【第7話】本当の死因
ライゼンハイマー伯爵家の執務室には、重苦しい空気が漂っていた。
セオドア様が、知人である豪商の葬儀から帰還されたばかりだったからだ。私は主の上着を受け取りながら、静かに労いの言葉をかけた。
「セオドア様、お疲れ様でございました。温かい紅茶をご用意しております」
「ああ、ありがとうヴァレリアン。それにしても、あまりにも突然のことだった」
セオドア様はソファに深く腰を下ろし、ネクタイを緩めながら疲れたように息を吐いた。
亡くなったのは、王都で手広く商売を行っていた六十代の豪商、オズワルド・マーサーだ。セオドア様とも付き合いがあり、つい半年前、カミラという二十代前半の若く美しい女性を後妻に迎えたばかりだった。
当時その婚姻に関するお祝いの手続きを、セオドア様に代わって私が手配したため、よく覚えている。
前世の知識を持つ私は、その極端な年齢差の婚姻と聞いて、カミラが遺産目当てで入り込んだのではないかと、変に勘ぐってしまったものだが、まさか本当にこんなにも早くオズワルドが亡くなるとは。
数日前に体調を崩したと聞き、見舞いの品を手配した矢先の出来事だった。
「死因は、やはり最近流行している腹下しの病でしょうか?」
私が紅茶を差し出しながら尋ねると、セオドア様は険しい顔で頷いた。
「医者の見立てではな。だが、あまりにもむごい最期だったそうだ。水を飲んでもすぐに吐き戻し、喉が焼けるように痛いと一晩中苦しみ抜いたらしい」
激しい嘔吐に、焼けるような喉の渇きと痛み。
その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に前世の記憶が鮮明に蘇った。
(これはただの病死ではないかもしれないな……)
コレラなどの感染症によく似たそれらの症状は、急性薬物中毒の典型的な特徴だ。
前世の世界において、十八世紀から十九世紀にかけてヨーロッパで猛威を振るった恐るべき毒物がある。
無味無臭であり、当時の医学では病死と区別が困難だったことから、暗殺に多用された粉末。
その手軽さと、富を手に入れるための凶器として使われた歴史から、その粉末は『遺産相続の粉』と呼ばれていた。
そう、それはすなわち『ヒ素』である。
もしあの若き後妻カミラが、遺産を早く手に入れるために夫の食事にヒ素を混ぜていたとしたら……。
「どうした、ヴァレリアン? 怖い顔をして」
「いえ、申し訳ございません。少し気になることがありまして」
コンコンコン……。
「セオドア様。騎士団からお客様です」
執務室のドアがノックされ、マリエラの穏やかな声が響く。
「通せ」
セオドア様が応じるとドアが開き、アシュトンが一人の若い青年を伴って部屋に入ってきた。
青白い顔をしているその青年には見覚えがあった。亡くなったオズワルドの先妻の息子、ルーカスだ。
「どうされた、ルーカス殿? 本日の葬儀で喪主を務めていたが、そちらはもうよいのか?」
「それが、葬儀が終わった直後に騎士団本部に助けを求めて駆け込んできたのです。セオドア団長に直接お話ししたいと言って聞かないので、ニクラス副団長の指示でこちらへお連れしました」
セオドア様の問いに、アシュトンが事の経緯を手短に説明する。
「セオドア様。どうか、どうか父の死の真相を、調べてくださいっ!」
ルーカスは突然床にひれ伏し、必死にセオドア様に懇願した。
「父は病死なんかじゃありません! あの女に、新しい母のカミラに、殺されたんです!」
「なんだと?!」
セオドア様が驚愕に目を見張る。私は青白い顔のルーカスの様子を冷静に観察した。
額には脂汗が浮かび、小刻みに震えている。そして彼は胃のあたりにずっと手を添えている。
「実はここ最近、私もずっと体調が悪いのです。父が亡くなる前に苦しんでいたのと全く同じように胃が痛み、吐き気が止まりません……」
「君も同じ症状が出ているというのか。あの屋敷で何かの病が蔓延しているのでは?」
「違います! 医者は感染症などではないが、原因はわからないといいました。症状が出たのは父と私だけです。それも、あの女が来てからです! 父の遺産と事業を狙って、私まで始末して全てを乗っ取るつもりに決まってます!」
ルーカスの叫びに、執務室は静まり返った。
「わかった。ただ捜査を進めるかは、騎士団全体での会議が必要だ。すぐに首を縦にはふれない」
確たる証拠はない。
しかし、状況はあまりにも黒に近かった。
私は静かにルーカスに歩み寄り、胸ポケットから銀縁の片眼鏡を取り出して右目に装着した。
その冷たいガラスの感触が、私の意識をただの執事から科捜研の解析班へと切り替える。
(脱水を起こしているな……感染症ではないのに、この症状。ほうっておくと危険だ)
「アシュトン様。至急、彼を別の安全な場所へ移し、絶対安静にさせてください。そして、屋敷から持ち出してきたものを口にすることは一切禁じます。水の一滴にいたるまで、我々が用意したものだけを与えてください」
「えっ? あ、はい! 分かりました、ヴァレリアンさん!」
私が有無を言わさぬ口調で指示を出すと、アシュトンは慌てて頷き、ルーカスに肩を貸しながら部屋を退出していった。
「ヴァレリアン。お前、今の話を信じるのか?」
セオドア様が険しい視線を私に向ける。
