34.交差する想い
ラウルはクリスティーヌことを今日も心配している。
それというのも観覧していた演劇の途中、突然彼女は出て行き、そして泣き出した。それから一か月近く経つが、ずっと落ち込んでいるようだった。
一体原因は? 彼女の元気が戻るよう、なんて声を掛けたらいいのだろうかと自室で悩んでいると、背後から久しぶりだなという聞き慣れた声が聞こえた。
少し驚き振り向くと、声の主はユリエルだった。思いもよらぬ客人にラウルは表情を明るくさせて
「兄様!」
と言って喜んで駆け寄った。兄が帰ってきたのはいつぶりだろう。
彼がなかなか帰って来なかった事に対しても寂しかったのか、まるで小さい子供のように、逞しい兄の体をギュッと強く抱きしめた。
ユリエルも一瞬驚いた表情を浮かべたが、自分を慕ってくれる弟に向かい微笑むと、彼の体を軽く抱きしめ返すのだった。
そして、彼らは部屋の中央に置かれた席に付くと、お互いの近況を語りあった。
だが、話の途中でラウルは急に表情を曇らせると、この所のクリスティーヌの様子がおかしい事をユリエルに話した。
「僕が彼女に話しかけても、何も教えてくれないから……兄様なら、きっと彼女の事を元気づけられると思う。だから、声を掛けてあげて欲しいんだ」
非常に心配しているのだろう。ラウルは悲しそうな表情をしている。本当に自分の助けを求めているようだ。
……不仲のクリスティーヌの元へ行くのはあまり気がすすまないが可愛い弟が懇願している。もし、私が拒否をすれば彼は傷つき、より悲しむほかないだろう。ならば、そうせざるを得ないじゃないか……
そう思ったユリエルは軽くため息をつきながらも
「わかったよ。お前は相変わらず優しい子だな」
と言いいながら、願いを承諾した意味を込めて、優しくラウルの頭を撫でてやるのだった。
◆◆◆
クリスティーヌは相変わらず自室に篭っていた。
日はすっかり暮れていると言うのにも関わらず、彼女はチクチクと熱心に刺繍をしている。布に向かって最後のひと針を入れようとしたところ、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
こんな時間帯に誰だろう? 使用人だろうかと思って部屋のドアを開けると、そこにいたのはなんと、久しぶりに見た自分の夫だった。
ユリエルはドアをノックする。すると、開かれた先には瞳をパチクリさせている自分の妻がいた。鳩が豆鉄砲を食らったような顔とはこういう表情を指すのだろうか。
思わず、そんなに驚くことかなと彼が微笑んで言うと、彼女は微笑み返すどころか、なぜか睨みつけるような目をしてきた。
彼は彼女の態度を不思議に思いつつも、微笑み続けながらその態度を隠し
「ラウルから聞いた。このところ、元気がなかったそうじゃないか。どうかしたのか?」
そう尋ねながら、彼女の部屋に入ると長椅子に腰掛けた。
しかし、彼女は表情を一切変えず、入り口近くに立ったままで、ユリエルの方に近づこうとしない。
というのも
……自分のしていた事に悪びれもしないなんて……
クリスティーヌは悲しかった気持ちから、夫の顔をみた途端、自分でも抑えることの出来ない怒りを突如覚えていたのだ。
「どうして、最近、いえ、去年から外泊が増えたの?! 説明して!!」
物静かなはずの妻が、聞いた事もない大声をだしている。
ラウルのように久しぶりの再会に歓迎されるならまだしも、彼女が突然そんな事を言ってきたので、ユリエルは非常に困惑した。
今までこんな怒る姿を見せたことがないのに、一体どうしたのだろうかと。
「おいおい、何をそんなに怒っているんだ? 言っただろう。外泊が多くなっているのは仕事の影響だと」
彼女の怒りを和らげるため、ゆっくりと落ち着いた口調で彼は言葉を発したが、その言葉はますます彼女の怒りを助長するだけだった。
「よく、そんな嘘を言えるわね。今まで私を騙してたくせに!」
「嘘……? 騙してたって一体……?」
「私は、あなたの事を信じてた。ずっと、仕事だと思って、何も言わなかった」
その言葉を言うと、彼女の目から涙が溢れ始めた。
「でも、あなたの言葉は全部嘘だった。酷い。酷すぎるわ!」
一体、どうして彼女はこんな感情的になるのだろうかと、ユリエルは全く理解できなかった。そして、彼女から責立てられる事に、彼も徐々に怒りを感じ始めていた。
「じゃあ、私が嘘を付いている証拠でもあるのか! 一方的に責められて不愉快だ!」
ユリエルは椅子から立ち上がると、彼女に負けないくらいの大声を出して荒げた。
「証拠? ならご自身の胸によく手を当ててみて! 一緒に観劇へ行くつもりだった日、あなたはあの会場で何をしてらしたの?」
そう言われると、ユリエルはギクリとした表情を浮かべた。彼女から、何の観劇を観に行くか聞いていなかったが、まさか……
