【第20話】アルキメデスの原理
王都の中心部から少し離れた商業地区。
周囲の景観と一切馴染まない、悪趣味な装飾が施されたボドワン商会。
その扉を再び開け放ち、私たちは商会の応接室へと足を踏み入れた。
部屋の中には相変わらず、むせ返るような強い葉巻の香りと、甘ったるい香水の匂いが充満していた。
部屋の主であるボドワンは、昨日と全く変わらない余裕の態度で、豪奢な革張りのソファに深く腰を沈めていた。太い指にはめられた無数の宝石が、無駄に巨大なシャンデリアの光を反射してギラギラと輝いている。
「おや、昨日ぶりですね、セオドア様。そしてお付きの皆様」
ボドワンは脂ぎった顔に卑屈な笑みを浮かべ、わざとらしく両手を広げてみせた。
「もしかして、昨日の非礼の謝罪に戻って来られたのですか? それとも、あの金貨を叩き割って、私が言った通り中身が純金だったと確認してきた報告ですか?」
勝ち誇ったようなその言葉に、セオドア様は眉一つ動かさなかった。騎士団長としての威厳を保ち、ただ静かに、冷徹な視線をボドワンへと向けている。
そして、背後に控える私へと短く視線を促した。
「謝罪と弁償の準備をするのは、あなたの方です、ボドワン様」
私が一歩前に出ると、ボドワンは鼻で笑った。
「昨日の執事か……負け惜しみを。天秤で量って重さが同じだった以上、あなた方に偽造を証明する手段はないはずだ。割ることも溶かすこともできないあなた方にね」
「ええ。当然、傷一つ付けるつもりはありません。……ルーツ様」
私の呼びかけに応じ、ルーツが背負っていた大きな木箱をテーブルの上にドスンと置いた。ドワーフの少女の小さな体のどこにこれほどの力があるのかと驚くほどの重厚な箱だ。
ルーツは素早い手つきで箱の留め金を外し、中から一つの金属製の道具を取り出した。
「なんなんだそれは? ただの定規のようだが、そんな真鍮の棒切れで何を測るつもりだ?」
ボドワンが訝しげに目を細める。
「あなたの嘘の厚みです」
私はルーツからその道具、ノギスを受け取った。真鍮を削り出して作られたその表面には、寸分の狂いもない精緻な目盛りが刻み込まれている。
「ある数学者が生み出した、副尺という仕組みを用いた精密測定器です。普通の定規は一ミリ単位までしか測れません。ですがこのノギスは、0・05ミリ単位の微小な厚みを正確に数値化できるんです」
私の解説を聞いても、ボドワンはいまいち構造が理解できていないようで、首を傾げている。
「0・05ミリだと? 本当にそんな微細な誤差が測れるものかね?」
「では、実際に見ていただきましょう」
私はまず、造幣局から直接借り受けた間違いなく本物の金貨を、ノギスの測定用の顎で挟み込んだ。
カチッと、金属同士が触れ合う硬い音が響く。本尺と副尺の目盛りが交差する数値を読み上げる。
「ぴったり2・8ミリ。これが本物の金貨の厚みです。次に、あなたの商会が管理する怪しい金貨を測ります」
私は同じように、先日ボドワンから押収した金貨をノギスで挟み込んだ。
そして、目盛りがピタリと一致した場所を読み取る。
「厚みは……2・95ミリ。重さは昨日計測したので、現時点では全く同じと仮定します。ですが、あなたの金貨は本物よりも、きっちり0・15ミリだけ分厚い」
私の宣告に、応接室の空気が一瞬だけ凍りついた。
ボドワンの顔から血の気が引き、額にじわりと汗が浮かぶのが見えた。だが、彼はすぐに首を振り、無理矢理に余裕の笑みを取り繕った。
「だ、だから何だと言うのです! たった0・15ミリだろう!」
「まだ理解できませんか。重さが全く同じなのに、大きさが違う。純金という単一の素材でできているならば、このような物理的な矛盾は絶対に起こり得ないのです」
「い、言いがかりだ! それは王家の造幣局が鋳造した時の、ただの型の誤差だ! あるいは、市場を流通している間に人々の手に触れ、少し歪んだだけだ! その金貨は正規のルートで手に入れた本物であり、間違いなく全て純金だ!」
