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【第1話】二度目の人生

ライゼンハイマー伯爵家の慌ただしい朝が終わった。


執事長である私は、朝食の片付けが終わり落ち着きを取り戻した厨房に立ち、昼食の献立をチェックしていた。


私はコンロの前に立つと、指先からふっと魔力を放った。パチリという小さな音とともに、青白い炎がガスバーナーのように点火し、やかんの底を熱し始める。


この世界において、魔法とはその程度のものだ。誰もが魔力を持ち、火や風を起こすことができるが、それはあくまで生活を豊かにするためのほんの支えに過ぎない。


(前世はコーヒー派だったが、今ではすっかり紅茶派だな……)


私の名はヴァレリアン・オーギュスト。


男爵家の四男として転生し、このライゼンハイマー伯爵家に三十年仕えてきた。


四十九歳という年齢になり、オールバックに撫で付けた、このグレーのミディアムヘアにも少し白髪が混じるようになったが、引き締まった体型と真っ直ぐな姿勢だけは維持しているつもりだ。


前世と変わらず仕事一筋で未婚の身だが、主人からの信頼も厚く、このまま平穏な執事としての人生を全うするはずだった。


「きゃあああああああっ!!」


しかしその時、穏やかな昼前の空気を切り裂くような、鋭い悲鳴が響き渡った。


あの声は、お嬢様の専属メイドであるマリエラだ。


私は即座に火を消し、声がした東棟の執務エリアへと駆け出した。


廊下の突き当たり、屋敷の会計長が使用している私室の前で、マリエラがへたり込んでいた。


同じく男爵家の出である彼女は二十七歳の、とても美しい大人の女性だった。


左肩から前に垂らしたアッシュグリーンのロングウェーブの髪が乱れ、大きな緑の瞳が恐怖に見開かれている。かなり窮屈そうなメイド服の胸元が、荒い呼吸とともに激しく上下していた。


「マリエラ、落ち着いてください。何があったのですか?」


「ヴァ、ヴァレリアン様……っ、中、中に……」


彼女が震える指で示した開け放たれた扉の奥を、私のブルーグレーの瞳が鋭く捉えた。


机に突っ伏すようにして、会計長が倒れている。そして彼の背中、正確には左胸の裏側あたりに、包丁が深々と突き刺さっていた。


周囲の床には赤黒い血だまりが広がっている。


「……マリエラは直ちに他の使用人を呼び、この廊下を封鎖してください。誰も、絶対に中に入れてはいけません。いいですね?」


「は、はい……!」


優しく、しかし有無を言わせぬ響きで指示を出し、私は部屋の入り口に立った。


奇しくも同じ四十九歳で、病気で死んだ前世の記憶が、脳裏で静かに目を覚ます。


科学捜査研究所、通称『科捜研』。


その現場での地道な遺留品採取を経験し、後に解析班として無数のデータに向き合い続けた日々。


魔法で死者を蘇らせることはおろか、回復魔法さえないこの世界において、遺体は前世と同じように雄弁に真実を語るはずだ。


そして私は廊下の角に置かれている通信魔導具の受話器を手に取り、そっとダイヤルを回した。



――



ほどなくして、ガシャガシャと重々しい金属音を響かせながら数人の男たちがやってきた。


この世界の警察にあたる騎士団の面々だ。


先頭を歩くのは、子爵家次男であり騎士団副団長を務めるニクラス・ロックウッド。


三十代半ばの彼は、長身でがっしりとした体格をしており、短く刈り込んだ赤髪が血気盛んな印象を与える。


その背後には、オレンジの髪に栗色の瞳をした二十代半ばの若手騎士、アシュトン・モンクリーフが続いている。


「執事、ご苦労だったな。だが見張りはもういい。ここからは我々騎士団の管轄だ」


ニクラス副団長は私を一瞥し短く言い放った。


私は一礼をして一歩下がったが、視線は常に騎士団の動向を捉えていた。


「ひどい有様だな……よし、まずはあの凶器を抜いてあらためるか」


ニクラス副団長が若手騎士のアシュトンに、クイッとあごで指示を出す。


それを受けアシュトンは、無造作に部屋へ足を踏み入れた。そして彼は血だまりを気に留めることもなく、遺体に刺さった包丁の柄へと無造作に手を伸ばす。


(おいおい、冗談だろう!)


