【第6話】ルミノール反応
翌日の昼。
約束通りライゼンハイマー邸を訪れた天才錬金術師ロザリンドから、私は小さな小瓶を受け取った。
中には淡い黄色の粉末、『ルミノール粉末』が入っていた。
「ほらよ、約束の品だ。言われた通りにコールタールから合成できたよ」
私はロザリンドと共に庭の隅にある薄暗い物置小屋へと移動し、昨日精製しておいた『灰汁(アルカリ水溶液)』と『過酸化水素水』、そして彼女の粉末を規定の割合で混ぜ合わせた。
完成した透明な試薬を、庭師から借りた霧吹きの中へと注ぎ込む。
「さて、テストをしてみましょう。鉄分に反応して発光するはずですから、そこにある『錆びた鎌』でも代用できるはずです」
私は薄暗い物置の隅に置かれた、赤錆の浮いた古い鎌に向けて、霧吹きを数回吹きかけた。
シュッ、シュッ。
数秒の静寂の後、私は暗闇の中に浮かび上がった『反応』を見つめ、静かに口角を上げた。
「……完璧ですね。素晴らしい技術です、ロザリンド様」
「ふふん、アタシを誰だと思ってるんだい。……それにしても面白いもんだね」
ロザリンドは興味深げに鼻眼鏡を指で押し上げた。
私は懐から革袋を取り出し、彼女に差し出した。
「お約束していた、残りの半金の『五十万エル』です。お確かめください。……これから、実際の事件現場でこの試薬を使いますが、ロザリンド様もご一緒しますか?」
「いいや、遠慮しとくよ。アタシは事件に興味はない」
彼女は革袋をガシッと掴み、中身も確かめずに笑った。
「久しぶりの臨時収入だからね。アタシは昼間から街に飲みにでもいくとするよ。じゃあな、インテリ執事さん。また面白い仕事があればいつでも訪ねてくれ!」
ひらひらと手を振りながら軽やかな足取りで去っていくロザリンドを、私は屋敷の門から見送った。
その時、彼女と入れ替わるようにして、一人の見覚えのある若い騎士が、息を切らせてこちらに向かって駆け込んできた。
アシュトンだ。
「ヴァ、ヴァレリアンさん! 容疑者が二人に絞られました!」
彼の報告によれば、令嬢の屋敷を調べた結果、二人の男が浮上したという。
一人は『被害者の兄』。最近、親族間の金銭トラブルで被害者と激しい兄弟喧嘩をしていたという目撃証言があった。
もう一人は『屋敷の従僕の男』。彼は令嬢の部屋と同じフロアに住み込みで働いており、以前令嬢に恋文を渡した件で被害者と揉めていたという。
「分かりました、すぐに向かいましょう。……マリエラ、あなたも来てください」
「えっ? わ、私ですか?」
玄関の前で私を見送ろうとしていたマリエラが、目を丸くして自分を指差した。
「ええ。昨日のロザリンド様との専門的な話にも、戸惑いながらも一生懸命ついてこようとしていましたね。あなたには、未知の科学を素直に受け入れる素晴らしい資質があります。私の助手として同行してください」
「じょ、助手……! はいっ、謹んでお供いたします!」
マリエラはいそいそと準備をすませ、嬉しそうに私の後ろに続いた。
――
事件の起きた屋敷に到着すると、ニクラス副団長が腕を組んで不機嫌そうに待ち構えていた。
「遅いぞ執事! お前の言う通り、容疑者二人の部屋を隅から隅まで家探ししたが、どちらの部屋も塵一つなく清掃されており、血の痕など一滴も見つからなかったぞ! 本当にあの令嬢の部屋以外で殺されたというのか?」
(なるほど。犯人は、水魔法と雑巾で完璧に血を洗い流し、証拠を完全に消し去ったつもりでいるのだろう。だが無駄だ)
私は手の中の霧吹きを見つめ、内心で静かに断言した。
前世の世界において、1937年。
ドイツの法医学者が、この『ルミノール反応』が犯罪捜査においてどれほど凄まじい効力を発揮するかを、徹底的な実験によって証明した。
彼が証明した事実は、世界中の警察を驚愕させた。
犯人がどれほど念入りに水や石鹸でゴシゴシと血を洗い落とし、肉眼では完全に見えなくなっていたとしても、ルミノールの光からは簡単に逃れることはできない。
木材の隙間や布の繊維の奥に染み込んだ微量な血液、なんと一万倍から十万倍に薄まった血痕にすら、この試薬は鋭く反応するのだ。
