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【第5話】森の中の錬金術師

『錬金術師』


それはこの異世界において、最高の魔法技術と頭脳を持つ者に与えられる、栄誉ある称号である。


この世界の人々は誰もが魔法を使えるが、それは俗に言う生活魔法レベルだ。しかし、錬金術師の魔法の威力と精度は常人のそれを遥かに凌駕する。


そんな錬金術師たちがいるにもかかわらず、この世界の科学技術は、前世でいうところの十八世紀程度の水準で止まってしまっている。


原因は明白だ。


この異世界には魔法や、魔獣から採取できる魔石といった独自の技術が太古から存在していたからだ。


ガスバーナーの代わりに火魔法が、電気の代わりに魔石エネルギーが普及しているように、人々はわざわざ研究開発をすることなく、それらの技術を当たり前のものとして日常的に使い続けてきた。


そのため、前世の歴史では必然だった「産業革命(蒸気機関などの動力革命)」が起きる必要がなかったのだ。


錬金術師たちは魔法を活用しながら、もの作りや知識の探求に没頭していると聞く。だがその研究対象は、長寿や黄金の生成など、前世の歴史で錬金術師たちが追い求めていたものと大差がないように思える。


その結果、生活は豊かで近代的なのに、顕微鏡のような純粋な観察器具や、原子・分子といったミクロの基礎科学だけが全く育っていないという、魔法社会ならではの「技術のいびつさ」が、この異世界には存在しているのだ。



――



王都の西の外れ。


木々が鬱蒼と茂る森を抜け、私とマリエラは一軒の山小屋にたどり着いた。


「ここが、その錬金術師の工房ですか」


(丸太組みか……見た目はまるでログハウスだな)


コンコンコン……。コンコンコン……。コンコンコン……。


数回ノックをしても返事はなく、私たち二人は顔を見合わせてしまった。


「お留守でしょうか?」


少し困った顔をするマリエラを見ると、今日はいつもより、しっかりと化粧をしているようだった。


(こうして見ると、本当に美しい女性だな。傍から見れば、父と娘に見えていることだろう)


そんなことを考えながらしばらく辺りを見回していると、小屋の中からガサガサと物音が聞こえてきた。


ドスドスドス……ガチャ!


「なんだい、うるさいね! 今手が離せないんだよ!」


突然小屋のドアが開かれ、中から一人の女性が現れた。


「……ん? なんだあんたら、客かい? ……ビシッと決めたイケメンと美人とは、どっかでパーティでもあんのかい?」


私はその女性の姿を見て、わずかに目をみはった。


化粧っ気は全くないが、長いまつ毛とスッと通った鼻筋を持つ、モデルのような圧倒的美女だった。色素の薄いプラチナブロンドの髪を、なんと巨大な木製の『洗濯バサミ』で無造作にアップにまとめている。


長身で細身でありながら、出るところはしっかりと出ている理想的なプロポーション。


黒いシャツに黒いスラックス、足元も黒のブーツと全身を黒で統一し、その上に薬品の染みがいくつも付いた真っ白な白衣を羽織っている。


「ライゼンハイマー伯爵家で執事を務めております、ヴァレリアンと申します。あなたが錬金術師の、ロザリンド・フォスター様でいらっしゃいますね?」


「いかにもアタシがロザリンドだが……お貴族様の使いがこんな森まで何の用だい?」


ややけだるげな姉御口調で、彼女はアイスブルーの瞳を細めた。


彼女が動くたびに、リムレス眼鏡の両端から垂れた、銀色の細いチェーンが小さく揺れていた。


私が用件を切り出そうとしたその時、室内の様子が目に飛び込んできた。


そこは足の踏み場もないほどに散らかっていた。床には無数の本や書類が積み上がり、得体の知れない薬品が入った瓶や作りかけの魔導具らしきものが、机の上に散乱している。


そして私の視線は、部屋の壁の大部分を占める『巨大な黒板』に釘付けになった。


そこには、無数の六角形の輪や、それらを繋ぐ線、そしてアルファベットのような記号がびっしりと書き殴られていた。


マリエラにとってはただの落書きにしか見えないだろう。だが、前世の記憶を持つ私には、それが何であるか一瞬で理解できた。


「あれは……『分子の構造式』。六角形はベンゼン環だ……」


私が思わず呟いた言葉に、ロザリンドの肩がピクリと跳ねた。


「……あんた、今なんか言ったかい?」


「いや失礼。思わず黒板の記述に目を奪われ、素晴らしい考察だと感心しておりました。まさかこの世界で、万物を構成する極小の粒子の結びつき……ひいては、生命の体内にある『遺伝の設計図』の構造にまで考えを巡らせている方がいるとは」