ボドワンが身を乗り出して叫ぶ。
(歪んだとしても、厚みが増すことなどありえない。もはや冷静な判断もできないとは……あと一押しだな)
想定通りの強弁に、私は胸ポケットから銀縁の片眼鏡を取り出し、右目にそれを装着した。
冷たい金属の感触が、私の中の科捜研のスイッチをオンにする。
私はノギスをテーブルに置き、振り返った。
「ルーツ様、例のものを」
「はい、ヴァレリアンさん!」
ルーツが木箱の中から、昨日組み上げたばかりの巨大な真鍮製の天秤を取り出し、応接室のテーブルの中央に設置した。
それはボドワン商会にあった商取引用の天秤とは全く異なる、異様な形をしていた。
通常の天秤のようなお皿は無く、左右の竿の先端から極細の糸が真っ直ぐに下へと垂れ下がり、その先にクリップが備わっていた。さらに中央の支点部分には、摩擦を極限まで減らすための鋭利な刃先のような部品が使われている。
「ボクの最高傑作の一つ、浮力の天秤です。左右の竿の長さと重さのバランスに、0・1ミリグラムの狂いもありません。そしてこの垂らした糸は、水を一切吸い込まない特殊な樹脂でコーティングしてあります」
ルーツが胸を張って、自信満々に解説する。
私は右の糸の先端に設けた小さなクリップに本物の金貨を、左のクリップにボドワンの金貨をしっかりと吊るした。
カチャンと、天秤が揺れ動き、やがて完全に水平を保ってピタリと静止した。
「わははっ、なんだそれは! やはり同じ重さではないか! わざわざ大げさな道具を持ってきたが、私の無実を証明しただけだったな!」
ボドワンが笑い叫ぶが、私は彼を冷徹に見据えた。
「では、こちらではどうでしょうか」
私の合図で、マリエラとルーツがそれぞれ透明な液体の入った大きなガラスのビーカーを両手で慎重に持ち運んできた。テーブルの上の、宙に浮いている二枚の金貨の真下にそれぞれビーカーを配置する。
「これは、ただの水です。ただし、錬金術の蒸留を駆使して生み出した、不純物が一切存在しない究極の純水です。疑うなら、飲んでいただいても結構ですよ。マリエラ、ルーツ様、お願いします」
「はい、ヴァレリアン様」
「はい、ヴァレリアンさん」
マリエラとルーツは、二つの金貨の下から同時に、純水の入ったビーカーをゆっくりと持ち上げた。
チャプン、チャプン、と小さな音を立てて、二つの金貨が完全に水に沈む。
金貨はビーカーの底や壁面には触れず、水中に吊るされた状態になった。
その瞬間だった。
あれほど完璧に水平を保っていた天秤が、ゆっくりと、だが確実に動き始めたのだ。
ボドワンの怪しい金貨を吊るした左側がフワッと軽く浮き上がり、本物の金貨を吊るした右側へとガクンと傾いた。
「なっ……馬鹿な! なぜ天秤が傾く!」
ボドワンが目を剥いて立ち上がり、テーブルに身を乗り出した。
信じられないものを見るように、水の中の左右の金貨を交互に凝視している。
「細工をしたな! お前たち、その天秤に何か仕掛けをしただろう! 同じ重さでも、俺の金貨の方が少し分厚いんだぞ! もし傾くなら、俺の金貨の方が下に沈むはずだろうが!」
パニックに陥ったボドワンが喚き散らす。
「逆です。大きいからこそ、浮き上がるのです」
「な、なんだと……?」
私は静かに、だが部屋中に響き渡る明瞭な声で告げた。
「水の中に入った物体には、自分が押しのけた水の体積の分だけ、下から上に押し上げられる力が働きます。これを浮力といいます。これは『アルキメデスの原理』と呼ばれる、絶対の物理法則です」
私はビーカーの中の本物の金貨を指差した。
「純金は、この世の金属の中でもトップクラスに密度が高く、極めて重い物質です。そのため本物の金貨は小さく作ることができ、押しのける水の量が少ないため、浮力も小さくすみます」
