【第2話】異世界での科学捜査
騎士団によって容疑者が集められるまでの間、私はマリエラと共に見えない痕跡、すなわち『指紋』を可視化するための準備に取り掛かった。
(指紋採取用のアルミニウム粉末なんて便利なものはこの世界にない。だが、日用品で代用は可能だ)
一度厨房へ戻った私は、小皿に少量の植物油を注ぎ、短く切った綿の紐を浸した。そこに生活魔法で火を灯すと、細く黒い煙が立ち上り始める。
「マリエラ、このガラスのコップを火の真上にかざしてください。……ええ、煙を内側に閉じ込めるように」
「こ、こうでしょうか……?」
指示通りにマリエラがコップをかざすと、すぐに内側が真っ黒な煤で覆われていく。これがアルミニウム粉末の代わりになる、微粒子パウダーだ。
前世の世界において、犯罪捜査に初めて指紋が用いられたのは、あるスコットランド人医師の発見がきっかけだった。
彼が滞在していた東洋の島国、私の祖国である日本で発掘された古代の土器に、くっきりと残された古い指紋を見たのが始まりだ。
そして世界で初めて指紋が証拠として使われた事件もまた、その日本で起きた些細な盗難事件だったとされている。
その時、現場に残された指紋を浮かび上がらせたのも、アルミニウム粉末などではなく、まさにこの煤だった。
(まさか異世界で、前世の世界最初の科学捜査と同じ手法をとることになるとはな……)
「完璧です。それからマリエラが使っている化粧筆を一本いただけませんか?」
「お化粧の、ですか? はい、ちょうど携帯用のものを持っていますが……」
彼女はエプロンのポケットからキャップの付いたペンのようなものを取り出し、私に手渡した。蓋を外し、持ち手の小さなツマミをスライドさせると、柔らかい毛先がニョキッと現れた。
(凝った作りだ。少し高そうだな……)
当然煤をつければ、化粧用としては使えなくなるだろう。
「ありがとうございます。汚してしまいますから、次のお休みに一緒に代わりを買いに行きましょう」
「えっ……ヴァレリアン様と、い、一緒に、ですか!?」
私の言葉に、マリエラはぽんっと音を立てるかのように顔を赤くした。彼女は慌てて視線を泳がせ、両手でもじもじとエプロンの裾を握りしめた。
「あ、あのっ、そんな、お気になさらず! 安いものですから、わざわざお付き合いいただかなくても……」
(なぜマリエラはこんなに慌てているんだ? それにこれが安いものには思えないが、急に愛用品がなくなればさぞ困るだろう。だが今は捜査を急がなくてはならない)
前世から仕事一筋で生きてきた私には、彼女が赤面する理由がまるで分からなかったが、今は事件の解決が最優先だ。私は集めた煤と化粧筆を手に、現場である東棟へと戻った。
――
会計長の部屋の前には、セオドア様とニクラス副団長たち、そして呼び集められた二人の男と一人の女が揃っていた。
「執事、容疑者を集めたぞ。この三人が、朝食後から昼前までの二時間の間に明確なアリバイがない連中だ」
ニクラス副団長があごで示した先には、次期会計長と目されるベテランの副会計長、数ヶ月前に雇われたばかりの若い書記係、そして厨房の下働きの女が並んでいた。
「特にこの副会計長は、被害者と仕事の進め方で揉めていたという証言もある。さらに会計長がいなくなれば自分が次期会計長だ。動機は十分、こいつが犯人に間違いない」
「そ、そんな! 私は無実です! 信じてください!」
ニクラス副団長はその言葉を聞き流し、勝ち誇ったように副会計長を睨みつける。
(転生して四十九年。初めてこの異世界での犯罪捜査を目の当たりにしているが、未だに動機至上主義なのか……。見込み捜査は冤罪の温床だぞ)
内心の呆れを隠し、私はうやうやしく一礼した。
「ニクラス様、迅速な対応に感謝いたします。凶器の証拠を採取する前に、まずは容疑者の『指先の写し』を紙に頂戴してもよろしいでしょうか」
「指先の写しだと? 何の意味がある!」
「すぐに分かります、どうかご協力を。……では、写しの採取の前に、まずこの紙に自分の名前を書いてください」
私は容疑者の三人に紙とペンを回し、その様子を観察する。
(副会計長は左利き、書記係と下働きの女は右利きか……)
そして用意しておいたインクパッドを使い、戸惑う三人の利き手の指先を、一枚ずつ紙に押し当てさせた。
それぞれの指紋を採取した私は、胸ポケットから一つのアイテムを取り出した。
愛用している、銀縁の片眼鏡だ。
それを右目にスッと装着した瞬間、私の意識はただの執事から、真実を暴くかつての解析班のものへと完全に切り替わった。
(いつもはただの老眼鏡だが、こんな気分になるのは、この世界に生まれて以来初めてだ……)
私は気持ちをあらため、かつての記憶をたよりに捜査を開始する。
「準備は整いました。では、凶器に残された痕跡をお見せいたしましょう」
私は被害者に歩み寄り、まず遺体に向かって手を合わせた。
「その動作には何か意味があるのか?」
ニクラス副団長が訝しげに問いかける。
「私なりの、哀悼の意を表す動作です」
そしてマリエラから借りた化粧筆の先に、先ほど集めた細かい煤をたっぷりと含ませた。次に遺体に刺さったままの凶器は抜かずそのままの状態で、包丁の柄の表面を極めて慎重に、ポンポンと化粧筆で軽く叩いていく。
「な、何をしているんですか……?」
アシュトンが不思議そうに覗き込む中、私は指先に微弱な『風の生活魔法』を発動させた。
ふっ、と微風を起こし、柄に付着した余分な煤を吹き飛ばす。
すると何もなかったはずの木製の柄に、犯人の皮脂と汗に付着した煤だけが残り、黒くくっきりとした、五つの丸い模様が浮かび上がった。
「なっ……なんだその奇妙な模様は!」
ニクラス副団長が驚愕の声を上げ、セオドア様も目を見張る。
「これこそが科学の目によって浮かび上がった『見えない痕跡』……指紋です。セオドア様、人間の指先には一人一人全く異なるこの模様が刻まれており、生涯変わることはありません」
「科学……か……」
セオドア様が、初めて聞く『科学』という言葉に強い興味を示した。
そして私は、浮かび上がった包丁の指紋を指し示し、ニクラス副団長へと視線を向けた。
「ニクラス様、まずはこの柄に残された指紋の配置をご覧ください。柄の左側面に、親指を含めた五本の指先すべてが集中して巻き付いています。これは明らかに『右手』で力強く握り込んだ痕跡です。左利きの副会計長が残した可能性は極めて低いと思われます」
「なっ……利き腕だと!? それが見えない痕跡か!」
「ええ。つまり動機があるというだけで彼を犯人と決めつけるのは早計だったということです。……ですが、これはまだ状況証拠の一つに過ぎません。本命はこちらです」
私は先ほど指紋を採取した紙をみなの前に掲げた。
「この指紋というのは、世界に二つとない絶対の証明です。動機などは分かりません。ただこの指紋はこの包丁を握っていた犯人を確実に指し示すものなのです」
私のその言葉に、その場にいた全ての人々が息を飲み、ただ立ち尽くしていた。




