【第21話】冤罪の引き金
ライゼンハイマー伯爵邸の執務室は、嵐の前のようなどこか重苦しい空気に満ちていた。
主人であるセオドア様は執務机に両肘をつき、深くため息をついている。
その前には、副団長のニクラスが苦渋の表情を浮かべて立ち尽くしていた。
執事長である私は、存在感を消しながら、温かい紅茶を二人の前に静かに置いた。
「団長。公爵閣下の要求はあまりにも理不尽です。我々騎士団は決して遊んでいるわけではありません。日々王都の治安維持に努め、あの事件の捜査も継続して行っているというのに」
ニクラスが耐えきれないといった様子で、握りしめた拳を震わせながら口を開いた。
「分かっている。現場の騎士たちが寝る間も惜しんで捜査を続けてくれていることは、誰よりも私が理解している。だが、公爵家の御子息が殺害された、あの一年前の事件について、いまだに犯人の手がかりすら掴めていないのは紛れもない事実だ」
セオドア様は紅茶に口をつけることもなく、力なく頭を抱えた。
一年前、王都でも強大な権力を持つ公爵家の屋敷の裏庭で、三男が何者かに刃物で殺害されるという事件が起きた。
未解決事件、いわゆる『コールドケース』と呼ばれるものだ。
騎士団は総力を挙げて捜査にあたったが、夜間の犯行であったため目撃者はおらず、凶器の刃物も見つかっていない。時間が経つにつれて人々の記憶は薄れ、証拠の確保もどんどん難しくなっていった。
そして昨日、ついにしびれをきらした公爵から、騎士団のトップであるセオドア様に対し、非常に強い圧力がかけられたのだ。
内容は、三ヶ月以内に真犯人を捕まえなければ、国王に直訴して現在の騎士団を完全に解体し、別の騎士団を再編成するというものだ。
執務室の壁際に控えていた私は、胸の奥がざわつくのを感じていた。
前世の世界において、警察組織が未解決事件に対して権力者や世間から過度な圧力と厳しい期限を設けられた時、現場の捜査員たちに何が起きるか。
それは、焦りだ。
一刻も早く結果を出さなければ組織が潰されるという強迫観念が、冷静な思考を奪い、捜査の視野を極端に狭めてしまう。
前世の科捜研時代、私は幾度となくそうした現場の空気を見てきた。
焦燥感に駆られた人間は、無意識のうちに自分たちの見立てに都合の良い証拠ばかりを集め、矛盾する事実から目を背けるようになる。
これを『確証バイアス』と呼ぶ。
組織の保身が絡めば、そのバイアスはさらに強固なものとなり、取り返しのつかない冤罪を生み出すことさえあるのだ。
だからこそ、期限を切られた今の騎士団の状況は非常に危ういと感じた。
「ニクラス様、お尋ねしてもよろしいでしょうか。その一年前の事件で、最も疑わしかった人物は誰だったのですか?」
私が静かに問いかけると、ニクラスは顔を上げて答えた。
「当時、公爵家の屋敷で内装工事に入っていた作業員の一人だ。記録によれば、その男は以前から借金の取り立てに追われていたという。だが工事で屋敷を出入りしている間に徐々に借金を返済し、最終的には完済している。一方屋敷内では、工事期間中に腕時計や指輪など、価値のある小物がいくつか紛失したという報告が上がっている」
「しかし、逮捕には至らなかったのですね」
「ああ。状況は限りなく黒に近かったが、犯行を裏付ける決定的な物的証拠がなかったのだ。彼の私物であるバッグの中から見つかった作業服の上着には、大量の血痕が付着していた。だが彼は、作業中にノミを使って木材を加工していた際、手元が狂って大怪我をしたと主張した。その時の自分の血が、上着に染み込んだのだと。我々も彼の怪我を医者に確認させたが、確かに刃物で深くえぐった生々しい傷跡が残っていた」
ニクラスは忌々しそうに舌打ちをした。
「血が付いていても、それが被害者の血なのか、容疑者の血なのかを証明する術はない。疑わしきは罰せず。状況証拠だけでは彼を罪に問えず、釈放せざるを得なかったのだ」
セオドア様が顔を上げ、じっと私を見つめた。
「ヴァレリアン。お前のその科学の知識で、あの血痕が被害者のものだと証明することはできないだろうか? 我々騎士団には、あまり時間は残されていないのだ」
「すぐにはお答えできません。ですが、もう一度その当時の容疑者について科学の目で洗い直す価値はあると思います。私に少しお時間をいただけますか」
私が深く一礼して答えると、セオドア様は力強く頷いた。
「頼んだ。ニクラス、お前は直ちに騎士団に戻り、部隊を再編成して当時の関係者の洗い出しを強化しろ」
「はっ。承知いたしました」
ニクラスが敬礼をして執務室を後にすると、私もまた事件の真実を紐解くため、行動を開始した。
――
ロザリンド錬金科学研究所の丸太小屋。
「つまり、服についた一年前の血痕が、容疑者のものか被害者のものかを見分けたいって話だね」
事件の概要を聞き終えると、ロザリンドが鼻眼鏡を指で押し上げながら言った。
