【第9話】ヒ素鏡
オズワルド・マーサー氏の屋敷。
その豪奢な食堂には、重苦しい静寂と不穏な空気が満ちていた。
長いダイニングテーブルの上座にはルーカスが座り、その向かいには後妻のカミラが腰を下ろしている。
「ルーカスさん。すっかりお加減が良くなられたようで、本当に安心しましたわ。オズワルド様が亡くなられたばかりで、あなたまで倒れてしまったらどうしようかと……」
カミラは未だ黒い喪服に身を包みながらも、その華やかな美貌に心配そうな表情を浮かべてみせた。
「ええ、義母上。ご心配をおかけしました。父上が亡くなったことの精神的なショックが大きかったようですが、もうすっかり体調はよくなりましたよ」
ルーカスはヴァレリアンの迅速な処置によって、急性の中毒症状は驚くほど速やかに治まり、彼はこの『おとり捜査』の役を演じることを引き受けたのだ。
「それは何よりですわ。病み上がりのルーカスさんには、あっさりしたものを私が作りましたの。さあ、冷めないうちに召し上がって」
「はい、義母上」
カミラが優雅な手つきで勧めたのは、ルーカスの目の前にだけ置かれた、野菜メインのポトフだった。
ルーカスは静かにスプーンを手に取り、スープとともにニンジンをすくった。
そして、ゆっくりと口元へ運ぼうとした、その瞬間だった。
「そこまでだ!」
食堂の重厚な扉が勢いよく開かれ、怒気を孕んだ声が響き渡った。
カミラが驚いて振り返る。
踏み込んできたのは、ライゼンハイマー伯爵家当主にして騎士団長のセオドア様、副団長のニクラス、そして数名の騎士たちだ。
私はその後ろに、静かに付き従っている。
「き、騎士団の皆様……!? 一体何事ですの!? 突然我が家に踏み込んでくるなど、無礼ではありませんか!」
カミラが立ち上がり、声を荒らげた。
「無礼を承知で参った。ルーカス殿、そのポトフを口にしてはならない」
セオドア様が厳しい眼差しでカミラを射抜く。
「カミラ殿。我々は亡きオズワルド氏の墓から彼のご遺髪を採取し、解析を行いました。その結果、ご遺髪からは致死量に至る恐るべき毒物が検出されました。オズワルド氏は病死ではなく、毒殺されたのです」
「……っ!」
毒殺という言葉に、カミラの顔から一瞬だけ血の気が引いた。だが、彼女はすぐに持ち直し、気丈な態度で反論をのべた。
「墓を暴いたですって!? 騎士団ともあろう方々が、なんて恐ろしい冒涜を。それに、毒が検出されただなんて……一体誰がそんなひどいことを!」
「カミラ殿……我々はあなたが犯人だと考えています」
その言葉を受けたカミラはセオドア様をキッと睨みつけ、さらに言葉を続ける。
「そもそも主人はずっと医者にかかっていたのです。医者の診察でも見抜けなかった毒を、どうやって見つけたというのです? そんな戯言、私を貶めるための、誰かの陰謀としか思えません!」
カミラの主張は、これまでの騎士団の捜査方法であれば、反論の余地はなかったであろう。
私は胸ポケットから銀縁の片眼鏡を取り出し、右目に装着しながら一歩前に出た。
「あなたは……?」
「ライゼンハイマー伯爵家の執事、ヴァレリアンと申します。……では奥様、我々の主張が戯言でないことを、今ここで証明いたしましょう」
私は食卓の上に、小さな木箱を置いた。
中から取り出したのは、ロザリンドの工房で作った『マーシュ試験器』だ。
「な、なんですかその奇怪な道具は……」
「見えない毒を、目に見える形に引きずり出すための装置です。まずはこの装置に、最初から毒などしこまれていないことを証明しましょう。どなたか、窓を開けて風魔法で常に換気をお願いします」
私はガラス瓶の中に、持参した緑礬油と亜鉛の欠片だけを投入し、しっかりと蓋を閉めた。
ジュワワワッ、という音とともに、ガラス管の先端から勢いよくガスが吹き出し始めた。
「今からこのガスに点火しますが、よくご覧ください」
私は指先から微弱な火魔法を放ち、ノズルの先から出るガスに火をつけた。
チロチロとオレンジ色の小さな炎が上がる。
私は炎の先端に、清潔な白い陶器の皿をかざした。
「毒が含まれていれば、この皿にある変化がおきます」
食堂に沈黙が降りる。
数分の間、炎はただ皿を炙り続けたが、少し煤がつく程度で何も変化は起きなかった。
「……ご覧の通り変化はありません。これで、私が今使った薬品の中には、毒が一切含まれていないことが証明されました」
私は一度火を消し、カミラを静かに見据えて冷たく告げた。
「それでは今あなたがルーカス殿にすすめておられた、そのポトフではどうなるでしょうか?」
「私の料理に毒なんか入っていないわ! 部外者が勝手に触らないで!」
カミラが血相を変えて立ち上がろうとするが、両脇を固めるように立った騎士たちに肩を押さえられ、その動きを封じられた。
私は彼女の制止を完全に無視し、ルーカスの前に置かれたポトフの澄んだスープをスプーンですくい取った。
スープをビーカーに移し、水魔法で希釈する。
私はそれを、試験器のガラス瓶へと静かに流し込み、再びしっかりと密閉した。
再び、ジュワワワッ、という激しい音とともに、先ほどよりもはるかに勢いよく、ガスがノズルの先から噴き出し始めた。
私は右目の片眼鏡をスッと押し上げ、その噴出口に火魔法で点火した。
ボワッ!