その瞬間、ロザリンドの瞳にパッと眩い光が宿った。


彼女はすごい勢いで私に詰め寄ると、ガシッと両手で私の肩を掴み、顔がくっつくほどの至近距離まで身を乗り出してきた。


「あんた、あれが分かるのかい!? そうさ、人間が親に似るのは魔力のせいでも、偶然でもない! 体の中に情報を伝えるための小さな小さな設計図があるからなんだ! 王宮の連中には誰も理解できなかったのに、あんたただの執事じゃないね!?」


子どものように無邪気な笑顔で熱弁を振るう彼女から、ほのかに甘い薬品の香りが漂う。


「ち、近いですっ! ヴァレリアン様にそんなにくっつかないでくださいっ!」


ロザリンドの圧倒的な美貌と、自分には入り込めない会話の領域に危機感を覚えたのか、マリエラが顔を真っ赤にして私たちの間に割って入った。


彼女は両手を広げて、必死に私を庇うように立っている。


「おや、ご同伴のお嬢さんは少しヤキモチ焼きかい? ごめんよ、アタシの理論を分かってくれる奴に初めて会えたもんで、つい嬉しくなっちまってね」


カラカラと笑いながらロザリンドは身を引き、鼻眼鏡を指で押し上げた。


「……それで、あんたのようなインテリがアタシに何の依頼だい?」


「はい。実は、血液に反応して発光する、ある特殊な試薬を作りたいのです」


血液の中にある鉄分に触れることで急激な酸化分解を起こし青白い光を放つ、そんな魔法のような効果を発揮する試薬の主原料となる粉末。


(ろくな顕微鏡もないこの世界で一から作らせるのは無謀かと思われたが、彼女の知的好奇心を刺激する『私の前世の歴史』をヒントとして与えれば何かをつかむかもしれない)


そして私は彼女に、今回必要としている『ルミノール粉末』発見の経緯について説明を始めた。


「私が以前読んだ書物によれば、その薬品は最初から血液と反応させるために作られたわけではないそうです」


「ほう……」


「もともとは、石炭の燃えかす……つまりコールタールから、人工の美しい染料を作ろうとする研究の中で、無数に生み出された失敗作の化合物のひとつに過ぎませんでした。当時はただの黄色っぽい粉であり、血液に反応することなど誰も知らなかったのです」


「ふむふむ……それで?」


「それから長い年月が経ち、全く別の学者がその粉に様々な薬品を混ぜて酸化させる実験をしていたところ、暗闇で青白く発光する性質があることに気が付きました」


「……!」


「そして、さらなる奇跡の偶然が重なります。その学者が『何を混ぜればもっと強く光るだろうか』と様々な物質を試した結果……人間の『血液』を落とした瞬間に、他のどんな物質とも比較にならないほど、爆発的な光を放つことが発見されたのです」


「ははっ……産業廃棄物から生まれた粉が、発光する性質を持ち、それが血液の成分と劇的な反応を起こす……。なるほど、奇跡の構造式ってわけだ! 面白いじゃないか!」


ロザリンドは狂喜し、即座に黒板の隅に新たな構造式を猛スピードで書き殴り始めた。


「仕組みと材料の目星がつけば、答えをもらったも同じだよ! アタシの技術なら抽出も合成も造作ない! 明日の昼にはあんたの屋敷に届けてやるよ!」


「ありがとうございます。報酬は『百万エル』お支払いいたしますので、まずは半金の『五十万エル』をお受け取りください」


私はガシャッと、金貨の入った革袋を机に残された僅かな隙間に置いた。


「前金を渡すなんて、気前がいいじゃないか。もし私が失敗したらどうするんだい? 取り返したりするのかい?」


「そのままお受け取りください。試行錯誤の時間はタダではありません。人に何かを依頼する以上、その人の時間に対価を支払うのは当然です」


「ははっ! あんた最高だ! 気に入ったよ! 絶対に成功させてやるよ。大船に乗った気持ちで屋敷で待ってな!」


こうして、私たちは最高の協力者を得ることに成功したのだった。



――



屋敷に戻った私は自室の机の上で、残る二つの素材の精製準備に取り掛かっていた。


「ヴァレリアン様……あの、私、お役に立てていましたでしょうか……?」


部屋の隅で、マリエラが少し自信なさげに俯いている。おめかししたワンピースの袖をいじる彼女の様子から、あの天才錬金術師を前に少し気後れしてしまったのだと察しがついた。