「はい。その真実を暴くために、皆様にはまず人間の血液について、深く知っていただく必要があります。結論から言いますと、人間の血液には大きく分けて四つの種類が存在します。これを前世の言葉でABO式血液型と呼びます」
「やっぱりね。いくつかの種類があるんじゃないかと思っていたんだ。それにしても血液型か、分かりやすい言葉だね」
(まともな顕微鏡すらない段階から、血液の種類に予測を立てていたとは。彼女の天才的な洞察力には毎回驚かされる)
「血液に種類があるんですね。みんな同じ赤い血だと思っていました」
マリエラが不思議そうに目を丸くする。
「前世の世界でも長らく、血液はすべて同じだと考えられていました。そのため怪我や病気で血を失った人に、最初は羊や子牛の血が輸血されましたが、当然のごとく患者は死亡しました。異種族の血液を入れたことで、体内で激しい拒絶が起きたためです」
「さすがに獣の血を人間に入れるなんて、無茶苦茶すぎるよ」
ルーツが顔をしかめて呟いた。
「全くです。その後、獣ではなく同じ人間の血であれば安全だろうと考えられ、人間同士の輸血が行われるようになりました。しかしそれでも、助かる人もいれば、逆に激しい拒絶反応を起こして命を落とす人もいたのです。患者が黒い尿を出し、高熱にうなされて死んでいく理由が誰にも分からないまま、完全に一か八かのギャンブルが行われていました」
「それは今のこの世界でも同じだね。王宮の医者たちが重傷者に輸血を試みることがあるが、成功するかどうかは運任せだ」
ロザリンドが腕を組みをしながら、険しい顔をする。
「そこで、前世の歴史で十九世紀。オーストリアという国の学者が、自分と研究室の同僚たちから血液を採取し、それぞれを順番に混ぜ合わせるという地道な実験を繰り返しました。その結果、あるパターンの時にだけ、血液がドロドロの塊になって沈殿する現象が起きることを発見したのです。彼はこの血が固まる組み合わせの法則から、人間の血液がA型、B型、O型、そして後に発見されたAB型の四種類に分類されることを突き止めました」
「なるほど。だから違う種類の血を体内に入れると、中で血が固まって死んでしまうってわけですね」
ルーツが感心したように声を上げた。
「その通りです。ただ同じ赤い血に見えても、ミクロの視点で見れば、血液の成分が人によって異なっているのです。ひょっとするとこの異世界の人々は、前世の世界とは異なる法則を持っている可能性も否定はできませんが、基本的な概念は同じはずです」
私は力強く告げた。
「つまり、被害者と容疑者の血液型が違っていれば、服に残された血痕が、手の怪我によって付いたという、容疑者の嘘を暴くことができるのです」
私の説明を聞き終えると、マリエラが少し不安そうな顔をして尋ねてきた。
「でもヴァレリアン様。その血液の種類を、どうやって調べるのですか?」
「前世では特定の血液型とだけ反応して血を固まらせる抗血清という試薬を使っていました。しかしこれを作るためには、生きている人間の血を使用し、成分を抽出する必要があります。今のこの世界の設備で他人の生血を扱うのは、未知の感染症などのリスクが高すぎて極めて危険です」
私は前世の科学知識を持つからこそ、血液を媒介とする病気の恐ろしさを誰よりも理解している。
無菌室などの設備がないこの異世界で、他人の血液を大量に処理するなど自殺行為に等しい。
「じゃあどうするんだい? 諦めるのかい?」
ロザリンドが挑発するように口角を上げた。
(ふっ、そう言いながら、ワクワクした顔をしてるじゃないか)
「いいえ。人間の血液を使わずとも、安全に試薬を製造する方法があります。特定の血液型とだけ反応して血を固まらせる成分を持つ植物の種子が存在するのです」
「植物の種が、血を固まらせるんですか?」
マリエラが首を傾げる。
「ええ。植物の中に含まれるレクチンという成分を利用します。前世において、十九世紀。ドイツという国の学者が、植物の種子から抽出した成分が、血液を固まらせることを発見しました。すべての植物に含まれているわけではありませんが、ある特定の植物の種子から抽出したレクチンは、人間のA型の血だけを固まらせたり、B型の血だけを固まらせたりする、鍵と鍵穴のような不思議な性質を持っているのです。これを使えば安全に血液型を判定する試薬が作れます」
「特定の血液にだけ反応する植物の成分か。面白くなってきたじゃないか」
ロザリンドが目を輝かせて立ち上がった。
「ええ。ただレクチンの抽出と、衣服に染み込んだ一年前の血痕から血液だけを取り出すには、新たな科学道具を一から作る必要があります」
「新たな道具ですって!」
ルーツが職人としての好奇心を刺激されたように身を乗り出した。
私は三人の顔を見渡し、静かに告げた。
「さぁ、冤罪を未然に防ぎ、真実を暴くための、新たな科学の目の製作に取り掛かりましょう」




