19.虚像に彩られた宮殿
エルがあと二、三日で田舎に帰ることになるとなった日。
パリは十分見て回った。
今度はヴェルサイユ宮殿に連れて行って欲しい。なんでも、王妃付きの近衛連隊に物凄く美形の人物がいるらしいってローズから聞いたんだ。その人を見てみたい!
とエルはアーロンにおねだりをしていた。
「連れて行くには構わないが、我が家は宮殿の中までは入れない」
今度はそれかという顔をしつつも、アーロンは冷静にそう答えた。
「なんで?」
「我が家は貴族ではないからな。それに、クリスティーヌの知り合いといって、簡単に入れるものでもないのだ」
その言葉にエルはムスッとした。また、父親は嘘を教えているのだろうかと彼は思ったのだ。
「お義父さまのおっしゃってることは本当よ」
不機嫌なるエルの顔を見たクリスティーヌが、アーロンのフォローに回る。
「ヴェルサイユという所はとても格式の高いところよ。だから、簡単に王様や王妃様に会えるものではないの」
「へー。でも、クリスティーヌは会ったことあるの?」
「会ったことがある……というよりも、お見かけしただけだけど」
彼女の実家は、ヴェルサイユ宮に上がれる許可はかろうじて貰ってはいたが、それにはかなりの財力が必要だった。
しかし、それを保っていられるだけの力はなかった。彼女の父親が亡くなってしまってからは、すっかり宮廷から遠ざかってしまっていたのだ。
「ふーん。でも、見たことはあるんだ、それじゃあ近衛連隊の人も?」
「ええ、遠目からだったけど、素敵だったわぁ」
そう言うとクリスティーヌは手を組み、目をキラキラと輝かせた。
コホンとアーロンは軽く咳払いし
「で、王や王妃には会えないが、ヴェルサイユ宮には行くのか?」
そう聞いた後、なぜか彼は自分は行きたくないのだがと言った。
「うん、会えなくても構わないから行ってみたい!」
「そうか、わかった。では、馬車の手配をしよう。多分、後悔すると思うがな」
◆◆◆
アーロンの手配してくれた馬車に揺られ、エルとキースはヴェルサイユ宮殿に向かった。
この日はヴェルサイユ宮殿までだというのに、アーロンをはじめとして、おじの誰も付いてこなかった。エルは逆にその方が伸び伸びできると喜んだ。
馬車が宮殿に到着する。
確かに宮殿内は立ち入りが禁止されていたが、庭は一般開放されており、きちんとした格好のものであれば、自由に出入りする事ができた。
エルはついにここにも来た! と目を輝かせて喜んだ。そして、情景を楽しむためにゆっくりと足を地につけると、ふと、黒い物が横切っていった。
なんだったんだろう。ゴミが飛んで来たのかな? まぁ、いいか。それよりも早く見学したいと思いながら、彼はその場をやり過ごした。
この広大な庭園を楽しむためにわざわざ作ったという、ガイドブックを片手に持つキースに連れられて、エルは宮殿の周りを歩いてみる。
しかし、思ってもいなかった光景にエルとキースは愕然とした。
なぜなら、宮殿の煙突からはゴウゴウと煙がでており、壁も至る所が痛んでいるようだった。
さらには窓からはパタパタと何かがはためいている。目を凝らすと洗濯物だった。それはその窓だけではなく、多くの他の窓からも同じ光景が見られた。
また、洗濯物がない窓には、虫除けのゼラニウムらしきものがあった。
らしきもの……というのも、環境に強いゼラニウムは手入れがかからないというのも好まれる理由の一つなのだが、その窓にあったのは無残にも枯れ果てた状態だった。
さらには、噴水の水もパリの屋敷のものは異なり、綺麗な色をしていなかった。むしろ黒い。
「なんだこれ……こんな所に王は住んでいるのか?」
エルは思わず呟いた。
「僕もうっすら聞いていたけど、まさかここまでとはね。王様も錠前小屋で寝泊まりしてるっていう噂は強ち嘘でもなさそうだ」
キースも信じられないという表情をしている。
きっと、自分の家があれだけ大きくて凝った作りなのだから、宮殿はもっとすごいに違いない。
壁は全てツヤツヤと輝く白い大理石を使用しており、柱はまばゆい黄金、庭には様々な植物が咲き乱れ、サァァっと大きく白い水を吹き上げる噴水、そして、着飾った人々が歩く。
そんな様子をエルは想像していたが、実際は屋敷の方が遥かに、いや、ずっと遥かに衛生的な意味でも綺麗だった。大きさはもちろん、ここの方が断然大きいのだが。
「なんか、思ってたのと違う……」
そう言って、エルが噴水のヘリに腰掛けようとすると、また黒い物が通った。さらに、噴水の中には何かがプカプカと浮いている。
よく目を凝らしてみると
……ネズミの死体だ。
ぎゃっ! と思わず声を上げて、エルはキースに抱きついた。
そして、草むらの方に目を向けると、何匹ものネズミたちがいた。しかもかなりの大きさだ。
もちろん、田舎でネズミは何度か見た事があった。だが、彼らはとても小さく、しかも遠慮がちだ。人が多い所ではあまり見なかった。
ただ、それでも厩舎では時々見かけることがあったので、駆除用に猫を飼ってみたら全く見なくなった。
ちなみに、春に来たのでプランタンと名付けられたその猫は、全身グレーで、体格は大きいが全体的に丸っこく、鼻はぺちゃっとしているのでお世辞にも可愛いとは言い難く、また、しょっちゅう毛づくろいばかりしていた。
しかし、ネズミの気配を一度感じればスクッと立ち上がり、腰を低くしビュンッと飛びかかる、なかなか優秀なハンターだった。
だが、ここのネズミたちは、図々しくも自分たちも住人だと言わんばかりに目の前を通っていく。
さらに、田舎はもちろんパリで見かけたものより、ずっと大きかった。きっと餌が豪華なため栄養状態が良いのだろう。
そして、彼らを狩るはずの、飼われているのか野良なのかわからない猫たちも、お腹いっぱいとでも言いたげに、呑気に日向ぼっこしている。目の前に獲物が通っているというのに。
「父上がここには来たくないって、言ってた理由がわかった気がするよ」
エルは地面をチラチラ見ながら、黄色いドレスのスカートの中に、ネズミが入ってこないように両手で持った。
「そうだね。じゃあ帰ろうか」
キースも素直に同意した。
「そう言えばさ、王妃もこのボロ宮殿に住んでるの? 信じられないけど」
「あぁ、王妃様はね、見てごらん」
庭の遥か彼方に向かって、キースは指を向ける。
「ここからずっと先に、プチ・トリアノンていう所があって、そこに今はいるらしい」
「へぇ。そこもこんなに大きいの?」
「いや、建物自体は小さいみたい。でも、田舎風の作りで、農業や家畜の世話をして農民ごっこを楽しんでるんだって」
「じゃあ、王妃も羊とかヤギとか追いかけてるのかな」
「いや、それはさすがにないと思うけど……それよりも、あそこにはもっと限られた人たちしか入る事ができないらしいよ」
「えっ、そうなの。すごく厳しいんだな。ヴェルサイユのルールって」
そう。確かにヴェルサイユは厳しい。だから、自分だけの世界を作りたくて、王妃様はあそこに逃げたんだとキースは言う。
そして、王妃様の楽園へ入れてもらえなかった人たちは、貴族であるにも関わらず、王妃様から心が離れていっているらしい……とも。