私は次に、浮き上がったボドワンの金貨を指差した。
「しかし、あなたの金貨は違う。金貨をスライスし、芯をくり抜き、鉛という金よりも軽い金属で埋めた。そのため本物の金貨と全く同じ重さに調整するには、どうしてもほんの少し分厚く作らざるを得なかった。……そうですね?」
「つまり、わずかに大きい偽金貨の方が、強く浮力を受けるということか!」
「さすがです、セオドア様。空気中では重さが同じでも、体積がほんの少し大きいあなたの金貨は、水の中では下から強く押し上げられ、結果として本物よりも軽くなり、上に浮き上がったのです」
ボドワンの顔面から完全に表情が抜け落ち、応接室は完全な静寂に包まれた。
天秤は静かに傾いたまま止まっている。
「これで、あなたの金貨の中身が純金ではないことは、もはや疑いようのない事実として証明されました。さぁ、これから順に浮かび上がる金貨を、片っ端から叩き割っていきましょうか?」
私が宣告を下すと、ボドワンは口をパクパクと動かしたが、声は出なかった。
「そ、そんな……水の中で浮かぶ力だなんて……重さは完璧なはずなのに……」
科学の目の前で、退路を完全に断たれたボドワンは、ドサリとソファに崩れ落ちた。
もはや反論する言葉も、騎士団を脅す気力も残っていなかった。
「ここまでだな、ボドワン」
セオドア様が低く、威厳のある声で告げた。
「偽金造り、ならびにその流通は、国家の経済を揺るがす重大な反逆罪だ。もはや言い逃れはできんぞ。騎士団本部でたっぷりと話を聞かせてもらおう。金貨の加工業者から抜き取った金の流し先まで、すべて吐かせてやる。連行しろ!」
セオドア様がそう告げると、応接室の重厚な扉が勢いよく開き、外で待機していた完全武装の騎士たちが一斉になだれ込んできた。
「立て! 周りの者たちも同行しろ!」
騎士たちに両腕を荒々しく掴まれても、ボドワンは抵抗する素振りすら見せなかった。
彼は取り巻きの者たちとともに、虚ろな目のまま引きずられるようにして連行されていく。
その指にはめられた指輪の宝石だけが、むなしく光を反射していた。
――
翌日の錬金科学研究所。
その窓際の応接コーナーで、セオドア様は深く、安堵の息を吐き出した。
「昨日は見事だった、ヴァレリアン。お前の前世の知識と、それを実現する確かな技術がなければ、あの悪党の卑劣な罠に、この王都の経済が崩壊しかねないところだった」
セオドア様が心からの賞賛を込めて、感謝の意を伝える。
「恐れ入ります、セオドア様。ですが、これは決して私一人の力ではありません。私の知識など、前世の偉人達の受け売りに過ぎないのです」
私はテーブルを囲む三人の顔を見渡した。
「ロザリンド様の魔法と錬金術、そして科学の融合。ルーツ様の一ミリの狂いも許さない極限の精密加工。そして、常に我々を支えてくれるマリエラの献身的な助け。この三人の力が一つに結集したからこそ、浮力の天秤は真実の重さを量り出すことができたのです」
私の言葉に、ロザリンドは満更でもない笑みを浮かべ、ルーツは鼻の下を擦って得意げに笑い、マリエラは頬を染めて尊敬の眼差しを私に向けていた。
「それにしても、あのボドワンの顔ったらなかったですね! ボクめっちゃスッキリしましたよ。ロザリンドさんも来ればよかったのに」
「やだよ、面倒くさい。酒でも飲めるのなら別だが、アタシは事件そのものには興味がないんだ。アタシはこの世の真理に近づくことに、忙しいんだよ」
(全く違うように見える二人の天才だが、まるで時計の二本の針のように、一つの形をなしているように感じるな)
どんなに巧妙に法律の目や人間の心理を欺こうとも、物理法則というこの世界の絶対のルールだけは誤魔化すことができない。
王都の経済を揺るがそうとした偽金貨騒動は、こうして科学の目によって見事に暴かれたのであった。




