティーヌ。僕は君をずっと好きだった……愛しているんだ!」

 そう言葉を投げ、一瞬だけ腕により力を入れるラウル。

 今までの彼女に対する想いがぐるぐると頭の中を駆け巡る。ずっとこの事を伝えたかった彼だったが、今まではそんなスキャンダラスな事を出来る訳ないと、理性で何とか留めていた。

 しかし、目の前にまるで弱った子鹿のような彼女をみると、居ても立っても居られなくなったのだ。

 そして、今、空気を入れ過ぎた風船が弾けるように、彼女に対する感情が爆発した彼は、思いを伝えるだけに留まらず……なんと自分の唇を彼女の柔らかな唇に押し当てるという、彼にしてみれば大胆な行動にでた。

 その瞬間、ドクドクと速まるラウルの心臓の鼓動。それはまるで庭園内に響いてるのではないかと彼は錯覚していた。



……ところが。



 バチンッ!という大きな音が静寂に包まれた庭園内に響いた。

「……な、何するの?」

 クリスティーヌは顔が赤くなるどころか、まるで恐ろしいものを見た後のように青ざめ震えている。

 そして、自身の体を抱きしめていた腕の力が緩むと、サッとベンチから立ち上がり彼から距離をとった。一方、ラウルは彼女から殴られた頬に手をやり、呆然としている。


 更に、彼女の口から出たのは、彼を叩いた事に対する謝罪の言葉や、驚いてしまった事に対する反応だと自己弁護する言葉でもなく、怒りの感情が入った言葉だった。

「こんな時に、あなたは何を考えているの? ……信じられない」

 そう言われたラウルはハッと我に返ると、すぐ様、しまったという表情をした。そして

「ち、違うんだ、クリスティーヌ。僕は、純粋に君の事を……」

と思いつくだけの言い分を必死に並べたが

「やめて! 結局はあなたも、あなたのお兄様と同じよ。最低!」

そう言って彼女は彼の言葉を聞かず、視線も合わせる事もなく庭園を走り去っていった。

 待って! と言う事や、彼女を追いかけるという事も出来ず、夜の暗い庭園には頭を真っ白にしているラウルだけが残された。


◆◆◆


 翌日のサロンは異様な雰囲気だった。

 ユリエルは昨晩、帰ってきたと思ったらまたどこかへと行ってしまう。

 クリスティーヌはまた体調が優れないと言って部屋から出てこない。

 そして、ラウルも今日は体調が良くないと行って、部屋に篭っていた。


「なんだ。みんな風邪でも引いたのか?」

 アーロンはコーヒーを片手に、呑気にばあやにそう尋ねた。

「さあ。私は存じておりません」

 妙に素っ気ない態度をばあやはとる。それもその筈だ。彼女は見ていたのだ。


 ばあやがクリスティーヌの部屋に洗濯物を届けようとすると、中で言い争う声が聞こえた。

 聞いてはいけないと思いつつも、彼女がこんな大声をだすなんて、はじめてのことだった。

 何かあったのかもしれないと察して、心配してこっそり中の様子を伺うと、ユリエルがとんでもない告白をして彼女を傷つけ、彼女は部屋を飛び出していった。

 

 ……だんな様には言えやしないよ。ユリエル様が浮気しているだなんて。それに、クリスティーヌ様の事をもう愛していないことも。おかわいそうに。本当に男は身勝手だ……

 彼女はそう思って、過去の自分とクリスティーヌを重ねていた。


 息子のフランクがまだ少年の頃、彼女は突然、自分の夫から別れて欲しいと告げられた。彼にはすでに、別の若い女がいたのだ。

 着の身着のまま母子は家を追い出されたが、行く宛てのない彼女たちは、働き口を求めてパリの街を彷徨った。

 しかし、どこの屋敷も店も、伝のない自分を雇ってくれはしない。

 思い詰めた彼女は、フランクと共にセーヌ川へ身を投げようとしたところ、まだ若かりし頃のアーロンに声をかけられた。

 命を粗末にする覚悟があるなら、自分の所へ来なさいと。それ以来、彼女たちはこの家に忠義を尽くしていた。


 ……昨日は、遅くにジャンヌの所へ駆け込んでいたようだけど、あの様子じゃ、どうなってしまうかわからない。しばらくジャンヌには所用を頼まず、彼女の側につきっきりでいて貰おう……