さらに、ルミノールは『時間が経って乾燥した古い血』にでも、強く反応する性質を持つ。
血液が乾燥して赤血球が壊れ、反応のスイッチとなる『鉄分(ヘム鉄)』がむき出しになるからだ。
「ニクラス様、部屋のカーテンを閉めきり、できる限り暗闇を作ってください。真実は、自ずと浮かび上がります」
私はまず、兄の部屋から検証を始めた。
愛用の銀縁の片眼鏡を右目に装着し、意識をただの執事から、科捜研の解析班のものへと完全に切り替える。
そして真っ暗になった部屋の中で、床や壁に試薬を噴霧していく。
シュッ、シュッ、シュッ。
「……何も起きないぞ。それは一体、何をやっているのだ?」
「それでは次は、従僕の部屋へまいりましょう」
私はニクラスの言葉に返答せず、移動をうながした。
少し不安そうな顔をする従僕の男の部屋に入り、同じようにカーテンを閉め、暗闇を作る。
私は部屋の中心に立ち、霧吹きを構えた。
(さあ、真実を見せよ、科学の目よ)
シュッ、シュッ、シュッ。
空中に散布された細かい霧が、部屋の天井や壁や床へと静かに降り注ぐ。
数秒の静寂……そして……。
「なっ……なんだこれは!?」
「ひぃぃっ!! ち、血が、血が光っている……っ!」
ニクラス副団長が驚愕の声を上げ、従僕の男が腰を抜かして悲鳴を上げた。
暗闇の中、従僕の部屋の壁と床一面に、不気味なほど美しい『青白い光』が浮かび上がっていた。
それはただ光っているだけではない。
犯人が雑巾で広範囲の血を必死に拭き取った『生々しい拭きムラ(スミア)』の形が、そのままの姿で暗闇に浮かび上がっているのだ。
さらには壁面や天井にまで、頸動脈から激しく血が噴き出したことを物語るように、無数の青白い光が飛沫の跡となって点々と浮かび上がっていた。
「こ、これは……血痕なのか……?」
「お分かりですね、ニクラス様。肉眼では見えなくとも、この部屋にはこれだけの血が残っていたということです。これが科学の目が暴き出した『見えない血痕』です」
もはや一切の言い逃れができない絶対的な証拠を前に、従僕の男はガクッとその場に崩れ落ち、両手で顔を覆った。
「私が……私がやりました……! あんな男よりも、私の方がお嬢様を愛していたのに……っ!」
事件の真相が、またも『科学』の力によって暴かれた瞬間だった。
マリエラはまるで夜空の星でも見るように、息を呑んでその青白い光の痕跡に目を奪われていた。
私は手の中の霧吹きを見つめた。
(ありがとう、前世の偉大なる先人たちよ!)
「さて、私の仕事はここまでです。事後処理は、騎士団の皆様にお任せいたします」
私はいつものように静かに一礼し、マリエラを伴ってその場から立ち去った。
――
屋敷の外へ出ると、太陽はまだ高く、心地よい午後の風が吹いていた。
「すごいです、ヴァレリアン様! あんなこと、魔法でだってできません! あれが科学というものなんですね!」
興奮冷めやらぬ様子で、マリエラが目をキラキラと輝かせながら見上げてくる。
私は少しだけ微笑み、彼女に声をかけた。
「そういえばマリエラ。この後、少し街へ出ませんか?」
「えっ? 街、ですか?」
きょとんとするマリエラに、私は頷いた。
「ええ。前の事件で、あなたの愛用の化粧筆をススでダメにしてしまいましたからね。約束通り、一緒に代わりを買いに行きましょう。もちろん、私がプレゼントしますよ」
「っ……!」
私のその言葉にマリエラは、また顔を耳まで真っ赤に染め上げた。
「い、いいい、一緒にですか!? だ、ダメ! いや、ダメじゃないんです! そ、それってつまり、でででで、デート……」
両手で真っ赤な頬を押さえ、慌てふためくマリエラ。
私は相変わらず彼女がなぜここまで動揺するのか不思議でならなかったが、とりあえずは歩みを進めることにした。
「さあ、行きましょうか」
「あ! ま、待ってくださいヴァレリアン様ぁ〜っ!」
こうして私たちは、賑やかな王都の街へと二人で繰り出していったのだった。