「もちろんです、マリエラ。あなたが彼女の噂を知らなければ、今回の事件の捜査は非常に険しいものとなったでしょう。ありがとう、あなたがいてよかった」


私が優しく微笑むと、マリエラは安堵したように、ふわりと顔を綻ばせた。


「さて、ルミノール試薬を完成させるには、発光の要となる粉末のほかに、あと二つの液体が必要です」


私は厨房から集めてきた『かまどの灰』を水に浸し、その上澄み液をガラス瓶に移した。


これで一つ目、アルカリ性の水溶液が完成した。いわゆるこれは灰汁(あく)と呼ばれるものだ。


人類が火を使い始めると、拠点のあちこちに草木を燃やした「灰」が溜まるようになった。


この灰に雨水などが混ざり、触るとヌルヌルすること、そして『その水(灰汁)で洗うと汚れがよく落ちる』ことに人々が偶然気づいたのが始まりだと言われている。


(これぞ古代の洗浄剤。人類の科学への探究心は、遠い昔から存在していたのだ……)



――



次に二つ目、『過酸化水素水』の作成だ。


『オキシドール』に『二酸化マンガン』を加えると、水と酸素に分解されるという小学校の理科の実験で使う材料だ。


あのオキシドールというものは消毒液として使われているもので、うすい過酸化水素水だ。


前世であれば薬局で簡単に手に入れられるものだが、この異世界では存在すらしていない。


私は厨房の戸棚から鍋を取り出すと、マリエラを振り返った。


「マリエラ、地下の工房から、金属のサビ落としに使っている『緑礬油(りょくばんゆ)』と、陶器のうわぐすりに使う『重土(じゅうど)』を持ってきてくれませんか。緑礬油は劇薬ですからね、慎重に扱ってください」


「緑礬油と重土ですね! はい、すぐに持ってまいります!」


彼女が持ってきたのは、古くから職人たちの間で使われてきた二つの素材。


一つ目の『緑礬油』とは、前世でいうところの『硫酸』のことだ。


そして二つ目の『重土』は、重晶石という鉱物を焼いて作られる白い粉で、化学用語では『酸化バリウム』と呼ばれるものだ。


前世において、過酸化水素水が初めて発見されたのは1818年のこと。


フランスの化学者が、バリウムの化合物に酸を反応させることで人工的に生み出した。


「さて、はじめるか……」


私は重土を鍋に入れ、炉で強く熱し、空気を送り込みながら酸素を取り込ませて『過酸化バリウム』へと変化させる。


十分に冷ましたところで少量の水に溶かし、そこに硫酸を慎重に加えた。


ビーカーの底に白い沈殿物がみるみる降り積もっていく。


これは今は不要な不純物だが『硫酸バリウム』といい、胃のX線検査で飲む、あのドロドロした液体の正体だ。


「ヴァレリアン様……上の水が、なんだか透き通ってきました」


「ええ。この上澄みの無色透明な液体こそが、目的の『過酸化水素水』です」


私は上澄み液をさらに濾過し、別の瓶に移し替えた。


人類が苦労の末に編み出した化学の結晶。


まさかそれを、異世界の台所の鍋で再現することになるとは思わなかった。


『アルカリ水溶液』と『過酸化水素水』。これに明日の昼、ロザリンドから届く『ルミノール粉末』を混ぜ合わせれば、見えない血痕を暴く科学の目が完成する。


(科学捜査の歴史から、その材料の精製までに興味を持って、文献を読み漁った前世の『結城理』に感謝だな……)


私は窓の外に広がる王都の夜空を見上げ、明日から始まる真の捜査へと思いを馳せた。

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