 ばあやはクリスティーヌの身を案じて、ジャンヌを彼女の世話のみに専念させるように決めるのだった。


◆◆◆


 クリスティーヌはまたしても食欲不振に陥っていた。そして、とてもじゃないが部屋から外に出たいという気分にはなれなかった。


 ユリエルの件は本当に最悪だ。

 なぜ、あんな人とは知らず、自分は彼の事を愛してしまったのだろう。彼に対しての純情な気持ちを重いと切り捨て、他の女も愛していないと嘲笑っていた。

 ……悪魔だ。

 だが、あそこまで最低だと分かると、彼の事を思うのもバカバカしくなってきた。

 残念なことに、涙はまだ出てくる。でも、これは悲しみの涙ではない。悔しさの涙だ。もう涙なんて枯れてしまえばいいのに。そう彼女は思った。


 そして、最悪だったのはこれだけではない。彼女は昨晩、男友達も失った。

 正直言って、彼女にとって、ラウルは家族であり友達以外の何者でもなかった。つまり、男として今まで見ていなかったのだ。

 それが、昨日、何とも思っていなかった彼が男を見せた。


 女にしてみれば、それを一言で言うと、恐怖だ。昨日までなんとも思って見なかった光景が、一気にガラリと変わってしまう。

 相手がどんなに取り繕うとしても、一度女が拒否する気持ちを持てば、覆る事はかなり難しい。

 具体的にどう表現すればいいのかわからないが、とにかく、ただただ気持ちが悪いと感じる。例に漏れず、クリスティーヌもラウルに対して、そのように強く拒絶する気持ちを持ってしまった。

 彼女はもう、彼の顔すら見たくない気持ちで一杯だった。


◆◆◆


 一方、ラウルは自分は何ていう事をしてしまったのだろうと、後悔の念に駆られていた。

 考えてみれば、自分は最低だ。弱っている人に漬け込もうとするなんてと。

 現に、彼はクリスティーヌを抱きしめたとき、彼女が自分の方に靡いてくれるのではないか、と心の何処かで期待していたのだ。


 しかし、現実は甘くなく、彼はクリスティーヌからは無情にも拒絶された。

 抱きしめるだけではなく、キスまでしてしまうなんて。状況的にみれば、彼女は自分に襲われると思ったのだろう。

 あぁ、自分は本当になんて愚かなんだ! とラウルは頭をクシャクシャにした。


 どうすれば、彼女は許してくれるだろうか。贈り物だろうか。花か? ドレスか? 宝石か? 女性に対する経験がない彼は、ますます頭を抱えるのだった。


◆◆◆


 ようやく、クリスティーヌがサロンに顔を出すようになったのは、それから一週間後の事だった。

 昼食や夕食は各自バラバラだったため良かったものの、朝のこの時間は彼女にとって本当に気が重かった。

 サロンに入ると、すでにラウルはいた。なぜか、クリスティーヌの方に向かって笑顔でいる。どういうつもりなのだろうか……と彼女は薄気味悪く感じた。


「おはよう。クリスティーヌ。ようやく、元気になったみたいでよかった」

 アーロンはいつものように、彼女の事を気遣う。

「お義父様、このところ心配をおかけして申し訳ありません」

 彼女は軽く微笑みながら、彼に向かって返事を返した。

「本当だよ、クリスティーヌ。でも元気になってよかった!」

 ラウルは嬉しそうに、彼女の方へは話しかけた。だが、彼女は、ええと一言だけ言って、長テーブルの反対側に座る彼に対して体を横に向けた。


「ところで、おじ様。よかったら今度、お手すきの時で構いませんので、絵を教えていただけませんか。最近、刺繍にも少し飽きてしまって……」

 珍しく彼女はザラキエルに声をかける。彼は、少し驚いているようだったが、絵を教えて欲しいと言われ、悪い気はしていないようだ。

 彼が構わないと言うと、クリスティーヌは嬉しそうに彼にお礼を言って、その後もラウルとは目線を合わせないようにして会話を続けた。


 このような感じで、彼女はサロンに行くと、ラウルから話掛けられても、ええ、うん、そうなの……くらいしか返事を返さなかった。

 もちろん、彼女がラウルに話しかける事は一切なかった。これには、さすがのラウルも彼女は自分を避けていると感じ、なるべく彼女には話かけないようになった。


 しかし、好きな人から無視されるというのは、恋する者にとって堪えるのだろう。

 

 なんとしても、彼女と仲直りをしたい。どうすれば良いだろうか……と悩みに悩んだ挙句、ラウルの目に付いたのは一冊の本だった。

 クリスティーヌにはお気に入りの作家がいた。最近、その作家の新しい本が出たという事をラウルは思い出したのだ。

 彼は早速、それを手配すると、手紙を添えて彼女の元へこっそりと送り届けさせた。


◆◆◆


 クリスティーヌは送られてきた本と手紙を受け取った。お気に入りの作家だ。一体、誰がこれを送ってきたのだろう思いながらと手紙を読むと

「クリスティーヌへ。この前の事はごめんなさい。どうか、僕の事を許して欲しい。きみは僕にとって大切な人だ。だから、また、前みたいに仲良くして欲しい ラウルより」

と書かれていた。

 そして、その手紙を読み終わると、彼女は頭のてっぺんから足の指先まで、全身に鳥肌が立つのを感じた。


 ……なんてしつこいのだろう……あれだけ無視すれば分かりそうなものなのに! 仲良くして欲しいですって? どういうつもりだろう。あぁ、恐ろしい!……


 彼女は嫌悪する感情に身を任せ、手紙を暖炉にくべると、本を送ってきた本人に返すようジャンヌに命じるのだった。

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