「少なくとも、彼がただの流行り病ではない可能性は高いと考えます。意図的に何らかの毒を盛られているとすれば、すぐに屋敷から引き離さなければルーカス様の命も危ないでしょう。……セオドア様、もし本当にあの若き後妻が彼の毒殺を目論んでいるのだとすれば、それを確かめる方法がございます」
「確かめる方法?」
「はい……それはつい先ほど埋葬されたばかりの、オズワルド様の墓を暴くことです」
私の言葉に、セオドア様は静かに息を呑んだ。
「……ヴァレリアン。埋葬された死者の眠りを妨げることは、神と法への重大な冒涜だ」
「重々承知しております。ただの可能性だけで、ご遺体を掘り起こすような真似をしてよいのか、私自身も葛藤しております。ですが、先ほどのルーカス様の姿をご覧になったはずです。このまま見過ごせば、彼もまた毒牙にかかり、命を落とすことになるかもしれません。今の時点で屋敷を捜索することができない以上、毒殺を証明する証拠は、亡くなったオズワルド様のご遺体にしか残されていません」
ほんの少しの静寂が、セオドア様の葛藤を物語る。
「やりましょう、団長」
そう答えたのは、いつの間にか開いたままのドアの前に立っていた、ニクラス副団長だった。
アシュトンをこちらに向かわせた後、彼も後を追ってきていたのだろう。
彼はギュッと拳を握り締め、セオドア様をじっと見つめている。
「ただの流行り病で片付けられ、殺されたかもしれない男が無念のまま土の下に埋まっている。そして今、その息子も同じように命を狙われ、苦しみながら我々に助けを求めてきたかもしれないのです……」
ニクラスのその瞳には、騎士としての熱い正義感が炎のように宿っていた。
「ここで保身に走り、神や法を言い訳にして彼を見捨てるようなら、我々騎士団の存在意義などありません!」
ニクラスはそう言い放つと、なんと私に向かって深々と頭を下げた。
「執事。いや、ヴァレリアン。私から頼む! どうかお前のその知識で、彼らを救い、真実を暴いてやってくれ!」
子爵家の出であり、騎士団副団長という立場にある彼が、男爵家の四男の執事に頭を下げる。彼の騎士としての、その矜持に私は強く胸を打たれた。
(ニクラス。あなたは少し頭は固いが、誰よりも誠実な真の騎士だ)
私はそんな彼に、深く一礼を返した。
「承知いたしました。必ずや、真実を引きずり出してみせましょう」
――
その日の深夜。
王都の外れにある共同墓地には、人目を忍ぶようにして動く数人の影があった。
ザクッ……ザクッ……ザクッ……。
分厚い雲が月明かりを隠す中、ランタンの僅かな灯りだけを頼りに、土を掘り返す鈍い音が響いている。
ここにいるのはセオドア様とニクラス、そして彼らが選んだ口の堅い数名の騎士たちだけだ。彼らは額に汗を浮かべながら手分けして土を掘り返し、埋葬されたばかりのオズワルドの棺を静かに地上へと引き上げた。
ギィィ……。
重苦しい音を立てて棺の蓋が開かれる。
中には死に装束に身を包んだオズワルドが、青ざめた顔で横たわっていた。生前の恰幅の良さは失われ、頬はこけ、目は落ちくぼみ、さぞ苦しみ抜いたであろうことが痛いほど伝わってくる。
(やはり、長患いの病死にしては遺体の状態が不自然だ。急激な脱水症状を起こしているように見える)
私は無言で棺のそばにしゃがみ込み、遺体に手を合わせたあと、手袋をはめた手でオズワルドの頭部に触れた。そして、ハサミを使ってひと握りの髪の毛を慎重に切り取る。
ヒ素は摂取すると毛髪や爪に長期間蓄積される性質がある。これさえあれば十分だ。
私が切り取った遺髪を清潔な布に包み込むと、セオドア様が静かに口を開いた。
「ヴァレリアン、証拠はそれでよいのか?」
「はい。オズワルド様が残してくれたこの遺髪が、我々を真実へと導いてくれるはずです」
私の言葉に、ニクラス様をはじめとする騎士たちがホッと安堵の息を吐く。
「……オズワルド。君に何があったのかを我々が必ず解き明かす。だから、もう少しだけ待っていてくれ」
セオドア様が友人の亡骸に向けて深く一礼をし、棺の蓋は再び重く閉じられた。
棺を再び埋め戻し、痕跡が残らないよう念入りに土をならした後、我々は足早に墓地を後にした。
屋敷に戻った頃には、すでに空が白み始めていた。
私は自室に戻ることはせず、そのまま地下の工房へと向かった。実験に必要な薬品の準備を整えるためだ。
「ヴァレリアン様、いらっしゃいますか?」
背後から控えめな声が聞こえ振り返ると、そこにはすでにメイド服に着替えたマリエラが立っていた。彼女の目元には少し疲労の色が見える。
「マリエラ。こんなに朝早くからどうしたのですか?」
「ヴァレリアン様こそ、一睡もされていないのではないですか? 騎士団の方々が動かれていると聞いて、私も何かお手伝いできることがないかと思いまして……わ、私はヴァレリアン様の助手ですから……」
どうやら彼女は、私が夜通し動いていたことを察し、遅くまで起きて待っていたようだ。
「ありがとうございます、マリエラ。では、これから王都の西の外れまで出向きます。あの天才錬金術師の力が必要になりますので」
「ロザリンド様のところですね。分かりました、すぐにお供の準備をいたします!」
マリエラは眠気など吹き飛んだかのように顔を上げ、元気よく返事をした。
(さぁ、本当にあの若き後妻が、遺産に目がくらんだ愚かな殺人鬼なのか、その正体を見極めるのだ)