「あなたが行けないと言っていたあの日、私は見たの。あなたが年上の女性と楽しそうにおしゃべりをして、その上更にキスをしてるのを!」
ユリエルは言葉に詰まった。
反論できない彼を見て、やはりあれはユリエルだったと確証したクリスティーヌは続ける。
「正直に話して。あなたの隣に座っていたあのブルネットの女の人は誰? どうしてずっと私から離れてるの?!」
彼は目を瞑り、参ったなという顔をした。だが、はぁとため息をつくと開き直ると次のように語った。
「あぁ、そうだ。その劇場にいたのは私だ」
彼によると、一緒にいたのはある未亡人で、以前からそういう関係にあったと。そして、驚く事に、彼女の他にもそのような女性がいると告白した。
クリスティーヌは唇をキュッと噛むと、わなわなと震えた。
「そんな……あなたは、私だけはなく、彼女たちがあなたの事をどんな風に思っているのか、どんな気持ちであなたを愛しているのかを考えたことがあるの?」
すると、ユリエルは困惑したり、申し訳なさそうな顔をするどころか、彼女を小馬鹿にするようにハハハと笑った。
「気持ち? そんなもの最初からありはしないさ。それに、彼女たちだって、私と寝ているのはあくまでもゲームだ。恋だって? 愛だって? 馬鹿馬鹿しい!」
実際、ユリエルは彼女たちのことはこれっぽっちも愛してなんかいなかった。彼女たちとはあくまでも体だけの付き合いで、それ以上の感情を懐く事はなかったのだ。
一方で、彼女たちはユリエルの心を落とそうと必死だった。そして、彼はその事を知っており、自分は彼女たちを愛すことは未来永劫ないのに、なんと愚かなという目で彼女達のことを蔑んでいた。
「私はゲーム感覚であなたの事を思ったりはしなかった。本当にあなたの事を愛してた……それなのに!」
その言葉に、何故かユリエルは何かを思い出したような表情をした。しかし、それは一瞬だけで、直ぐに険しい表情へと変わった。
「ならば、愛する相手を間違えたようだな。私だって、初めは君のことを愛そうと努力した。だが、君は退屈すぎるし、重い。そして、残念なことに、私はもう君のことはそれほど好きではない!」
彼から発せられたその言葉は、まるでとどめの剣だとでも言うように、彼女の心をぐさりと突き刺した。
彼女は唇をへの字に曲げる。そして、両手で自分の顔を覆うと、この場には居られないと自室から飛び出していった。
◆◆◆
一方でラウルは、恋敵である兄に助けを求めるなんて、やはり自分は情けない人間だなと思いながら、項垂れるようにして屋敷の庭のベンチに腰掛けていた。
もし、エルがこの場にいたら、なんていうだろうか。
「情けねーな。ラウル。男ならシャキッとしろ。女の子なんて他にもいるだろ!」
きっと、こんな風に自分を励ましてくれるんじゃないかと思っていた。
「本当に彼が一緒に居てくれたらなあ」
眩しいものでも見るように、目を細めながらそう呟くと、後ろの茂みの方からガサッとがした。突然の物音にラウルはびくっとし、恐る恐る様子を伺う。
すると、茂みの向こうには彼に背を向けてシクシクと肩を震わせ泣いている女性がいた。
「ク、クリスティーヌ?」
後ろから声がした。彼女は、両手で顔を覆ったまま、声のした方向にゆっくりと振り向く。手を下げ、声の主を確認すると、それは心配そうに見つめるラウルの姿だった。
しかし、彼女はそれがユリエルではなかった事に落胆していた。彼が追いかけてきてくれるのではないかと、彼女は心の奥の何処かでそう思っていたのだ。
だが、それは虚しい幻想だった。
「どうしたの……また泣いて。兄様が君の部屋に行ったと思ったんだけど……」
すると、彼女はふふふと皮肉交じりの声で笑い
「あなたのお兄様は最低よ」
そう言って、劇場で見たこと、彼に愛人が複数いる事を話した。
「そんな、信じられない……!」
ラウルは二つの気持ちが入り乱れていた。一つは、いつも優しい自分の兄がそんな非道な人間だったと信じたくない気持ち。もう一つは、目の前の哀れな女性を労わる気持ち。
「あなたは、自分のお兄様だから信じられなくて当然よ。でも、でも……」
そう言うと、彼女はまたしても泣き出してしまった。
だが、なんて言葉をかければいいかわからない。では一体どうすればいいのか。こんな時に答えが見つからないなんて……やはり、自分は情けない男だとラウルは悔しさを感じていた。
かと言って、愛する女性が傷ついているのを見て、ラウルは放っておける訳がなかった。
彼女のことを大事にしてくれないのにも関わらず、兄を深く愛しているクリスティーヌ。彼女の純粋な気持ちが、叶わぬ自分の恋心と交差してラウルの心をぎゅっと締め付ける。
すると、夏の夕立で雷鳴が轟くように突然、ラウルはある衝動に駆られると、自分でも思いもよらぬ行動にでるのであった。