私は慌ててアシュトンの後を追い、その手が触れる寸前で、彼の手首をガシッと掴んだ。


「なっ……なんですか? 執事さん」


「アシュトン様、これ以上現場を荒らすのはご遠慮いただけますでしょうか」


静かに、だが圧力を込めて告げる。


アシュトンが驚きに目を丸くし、背後のニクラス副団長が眉間に深い皺を刻んだ。


「おい、執事。自分が何をしているのか分かっているのか? ただの雑用係が騎士団の捜査の邪魔をする気か!」


低い怒声が飛ぶ。


無理もない。


科学的証拠という概念すらないこの異世界にとって、遺体に刺さった包丁はただの『死因の確認』でしかないのだ。


だが、元・科捜研の前世の魂が、現場を目の前で汚染されることなど許すはずがなかった。


「差し出がましい真似をして申し訳ございません。ただ私は邪魔をしているのではありません。証拠を守っているのです」


「証拠を守るだと?」


「ええ。その凶器には、犯人を特定するための『見えない痕跡』が残されています。素手で触れれば、それが永遠に失われることになります」


私の言葉に、ニクラス副団長は鼻で笑った。


「馬鹿馬鹿しい! 貴様のような素人が見えない痕跡などと。幽霊かなにかの仕業だとでもいうのか?」


「いや、まずは彼の話を聞こうじゃないか。ニクラス」


緊迫した空気を断ち切ったのは、低く威厳のある声だった。


いつの間にか入口に立っていたのは、ライゼンハイマー伯爵家当主にして、騎士団長を務めるセオドア・ライゼンハイマー様、私の主その人だった。


三十八歳になる彼は、長身で細マッチョという言葉が似合う洗練された体格をしている。七三に分けた金髪と、知性を感じさせる碧い瞳。


私が彼に仕えて三十年、まだ八歳だった頃から世話をしており、誰よりも気心の知れた仲だった。


「だ、団長!」


「セオドア様」


アシュトンとニクラス副団長が慌てて姿勢を正す中、私は静かに一礼した。


セオドア様は遺体を一瞥し、そしてじっと私の瞳を見据えた。私が確証もなくこのような出過ぎた真似をする男ではないと、誰よりも理解してくれているのだ。


「ヴァレリアンがそう言うのなら、間違いあるまい。ニクラス、アシュトン、お前たちは勝手に動くな。……だがヴァレリアン、お前の言う『見えない痕跡』とやらが実際あると仮定しよう。しかし見えないのであれば、それをどう証明するのだ?」


「その証明は必ずいたしますが、まだその時ではありません。証明の前にまず容疑者を絞り込む必要がございます。凶器の包丁は厨房の備品です。持ち手の木目の柄に見覚えがありますので、間違いありません」


私のその言葉にニクラス副団長の目がわずかに見開かれた。すでに凶器の出どころに目星をつけていたことに驚いたのだろう。


「外部から侵入した気配もございませんでしたので、犯行は屋敷内の人間に限られます。朝食の片付けが終わってから、事件が起きたこの昼前までの約二時間。この間に明確なアリバイがなく、単独で動いていた者が犯人かと思われます」


「朝食後から昼前までの二時間にアリバイがない……内部の人間……か」


セオドア様は眉間にしわを寄せ険しい表情をした。


「騎士団の皆様は、その条件に当てはまる容疑者の確保をお願いします。私は『見えない痕跡』を浮かび上がらせる準備をいたします。マリエラ、手伝っていただけますか?」


「は、はい! ヴァレリアン様」


(今回の人生は、平穏な執事としての一生を全うするはずだと思っていたが……)


こうして私の二度目の人生は、四十九歳にして大きく動きはじめた。

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