「……炎の色がっ!」
セオドア様が息を呑む。
先ほどのブランクテストではオレンジ色だった小さな炎が、今は不気味な『青白い炎』となって燃え上がっていた。
「スープに溶け込んでいた毒の成分が、薬品と反応して気体となり、吹き出している証拠です」
私はその青白い炎の先端に、先ほどと同じ白い陶器の皿をかざした。
「もしスープの中に毒である『ヒ素』が入っているならば、この陶器の皿に明らかな変化が起こります」
そしてほんの数秒後……。
私が炎から皿を離して裏返すと、真っ白だった陶器の表面に、黒光りする鏡のような被膜がべったりと円形にこびりついていた。
「ヒ素は半金属と呼ばれる性質を持ち、純粋な単体として固まると、このように強い金属光沢を放つのです。この『ヒ素鏡』こそが、オズワルド様を死にいたらしめた毒そのものです」
私がカミラの目の前にその黒光りする『ヒ素鏡』を突きつけると、彼女の顔から完全に感情が抜け落ちた。
「あ……ああ……」
カミラはその場で力なくうなだれた。
「言い訳は法廷でするんだな。連行しろ」
セオドア様の冷徹な命令が下り、二人の騎士が彼女の両脇を固めて立ち上がらせた。完璧な未亡人の仮面は砕け散り、そこにはただ怯えるだけの罪人がいた。
「セオドア様……そしてヴァレリアン殿。本当に、何と御礼を申し上げればよいか……」
ルーカス殿が目に涙を浮かべながら、深く頭を下げた。
「礼には及ばない。オズワルドの無念を晴らすことができたのは、君が勇気を出して我々の元へ駆け込んでくれたからだ。まずはゆっくり休んで、父上の遺した商会を立て直してくれ」
セオドア様が優しく彼の肩を叩く。
私は静かに一礼し、食卓の上の試験器を木箱に片付けると、主人の後に続いて食堂を後にしようと踵を返した。
「待て、ヴァレリアン。いや、ヴァレリアン殿」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、ニクラス副団長が私に向かって真っ直ぐに歩み寄ってくる。
彼は私の目の前で立ち止まると、何も言わず、ただスッと右手を差し出した。
それは身分を超えた一人の男としての、そして真実を重んじる騎士としての無言の敬意だった。
私は少しだけ目を丸くした後、微かに微笑み、彼が差し出したその手をしっかりと握り返した。
無骨で分厚い騎士の手と、手袋越しの執事の手。
言葉はなくても、確かな信頼がそこに結ばれていた。
――
数日後。
ライゼンハイマー伯爵家の執務室には、穏やかな朝の陽光が差し込んでいた。
「どうやら、ようやく事件の全容が世間に公表されたようだな」
セオドア様がソファで朝刊を広げながら、ふぅと息を吐いた。
「はい。記事によれば、カミラは毒物が『ヒ素』という名前だとすら知らなかったようですね。さらに、若い恋人までいたとは」
私はセオドア様のカップに温かい紅茶を注ぎながら、記事の内容に目をやった。
カミラは王都の裏稼業の売人から、「流行り病のように、じわじわと衰弱死させることができる薬」として、ヒ素を高額で購入していた。
彼女自身はそれが何であるか理解しないまま、言われた通りにオズワルドとルーカスの食事に少しずつ混ぜていたのだ。
科学捜査のないこの世界では、その手口は完全犯罪になるはずだった。
「己の強欲のために、得体の知れない毒に手を出し破滅する。愚かなことだ」
セオドア様が紅茶を一口飲み、静かに目を閉じた。きっとオズワルドを偲んでおられるのだろう。
「ええ、まったくです。……ですが、どんなに巧妙に隠された毒であろうとも、真実を映し出す科学の目からは、決して逃れられないのです」
私は胸ポケットの片眼鏡に軽く指先で触れ、窓の外の青空を見上げた。




